十話 / 宿題は早めにやりましょう


 残暑ですね。そうざんしょ――自分の洒落で自分を追い込んでどうするよ。
 この切羽詰った状態で、私の精神はぎりぎりな所まできていた。
 だって、だって、なんで桂木は来ないんだ!
 隣には般若、もとい峰藤浩輝が座っている。
 その幅30センチメートル。しかし心理的隔たりはその何倍もあることは確実だ。というかまず、般若なんて称されてしっくり来る高校三年生ってどうよ、という感じだが、南高の十人中九人はそれに賛同してくれると私は確信している。
 峰藤は先刻から無言で前方を睨みつけていたから、私は小学校時にならった火災訓練の『おかし』を心のなかでぶつぶつと繰り返した。
 「おさず、かけず、しゃべらず」平たく言えば、こっそり逃げろ。
 そんなどうでもいい思考は峰藤の深いため息で中断させられる。反射的に視線を落としたスイス製の時計は、既に約束の時間を十分以上過ぎた所をさしていた。私は少し早めに着いたのだが、もう峰藤は待っていたから一番長く待っているのは奴だし、しかもいいだしっぺの桂木が遅れている、というのであれば不機嫌にもなるだろう。
 このままの空気も非常に耐え難く、私は遠慮がちに口を開く。
「……き、来ませんね」
「桂木のことですから、常に三十分は遅れてきます」
「はぁ、会長らしいというか」
「しばき倒したいですね」

 怖っっっ!
 私の怯えたような視線に気づいた峰藤は、冷静な声でさらりと、フォローした。
 冗談ではありません。何度首を絞めても許されるぐらいの多大なる迷惑は、日々、桂木から被ってますので。それぐらいの権利は私にあってしかるべきだと思いませんか?
 そこは笑って、冗談ですって言う所!
 据わった目をした人間に殺人予告ちっくな話を聞かされるところを想像してみて欲しい。
 私は乾いた声でそれに相槌をうつと、峰藤に倣ってうつろな目で前方に向けた。
 残暑が厳しい時期なのだ。このまま図書館の外で待っているのも馬鹿らしい。
 喫茶店で毎日会えるのに、わざわざ図書館を勉強の場に選んだって事も解せなかった。それでも峰藤とマンツーマンで勉強する恐ろしさに比べたらマシだと思っていたから我慢していたのに。
 だがしかし峰藤は不機嫌さを滲ませながらも、先に中に入っていましょうと立ち上がった。
 拒否権? それって美味しいの?
 私は胡乱な返事を返しながらも重い足取りで図書館へと入っていたのだった。



 最近改装された市立図書館は床までぴかぴか光っている。
 二階に分かれていて、一階は児童書と学習ルーム、二階は一般書という振り分けになっていた。夏休みだからか、学習ルームには学生の姿が多く、当然そこに行くと思った私は、階段を昇っていく峰藤の背中を怪訝そうに見つめた。
 背中に目でも付いているのか、峰藤はこちらに振り返ると、静かなトーンで「他の学生の邪魔になるでしょう」とごく当たり前の理由を述べる。
 南高生には絶対に一緒に居る所を見られたくない! と思っていたけど、幸いな事に心配する必要はなさそうだ。
 書架の陰になるような所にあった場所に峰藤は腰掛けると、早速ノートを広げ始める。私が躊躇していると、何をもたもたしてんだ。とでも言いたげな視線をこちらに向けたから、私は急いで隣の椅子に腰を下ろした。――少しだけ距離を取る様に椅子を引き離すのは忘れずに。
「何が残っているのですか?」
「えっと、物理と数学の課題と歴史のレポートと古典の訳と……」
 つらつらと述べていく度に、峰藤の眉間のしわが深まっていくのが見える。そんなに量があるのなら早く片付けるのが普通でしょう? 正真正銘の馬鹿ですか? という怒りが渦巻いているのだろう。しかしそれを嫌味として口に出すよりは、時間の有効さを考慮したのか「早速始めましょう」と峰藤は言った。「じゃあ物理から。……お願いします」と、遠慮がちに声を出すと、峰藤は何時もの動作で眼鏡をすい、と押し上げた。

 峰藤の教え方は上手い。無駄が無く、先生よりも解りやすい説明に私はこっそり感心した。数回はこの程度も解らないのかという視線で呆れられたが、一番苦手な教科だった物理は、思いのほかあっさりと終わってしまった。出来の悪い生徒―つまり私にストレスがたまったのか、終わったとたん峰藤は深く息を吐いた。
「あの、飲み物買ってきます」
 そそくさと席を立ち、一階にある自動販売機コーナーへと足を運んだ。硬貨を投げ入れてから自分用にコーラのボタンを押すと、カップが落ちてきてそれになみなみと黒い液体が注がれていく。カップを取り出し、しばらくの間考えてから私はお金を再び投入した。

