八話 / かき氷は儚く溶けて


 私は一度帰宅してから、縁日が行われる神社へと急いでいた。
 お母さんをせっついて出してもらった浴衣は、少し防虫剤の匂いがして、私は日頃はつけないコロンなんてものをふきつける。足には慣れない下駄を履いて、それが歩くたびにカラコロと楽しげな音をたてた。それに比例して、私の心は密かに浮き上がっていたのだ。
 神社は喫茶店から十分ほど歩いた所にあった。
 住宅街からは少し外れた所にあるそれは、学業の神様を祭っていてなかなか規模が大きい。
 私が到着したのは約束の時間より五分ほど前で、鳥居の下は混雑していた。浴衣を纏った幾人かが、きょろきょろと自分の待ち人を探している。
 境内も、石畳に沿って吊り下げられた提灯がぼんやりと道を示し、色とりどりの浴衣をまとった男女がふらふらと歩く様は、まるで水の中を泳ぐ金魚のようだ。スピーカーから流れるのは安っぽいエレクトロニックな雅楽だったが、それでも雰囲気は十分に出ていた。

「お待たせ」
 ぽん、と軽く肩を叩かれ振り返ってみると、結城さんだった。
 結城さんは何時も店に出るような、Yシャツにストレートパンツというラフな格好で、私の姿をじっと見ながら、にっこりと甘い笑みを浮かべる。
「浴衣、すっごく似合ってて可愛いよ。やっぱり女の子の浴衣姿はいいよねぇ」
「結城さん、その言い草は親父臭いですが」
 呆れたように溜息を吐いたのは峰藤だ。
 奴もYシャツにジーパンという普段どおりの格好だったけれど、細身のシルエットは十分様になっている。足の長さが悔しい事に私とは比較にもならないのだ! 不公平!
「だって、ほんとに似合ってるから。綺麗なものは讃えなきゃ」
「あ……どうも。有難うございます」
 その大げさすぎる賛辞には参ったが、好きな人に褒められて嬉しくないはずが無い。私はかっかと燃えるような頬を両手で冷やしながら礼を言った。
 ひらひらしてる。
 そう、褒め言葉かどうか怪しい台詞を吐いた桂木は、唯一三人の中で浴衣を纏っていた。
 明るい水色の浴衣は薄い髪の色と良く合っていたし、浴衣の襟から覗くうなじとか胸元とかから排出されるフェロモンがいつもの三割増しだ。というか、私が完璧に引き立て役じゃね?
 通り過ぎる人の視線を釘付けにしている桂木に引き摺られながら、私は鳥居をくぐった。



 林檎飴にベビーカステラ。
 たこ焼き。烏賊焼き。どんぐり飴。
 お好み焼き。焼きソバ、エトセトラエトセトラ。
 目に付く限りの食べ物を両手に持ちながら、桂木はさらに屋台を指差した。
「ばああちょこだ!」
「え、まだ食べるつもりですか?」
「あたりはへだ! ほへをはんはとおもってふ!」
「はいはい、ちゃんと食べてから喋って下さいね」
 まるで彼の従者のように、傍で食べ物を持たされていた私は呆れたように彼を見上げる。
 一個半は飛び出している彼の顔は楽しそうにキラキラしていて、まるで無邪気な子供そのままだ。それは目の保養で悪くは無いのだけど、私はやっぱりどうしても結城さんの隣を歩きたかった――その名誉在るポジションは奴が確保しているから、余計に恨めしく感じるのかもしれない。

「射的がある」
 烏賊焼きを片手に持ちながら桂木は走り出す。
 その背中をため息で見送ってから、人ごみを避けるように木の下に一度避難すると、それに気づいた結城さんがこちらへとやってきた。峰藤の姿が見えず、聞いてみるとどうやらカキ氷を買いに行ったらしい。そのまましばらく戻ってこなければいいのに! とちょっと本気で思ってしまいました。
 突然訪れた二人きりと言うチャンスに動揺して、急に言葉が出てこなくなってしまった。
 気の利いた会話をひねり出そうと四苦八苦していた私の横で、突然に結城さんが思い出し笑いをする。それに問いかけるような視線を送ると、ごめんごめん、と結城さんは軽く首を振った。
「いや、昔来た時も拓巳、あんな感じでね。ぜんぜん変わらないなぁと思って」
「会長、大はしゃぎですもんね」
「それで、突っ走りすぎて迷子になってね……奥さんと一緒に探したっけ」
 懐かしそうに目を細めて語る結城さんに胸が痛くなる。その記憶の中には、生き生きとした彼女が写し出されているのだ。

 僕の奥さんも浴衣着ててね綺麗だったなぁ。
 さっき、拓巳と君の後姿見て思い出しちゃったんだ。
 ……御免ねぇ、こんな話面白くないでしょ。

 おどけた様に言った結城さんの口調は、これまで聞いた事が無いくらい酷く優しくて、そのもろい硝子細工のような儚さに、私ははっと息を詰めた。それには本人でも気づかないくらいの痛みの粒子が含まれていたから、私は胸の痛みを無視しながら首を横に振る。そして、少しの沈黙の後、結城さんはゆっくりと息を吐き出した。

