雨が、さぁさぁと降っていた。
 優しく叩かれる赤い傘を握り締めながら、私はくしゃみを一つもらす。
 足元の運動靴は、さっき車にはね飛ばされた水滴で濡れ鼠になっていて、歩くたびに嫌な音を立てるが、私はそれを無視した。
 穴が開くほど強く、喫茶店のドアを見つめる私の握りこぶしには、自然と力が入る。その視線の先には、ガラスに張りついた求人広告――アルバイト募集、喫茶Herbst


 一話 / 恋はナメクジのように


 小高い集合住宅の中にそれはある。
 落ち着いた焦げ茶色に統一された外国風の喫茶店はHerbstという名前で、ドイツ語で秋という意味らしい。周りの建物と奇妙な調和を生み出しているそこを、私が初めて訪れたのは中学三年生の時だ。
 受験と進路の事で淀んだ心を、ため息気とともに吐き出して、足取り重い私の目についたのはひとつの看板だった。
 温かいハーブティーあります。
 書いた人の性格を反映するような柔らかなチョークの文字に、まるで火にいる虫のように吸い寄せられた。中学生という身分を強調する制服で、それに一人で喫茶店に入るのは初めてだったから少し緊張したが、それはドアを開けた瞬間の温かい笑顔に解けていく。
 いらっしゃい、との言葉にかしこまって頭を下げた私に、マスターと思われる男はカウンターへどうぞ、と言いたげに微笑みながら手招きをした。私はそれに素直に従い、少し高くなっている椅子によじ登るように腰掛ける。ぐらぐらと不安定な椅子に、反射的にカウンターにしがみつくと、その危なっかしい様子に、彼はまた少し笑った。
「今日も寒いね。あぁ、コートは、そっちにかけるところがあるから――温かい飲み物だよね、何がいい?」
「あ、あの……じゃあ、ハーブティーで」
「かしこまりました」
 よく笑うし、随分砕けた喋り方をする人だな、と私は少し面食らっていた。
 しかし初めの緊張はすっかりほどけてしまっていたから、それは喫茶店のマスターという職業がなせる業なんだろうか、と感心する。そして私はマスターが此方を見ていないことをいいことに、向けられた背中をぼんやりと観察しはじめた。
 てきぱきとしているのに、何故かせかせかした感じはしないし、柔らかいチョコレート色の髪の毛は綺麗にセットされている……これが大人の男の人なんだなぁ。
 そんなことに意識をとられていると、ふわり、と爽やかなハーブの香りが鼻をくすぐった。はっと我にかえれば、彼は満面の笑みを向けながら、小さいポットを私の目の前に置いている。
「はい、おまちどうさま」
「はっ、ありがとうございます!」
 ぴしり、と背筋を伸ばしながら礼を言った私に、マスターは少し目を丸くしていたが、私はすぐに視線をポッドへと移した。透き通ったガラスの中では、ピンク、緑色、そして黄色と、色とりどりのハーブが踊っている。小さな花のようなものまで入っていてすごく可愛い。恐る恐るポットを傾け、カップへと注いでみれば、すっと鼻が通るような匂いがした。湯気をたてているカップを持ち上げ、ゆっくりと息を吹きかけながら一口含む。そして広がったのは舌の上を滑っていくようなすっきりとした味。

「……おいしい」
「そう、よかった」
 がちがちになっていた気持ちまで解けていくみたいだった。
 もう一口飲んでみて、染み入るような温かさにまた顔をほころばせる。私の表情が緩みきっていたせいだろう。マスターは耐え切れずといった風に破顔した。
「よかった、元気になったね」
「わたし、そんな疲れた顔してましたか?」
「うん。悩んでます、って顔してた」
 あっさりと肯定されて、私はぐっとお茶を喉に詰らせる……そんな辛気臭い顔で歩いてたところをいろんな人に見られていたのだろうか。ショックだ。
 持ち直りかけた気持ちがまた再び沈殿し始めたが、マスターは本格的に悩み相談に乗る気になったのか、私の瞳をひたと見据えてにっこりと笑った。
「もしかして、君、受験生?」
 その質問に首を縦に振ると、やっぱりそっか、とマスターは柔らかい声で続ける。
「うちの子も去年受験生でね。本人は自分勝手なもんで遊びまわってて、僕の方がやきもきしたよ。大変な時期だよねぇ」
「はい」
 あくまでも軽い口調に私は俯いた。別に何を期待していたわけじゃないけど、この頭の中にもやもやと広がる雲のようなものはどんなことをしても消えてくれそうにはない。頑張れという言葉は聞きたくは無かった。どうすればいいのかわからない、どう頑張ればいいのかわからない。私はそんな焦燥感の中であっぷあっぷあがいていた。
 喫茶店内には沈黙が落ち、ちくたくと鳴る古時計の振り子の音だけがその場を支配する。固まった石像のようになっていた私を少しの間見つめていた後、マスターはぽん、と軽く手を打った。

