九話 / 先生は二人も要りません


「有難うございました」
 カランコロンとベルが軽やかな音を立て、私は客を見送った。
 飲み干された紅茶カップを手早く洗うと、私ははぁとため息をつく。それを見咎めた峰藤が、小姑ばりの目ざとさで、ここぞとばかりに嫌味を言った。
「溜息なんかつかないで下さい。辛気臭い」
「辛気臭くて、スミマセンネ」
 私の反抗的な台詞に片方の眉を器用に上げてから、峰藤はそれ以上は何も言わずにキッチンへと姿を消す。
 あの日一瞬でも抱いた感謝の気持ちはどこへやら。峰藤の態度は相変わらずも冷淡だった。
 アルバイトのほうは慣れも手伝ってか、かなり手際が良くなってきたし、紅茶も峰藤には及ばないがそれなりに自分でも納得の出来る味になってきたように思う。しかし、あの峰藤が「ぎゃふん」なんて天変地異が起こったとしても言いそうに無い。
 いよいよ夏も終盤に近づき、暑さもましになってきたが、それはイコール夏休み限定のこのアルバイトの終わりが近づいているという事でもあった。結城さんと毎日会える状況が終わる事への寂しさと、せっかく働く面白さが解ってきたのにと思うと、かなり残念な気持ちになる。
 零れそうになったため息を飲み込んで顔を上げてみると、何時もの定位置で桂木が何かノートのようなものを広げて取り組んでいた。ちなみに今日の彼のお召し物は派手なアロハシャツだ。
「会長、何やってるんですか?」
 桂木が漫画を読んでいない所を見たのが初めてだったから、少しだけ興味を引かれて声を掛けてみれば、桂木はそれに集中しているらしく、シャーペンを動かしながら顔も上げずに答える。
「課題だ」
「げ」
 思わず漏れた私の声に、伏せていた顔を上げると、桂木は少し首をかしげた。
 ふわりと茶色の髪がそれにつられて踊る。
「まさか2C、やってないのか?」
 ――そのまさかですよ。すっかり忘れてた。
 がっくりと、肩を落とした私の様子にけらけらと笑うと、ご愁傷様だな、と桂木は憎らしい事を言う。
 それが悔しくて、会長が真面目に宿題やるなんて槍でも降るんじゃないですか? と意趣返しに言ってみたら、その通りだな、とあっさりと返されて拍子抜けた――この人に嫌味は通用しないらしい。
 ああ、間に合わないかも……紀子に見せてもらおうかな。
 他力本願も何のその。
 夏休み前にどっさりと宿題を出した理科教師大坪の怒鳴り声を拝聴するよりは、プライドとほんの少しばかりの上納金を無くす方がマシだ。
 頭の中で友達の伊藤紀子に頼み込み、そのお返しに駅前のケーキをおごる算段を立てていると、またもや桂木がとんでもない事を言い出した。

「俺が教えてやろうか?」
「いりません」

 キャッチセールスはきっぱりと断りましょう。
 その標語通り私は即答した。
 不機嫌そうに桂木は頬を膨らませたが、それは高校三年生がやる顔ではない。鳥肌がたった腕を擦っていると、桂木は顔をテーブルの上に乗っけてぶーぶー言い始めた。お前は車か!

「俺が親切で言ってやっているのに、なんだその態度は!」
「会長、親切の押し売りって知ってます?」
「俺が知らない事は無いっ!」
「……恥と言う言葉は確実に知らないと思うんですけど」
「なんだと!」

 ぐりぐりぐりと両腕で私の頭を締めつけて、イタイイタイ! ギブです! ギブ! と、喚く私の反応に高笑いをする桂木。いたいけな乙女になんたる仕打ちだ!
 その騒ぎは嫌でも聞こえていたのだろう、キッチンから顔を出した峰藤は心底嫌そうな表情を浮かべて冷たく言った。
「桂木、営業妨害するなら出て行って下さい」
「お前に指図される覚えは無い! ひっこんでろ眼鏡!」
 その言い方に腹を立てたのか、桂木も負けずに仁王立ちプラス大音量で言い返す。

「……桂木、本当に煩いですよ」
 峰藤の地を這うような低音の声に、その機嫌の悪さを感じた私は慌てて間に入る。
 下手をすると血を見る! と洒落じゃなくそう思った末の行動だ。
 桂木は喧嘩も強いと聞いていたが、峰藤は光物とか持ち出しそうなタイプだから、とても恐ろしい――ほら、今キッチンとか近いし!

「……じゃ、じゃあ会長! お願いできますか! いやぁ嬉しいなぁ。会長に教えてもらえるなんて! とても光栄です!」
 いつもならありえないテンションの高さに二人は驚いていたが、その後の反応は正反対だった。
 ある方は満足そうに瞳を輝かせ、もう一方は馬鹿にするような視線で私を見たのである――どっちがどっちであったかは想像にお任せするとして。
 満足そうに大きく頷いた桂木は、くふふと笑って峰藤を見る。

「じゃあ、藤も日曜日に図書館集合な!」
「なんで私が付き合わないと」
「なんで副会長も来るんですか!?」

 思わず非難するように漏れてしまった声。
 後から口を押さえても、時、既に遅し。お前はもう死んでいる。

 ほう、と嫌にねっとりとした声で、峰藤が腕を組んだ。

「貴方は私だけには勉強を教わりたくないと」
「そんなこと」
 ありますけども、という台詞は怖すぎて口に出せない。
 所詮この世は弱肉強食。言ったとたん、私はフレッシュなミートになってしまうかもしれない。というか、私の台詞が勝手に誇張されているのは、気のせいだろうか……いや気のせいではないと思う。
 峰藤の笑みが般若のように深まって、私は、にゅ、と生えた角を見たような気がした。

「あの阿呆に教わるのは光栄で、私に教わるのは不服だと、貴方は仰るのですね?」

 その顔、一週間ぐらい夢でうなされそうなぐらい、ものごっつ怖いんですけど!
 阿呆とはなんだ! この眼鏡! と叫んでいる桂木をよそに、私は見事に体を折り曲げて、四十五度のお辞儀をする。
 ……どうか教えてください。お願いします。
 完璧に奴に言わされた台詞なのに、峰藤はこれ以上無いほど不愉快そうな顔をする。
 そして、大変不本意ですけど、と偉そうにのたまったのだった。



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