 この縁日にね、一緒に来てたんだ。毎年。
 それで、まいったなぁって思った。あの提灯とか、笛の音とか何にも変わらないんだもん。
 実はね、今回来たの彼女がいなくなってから初めてなんだ。それまではちょっと、来れなくてね。
 どこにも彼女がいないってのはわかってるんだけど、それを確認するのはまだ怖くて――君が誘ってくれなかったら今日、ここにはこれなかったと思う。
 まったく。いい年した大人が情けないよね。ホント。

 結城さんは誤魔化すように笑った。
 今でも思い続けてもらえる奥さんに少しも嫉妬しなかったと言えば嘘になる。
 だけど、私は結城さんの取り繕った表情を見るのが辛かった。吐き出す痛みに平気なふりなんてして欲しくなかったのだ。
 私は衝動的に結城さんの手を握りしめる――その拳は氷のように冷たくて微かに震えていた。私のこの熱が、結城さんを少しでも勇気付けられたら。私はさらにぎゅうっと拳に力を込めた。

「情けなく、ないですよ、情けなくなんてない」

 まるで自分に言い聞かせるように、声が震えないように、私は唇を噛み締める。

「怖がっても、良いんです。だって、それは結城さんが忘れたくないと思っている、証、だから。それに、結城さんの奥さんは"今この場"にいなくても、"いつもそこに"居るんですから――結城さんが奥さんを想って、いるかぎり、その存在は永遠に消えないって……私は、思う、んです」

 陳腐で在り来たりな言葉に、私は恥ずかしさの余り泣きそうになった。
 私のような小娘の台詞は、結城さんの気持ちを逆撫でしたのではないだろうか。結城さんの大事な部分を踏みにじってはいないだろうか。
 いたたまれない気持ちに襲われ、私は顔を上げることはできなかった。



 沈殿する重い雰囲気の中、ゆっくりと空気が動き、私の頭の上には温かい手が置かれる。
 そして聞こえてきた声は、普段どおりの柔らかい結城さんの声だ。
「ホントに、僕、情けないなぁ。こんな若い子に愚痴ちゃって」
「だから、結城さんは、ぜんぜん情けなくなんてないですってばっ……!」
 下を向きながらも半べそで言った私に、結城さんは苦笑を漏らした。迷子の子供をあやすような慣れた手つきが、私の頭のラインを何度も何度も滑っていく。
「ありがとう。凄い楽になった……君ってほんとに良い子だねぇ。絶対将来良い女になるよ。うん。僕のお墨付き」
 たぶん最後に茶化すのは結城さんの照れ隠しなのだろう。私はその声に勇気づけられるように、顔を上げて少し無理をして笑って見せた。結城さんのダークブラウンの瞳に視線がぶつかり、刹那、喉が鳴る。緩みそうになる涙腺を必死で引き締めて、私は唇を噛み締めた。

「……桂木会長、また迷子になってると思います。結城さん探してきてください」
「そうだね。だけど、君は?」
 唐突な提案に結城さんは、意表を付かれた様だったが、確かに桂木が戻ってくる気配はまったくしないことに気づいたようだ。
「私、足が痛いんで。少し、ここで休んでます」
 ちらり、と結城さんは足元に視線を落とし、心配するような表情になった。それに大丈夫だ、と首を振って、私は結城さんからすっと視線を逸らす。
 足が痛かったのはほんとうだったけど、実はけっこう嘘だった。

「大丈夫? 一緒に居ようか?」
「大丈夫、ですから」

 少しだけ強い口調になってしまったかもしれない。しまった。かなり私は切羽詰っているらしい。
 じゃあ、絶対大人しくしててね。動いちゃ迷子になるからね、と子供に話しかけるような台詞を残して結城さんは人ごみに消えていった。
 私はその背中をじいっと見送ってから、そこにあった適当な大きさの石に腰掛ける。冷たい石の感触が伝わってきて、沈みこんでいた心までがじんわりと冷えた。結城さんが少し前まで触れていてくれた頭からも、その熱はすぐに失われていく。
 すると、さっきから、ずっと我慢していた涙がついに零れた。
 ほろほろと際限なく流れる涙が浴衣にまだらの水玉模様を作っていく。嗚咽が漏れないように強く噛み締めた唇が切れて、血の味が口の中に広がった。

 勝ち目なんて最初っから無い。結城さんは今でも奥さんを愛している。
 それはわかっていたことだ。だけどどうしても諦めきれないから、それを覚悟したうえで結城さんの事が好きなんじゃなかったのか。
 だったら何が悲しいのだろう。なぜ私は泣いているんだろう。