「ねぇ、君、甘いもの好き?」

 予想もしていなかった話題の跳躍に私はのろまな動作で顔を上げ、はぁ、と腑抜けた声を漏らす。それに焦れる様子も無く、マスターは笑顔で同じ質問を繰り返した。
「ね、甘いものを食べるのは好きかな?」
「え、あ、はい」
 しどろもどろになりながらも肯定すると、マスターは顔を輝かせ、腕まくりをする。
「なら話は早い。血糖値、ぐぐんとあげときなさい」
「……は?」
 呆気にとられている私を置いてけぼりで、マスターは再びてきばきと手を動かすと、綺麗に切り分けられたラズベリータルトを目の前に置く。それに戸惑いマスターの顔を見つめると、食べなさい、と眼で促された。

「勉強ばかりで頭が疲れたら甘いもの、これ基本ね……あ! 安心して。これはサービスだから。可愛い迷える子羊ちゃんとお知り合いになれた記念ってことで、ね?」

 うちの子供も僕のケーキのお陰で高校合格したに違いない、と何故か誇らしげに胸を張ったり、実はこれでも迷える人を導くお手伝いをしていたこともあったんだ、という胡散臭い話を披露するマスターに、涙が出るほど笑った私は、平らげたお皿を前に、久しぶりに心からの笑顔を浮かべてお礼をいうことができた。悩んでいた気持ちはふやふやにふやけて、それは柔らかくて不思議なあたたかい何かに変わっていた。
 マスターはそんな私を見て、初めて太陽を見た人もかくやな顔をして、どういたしまして、と言ってくれたから。
 そのダイヤモンドさえも溶かすような微笑みに、私は、恋に落下したのだ。



 それからは、恋する乙女の執念で通った。がっつりと。
 迷惑じゃないのか、と少し心配はしたけれど、いつも変わらず迎えてくれるその笑顔にほぼ毎日のように会いに行った。そこで勉強をするという口実だったが、実際、好きな人の励ましと笑顔とそして甘いものがあれば、勉強なんていくらでもすすむのだ(気分的に)!
 中学生の身分で喫茶店通いなんて、財布が大打撃を受けていたが、あの柔らかい「いらっしゃい」を聞く為ならお小遣いの前借りも厭わなかった――その罪作りな魅力はまるでホストの如しだ。
 私の思い人であるマスターは、結城さんという名前だった。
 実年齢三十五歳とは到底思えないほどの容姿で、二十台でも通用しそうなぐらい若々くてエネルギッシュだ。思わずそう言った時は、お世辞言ったって何もでないよ、と悪戯っぽく笑っていたが、アップルパイを奢ってくれたのは、嬉しかったからに違いない。そんなところが可愛くて、信じられないほど私の胸はときめいた。
 しかし、現実はラズベリータルトのように甘くない。子供が受験生だった、という話から予想がついていたが、結城さんは既婚者だった。
 はい、残念無念また来世! それは初っ端からの負けゲーム。
 既婚者を好きになったんじゃなくて、好きになったのが既婚者だっただけ!
 どこぞの浮気の泥沼に陥ったOLのような台詞だが、実際、恋に落ちてみると泣けてくるほど真理を付いている。
 しかし、それは過去形で、結城さんは奥さんをすでに亡くしていた――だけど、わかっていたのだ。
 愛しげに左手のリングを見つめるその眼差しが、どんなに奥さんを愛していたのか。いや、愛しているのか。それは変わらぬ現在進行形で。
 ただの小娘だった私には、やはり勝ち目の無い初恋だった。



 見事志望高校に受かった私は、高校生になってもナメクジのように初恋を引き摺っていた。高校に受かった当時は、新しい恋をするべきだ、と考えて断腸の思いで喫茶店通いをやめていた。それでもやっぱり忘れられなかったわけだけれど。
 一回疎遠になると、だんだん行くのが躊躇われてきて、会いたいのに、その反応が怖くて会えないだとか、普通に迎えられても、それはそれで私が来ないのを寂しがってはいなかった、と落ち込むだろうし……という恋する女にありがちな埒の明かない迷路にどっぷりはまっていた。
 そこで地獄に仏。チャンス到来。
 毎日足早に通りすぎながらも、未練がましく視線を投げかけていた喫茶店のドアに、求人広告がかかっていた。それはずるずるに後ろ髪を引かれていた私の心に一石を投じるには十分な威力をもっていたのだ――そしてその結果は、冒頭へと戻る。



 私は、カラカラに乾いた喉を無理やり鳴らした。
 ドアに手をかける動作もいやにゆっくりだが、心の中で気合を入れて、私は意気込みながらドアを押す。その中からは、ふわりと嗅ぎなれたコーヒーの匂いが香ってきた。

 いらっしゃい。

 その柔らかい声に、私の緊張はあの時と同じように溶ける。
 私はその声の主に向かって、自然と笑みを浮かべていた。
 そしてそれは、これから始まる波乱万丈な恋愛模様の幕開けだったのである。



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