 席に戻ると峰藤は私の教科書をパラパラと捲っていた。腰掛けてから手に持っていたコーヒーを峰藤のほうに遠慮がちに押しやると、案の定怪訝そうな視線が飛んできた。
「コーヒーです……お礼ですけど。一応」
 ついつられるように、つんけんした台詞が飛び出してしまい、取り繕いの言葉を急いで付け足した。それに返ってきたのはごく真っ当な言葉だったから、私はその怪訝だった表情の意味を理解した。
「普通、図書館は飲食禁止の筈ですが」
「あ」
 この図書館には確かに自動販売機スペースがあるが、飲食が許可されているのもそこだけだったはずだ。
 まるっきり裏目に出た自分の行動を悔やみながらも、私はすごすごとコーヒーのカップを引っ込めた。すると椅子をひいて峰藤が無言で立ち上がったから、私は驚いて思わずコーヒーを引っくり返しそうになった。峰藤は呆れたように一つため息を付くと、私の手からコーヒーのカップを取り上げる。
「……貴方は本を駄目にするつもりですか? 十分後再開します」
 峰藤の背中をすこしの間唖然と見つめてから、私も司書さんの物言いたげな視線に冷や汗をかきながら階段を下りていった。


 飲食が可能なスペースはそんなに広くなく、避けるのもあからさますぎたから、私は峰藤のまた隣ぐらいの位置に腰を下ろした。そこから軽い世間話が始まるわけもなかったから、私は重苦しい沈黙の中コーラをすすった。すると峰藤が唐突に口を開く。
「元気そうですね」
「え? 誰がですか」
 その質問の意図がいまいち掴めなくて、私は間抜けな返事をした。
「貴方の他に誰が居るって言うんですか? あの時は元気なかったみたいでしたけど」
 峰藤が言うあの時がすぐに思い至ったが、まさかいきなり話題に出されるとは思ってなかったから、私は激しく動揺してしまった。
「あー……えーどうもお蔭様で。あ、その、できれば忘れていただけると有難いかなぁ。なんて」
 私のしどろもどろな様子に、峰藤は微かに笑ったような気配がした。それも一瞬の事で峰藤は「じゃああなたは諦めたんですか、それはよかった」とそっけなく言った。

「そんな事いってません!!」
「……お忘れのようですが、ここは図書館ですよ」
 立ち上がりかけ思わず叫んだ私にジロジロと周囲の視線が突き刺さった。それに曖昧な笑みを浮かべてから私はゆっくりと腰を椅子へと戻した。
 思い切り峰藤を睨みつけると、奴は顔を背けながら肩を震わせている。そして誤魔化すようにゴホン、と咳をすると「有り余るほど元気だという事がわかりました」と言った。はっきりとからかわれたのに頭に血が上ったが、私が文句を言う前に峰藤は空になったカップをゴミ箱に捨てて、立ち上がった。
「十分過ぎました、行きますよ」
 憮然としながらも私も立ち上がると、そうだ、という風に峰藤が振り返った。
「今度から、お礼のコーヒーは加糖にしてください。……勉強する時は血糖値上げたほうがいいでしょう?」
 それは前に結城さんが私に言った言葉だったから胸がどきりとした。そんな私の様子に峰藤は確信犯的なニヤリ笑いを浮かべる。
「なんですか変な顔して。結城さんの受け売りですよ」


 その後、一時間は遅れてきたくせに悪びれない様子の桂木は「俺は数学を教えたいんだ!」と数学を教授してくれたけれど、彼の教え方は公式抜きの結論のみだったので、むしろ宿題を妨害しているとしか思えなかった。しかも数学以外は興味ないらしく、峰藤に他の教科を押し付けて、自分は漫画を読みふけり始めた。――桂木が新しい図書館を勉強場所に選んだのも、ブラックジャックシリーズが入ったから。という素晴らしく私的な理由だったのだ。
 桂木の傍若無人に峰藤はイライラしだすし、とばっちりが私にも来るので、冷や汗をかきながら私はシャーペンを動かした。その結果、驚くべき速さで宿題を片付ける事ができたのだが、二度とこんな神経の擦り減るような環境で宿題をやるものか。と私は決心した。

 教訓、宿題は早めにやりましょう。



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