 ぱきり、と小枝が割れる音が聞こえて、私は弾かれたように顔を上げる。
 そこには両手にかき氷を持った峰藤浩輝が、いつもの無表情でそこに佇んでいた。
 今、一番会いたくなかった天敵の姿に、私は絶望する。
 涙は止まらないし、酷い顔をしていることはわかっていたが、私は顔を背ける元気もない。できることならば放っておいて欲しかったが、嫌味を言うつもりなのだろうか、落ち込んでいる私に追い討ちをかけるつもりなのだろうか、峰藤は歩みをすすめ、私の前で止まった。
 私は最後の気力を振り絞って、浴衣で顔を拭うと、できるかぎり低い声を出す。

「何か用ですか?」
「――振られ虫の見物に」
「まだっ、振られてませんけどっ」
「まだ、と言う事は望みがない事は自覚したんですね」
「聞いてたんですか……さいていの、のぞき趣味です」

 かっと頭に血が上り、精一杯の悪態をついてみるけれど、峰藤は一向に動じた雰囲気はなかった。私が泣いていることなんてわかっているはずなのに、それには触れずただ真っ直ぐと私を見ている。私はすっと差し出された峰藤の腕に視線を移した。

「おひとつ、いかがですか」

 それは峰藤が買い出しに行っていたカキ氷だった。
 しかし、時間を隔てたせいか、手の中の氷は溶けかけている。
 冷血動物の峰藤の手にも体温なんてものがあったんだな、と場違いな感動を覚えながらも私はそれを受け取った。
 安物のプラスチックの器の中で、毒々しいストロベリー色の液体がちゃぷん、と踊る。
 氷を口に含めば、冷たい粒子は舌の上ですぐに溶けて、その儚さがなぜか切なかった。

「貴方は馬鹿ですね」

 唐突に呟いた峰藤の声色には、その言葉とは裏腹に皮肉もからかいも含まれていないように思えた。それでも私は酷く悲しい気分になって、もう一度、視線は重力へと従う。

「副会長に言われなくても、解ってます……どうせ望みの無い恋愛している大馬鹿者ですよ」
「誰もそこまで言っていませんが」

 卑屈になりすぎです、と深いため息を吐かれた。
 だっていってるじゃん。人が落ち込んでいる時に、なんて嫌な奴なんだろう、と私は無言で峰藤の薄情さを責めた――こんな冷血人間に少しでも慰めなんか期待する人間が馬鹿なのだろう。
 いつまでたっても顔を上げない私を峰藤はしばらく見つめていたが、そのうち肩をすくめたような雰囲気が伝わって奴は踵を返す。しかし、その足跡が遠ざかる前に、ほぼ囁くような音量で峰藤は口を開いた。

「貴方は馬鹿ですが、亡くなった人を貶めるほど愚かではない――少しだけ認識を改めます」

 初めて耳にした、峰藤の棘の無い言葉に、私ははっとして顔を上げる。
 生憎、峰藤は背を向けていたから、その表情までは見えなかったが、それは私の涙を止めるには十分な驚きだった。
 そして、遠ざかってく背中に衝動的に声をかけると、峰藤は足を止める。
 なぜ峰藤を呼び止めてしまったか自分でもさっぱり解らなかったが、それでも何か言わなければ、という焦りから、峰藤がこちらを振り向く前に私は勢いよく頭を下げた。

「……みっともない所、見せてすいませんでした」
 奴が背を向けていてくれてよかった。
 たぶん、絶対に、あの目を直視しながらは言えなかったと思う。

 私が恐る恐る顔を上げれば、峰藤は振り返り、こちらを見た。
 私の視線と眼鏡の奥の凛とした瞳が交差すれば、そのぬばたまは奇妙に歪んで、奴はまた深いため息をひとつ吐く。

「普段とは違って今日は随分しおらしいんですね――いつもそうしてたらいかがですか。万が一の確立で結城さんも騙されるかもしれませんよ……絶対に有り得ませんが」

 大きなお世話だし、どっちやねん、というつっこみを心の中で入れながらも、私は大きく深呼吸をした。峰藤の唇の端は皮肉げに吊り上っていたがあまり腹が立たなかったのは、峰藤の言葉に険が含まれていなかったからに違いない。
 私は気合を入れて立ち上がり、背を向けて人ごみへと消えていく峰藤の背中を追いかけた。二度と立ち上がれないと思っていたその場所から。



 戦利品を腕に抱えて戻ってきた桂木と、結城さんに合流してみると、どこかで何かを口にしたのだろう、彼らの舌は見事な緑と青色に染まっていた。

 「お前も妖怪人間だ!」

 と嬉しそうにはしゃぐ桂木をあしらいながらも、いつの間にか結城さんの前でも自然に笑えている自分を自覚して、私は思った。
 ――ほんの少しだけあいつに感謝してやっても良い。
 そうして、私の舌も屋台の金魚のような毒々しい赤に染まっていたのだ。



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