十二話 / 姫、隈取メイクで俵のように担がれる


 新学期が始まった。
 夏の暑さを引きずったまま、私も残暑に当てられたダルイ体を引きずったまま、じきに見えてくるであろう校門を目指して歩いていた。
 その歩行、まるで亀の如くである。
 ずりずり、と下手したらナメクジのような引きずれた音をさせながら、重い足を上下左右に動かす。ふらふらと微かに体が揺れているのも気のせいではないだろう。はっきり言って、昨日はまともな睡眠をとる事ができなかった。

「三分以内に、どら焼き買ってこい。無理だったらコブラツイストだ!」
 嬉々とした表情で、手をわきわきしている桂木やら――寧ろ、コブラツイストをやる為の口実としか思えない。

「役立たずは役立たずなりに役に立ってください。踏み台になってみるとか」
 あの不吉な笑顔で、足の裏を見せてくる峰藤やら――踏む気満々だ。

 ザ・ナイトメア、訳して悪夢。うなされては飛び起き、再びノンレムとレム睡眠の狭間で悪夢を見る。その地獄のサイクルから開放されて安堵の息をついたとき、ドラえ○ん目覚ましの無神経なメロディーが鳴り響き、私はついにキれてそれに裏拳を入れた。
 がしゃん、という音ともに、正気に戻って見れば、十数年、朝日をともにしてきた猫型ロボットは無残にも、その最後を迎えていたのである。――というか、やったの私だけど。
 それも、これも元はといえば、峰藤とか峰藤とか峰藤とか桂木の所為で(憎しみの値に比例している)バイトの最終日にあんな風に脅しを入れるから――もっとも彼らにとっては脅しだとまったく思ってなさそうだが。その強迫観念からか、新学期の前日にこんな悪夢をみたのだろう。
 娘の目の下の隈を見て、新しい流行は隈取メイク? とかすぼけた迷句を残していた母をぎろりと睨みつけてから、私は精神的にも肉体的にも疲労困憊で家を出た。

 その歩みの遅さの所為で、坂を上りきる前に予鈴が聞こえてきた。この鈴の音が聞こえる前に校門に辿り着かないとアウトである。私は、転がったほうが早いんじゃないか? というスピードで走りながら校門を目指した。後から来た生徒がどんどん私を追い越していく、生徒指導の東山先生の緑色のジャージが見える。東山先生はよろよろと走っている私のほうを見てギョッとした。
 ――もしかして病人みたいだから、遅刻許してくれるかも。
 気分的には完璧に病人だったが、私はなるべく惨めそうな顔をして、少しだけ走るスピードを緩めた。突然、ガツン、と鈍い痛みをお腹に感じて、私の体は浮き上がった。
 ――ゆ、揺れてる! 浮いてるよ! 母さん!
 パニックで、ギャーと叫ぶより、激しくシェイクされている感覚でオエーと吐きそうだったので、私は必死で口を閉じそこに蓋をした。私はどうやら俵のように肩に担がれているらしかった。――しかも後ろ向きで。後のほうから走ってくる生徒の唖然とした表情が良く見える。これ以上揺らされたら吐く! と思ったところで、どすん、と荷物のように下ろされた。チャイムの音が聞こえなくなってから、東山先生が呆れたような顔をしながら校門を占めた。どうやらギョッとして見ていたのは、私ではなくその後ろから凄い勢いで走ってくる人物だったらしい。
「やぁ先生。久しぶり」
 桂木拓巳が、軽く手を上げて朗らかに朝の挨拶を述べた。
 坂を人一人担いで走ったというのにその爽やかさは何だ! という突っ込みを入れたいところである。息一つ乱していないが、流石に頬を上気させている。――それは、桂木の美貌を演出する以外のものにはなり得なかったが。
 そんな桂木に、無駄な努力と知りつつも、東山先生は説教した。それはむしろ愚痴に近いものだったりする。
「桂木ぃ、お前、生徒会長なんだから、予鈴ぎりぎりに学校来るのそろそろやめねぇか? 体裁ってもんがあるだろう」
「解ってないな先生。この間に合うか間に合わないかのスリルがいいんだろ? そして完璧に間に合うのが学校遅刻歴ゼロ回の俺、桂木拓巳だ!」
 学校遅刻歴、というところがミソである。
 普段の待ち合わせには三十分以上遅れてくる人が胸を張って言っても、私は冷たい視線を送る事しかできない。桂木は実は南米人だった、といかだったら50へぇぐらいは差し上げたい所だけど。
「あー解った解った。とにかく遅刻しなきゃいいんだよな。真面目に授業出てくれるんだったら、俺だって煩くいわねぇよ」
 手を投げやりに振って、東山先生は桂木の話を打ち切って、自分の仕事に移っていた。遅刻者のチェックである。私も、本当ならあっちの人に数えられていただろうけど、桂木のおかげでギリギリセーフだったらしい。――だけど素直に感謝できないのは何故だろう。
 仮にも女の子を突然俵のように運ぶのってどうよ。やり方ってもんがあるんじゃないか、と私の冷静な部分が判断しているが、横抱き――通称、お姫様抱っこ。は視覚的に恐ろしいから断固拒否したい。王子様に抱え上げられる、眼の下に隈を刻んだ女子高生。絵にならなさ過ぎて想像するのも嫌だ。
 数十回は迷った後、私のことをすっかり忘れかけている桂木に声を掛けた。
「あの、会長、……お蔭様で間に合いました」
「あぁ、前のほうで不恰好に這いずり回っている生物を見つけたから面白そうだから拾ってみた。2Cだったのか。元気か?」
「はぁ、まぁ。ボチボチ」
 生物って、不恰好って……と心のなかでは、言いたい事がぐるぐる回ってはいたものの、突っ込むだけ無駄だろうと、私は曖昧な笑みを浮かべて中途半端な返事をした。この酷い顔を綺麗な人にさらすのはかなり抵抗があったから、私の視線はそこらじゅうを泳いでいる。すると何を思ったのか、桂木はガッと私の顔を掴むとまじまじとそれに見入った。翠色の綺麗な瞳が、私の寝不足の顔の上を滑っていく。その距離の近さと、熱心な視線に、私は冷や汗出そうになった。例えなんとも思ってなくても、綺麗な顔がこんなに近くにあれば、緊張しないはずがない。
「か、会長、近い! 顔が近い!」
「ふむ」
ようやく開放された時には、桂木は何か納得したような顔で頷いた。

「パンダメイクが流行っているのかと思えばただの隈か。はっきり言って見苦しいな! 顔色も悪いし、2Cは保健室で睡眠をとるべし。会長命令だ」

 繊細な乙女のハートが木っ端微塵になる音が聞こえた気がした。桂木はまったく悪気がないらしく、それどころか自分がいい事をしたような、清々しい顔をしている。
「……寝てきます」
 それに肩を落としてよろよろと保健室のほうへ歩き出すと、門の傍に立っていた生活委員の女の子が気まずそうな表情で耳打ちをした。
「先輩、すごく言いにくいんですが、知らないよりはいいかなと思って」
 ごくり、と覚悟を決めたように、彼女は喉を鳴らしてから、死の宣告をした。

「さっき会長が走ってくるとき、……パンツ丸見えでした」

 死にたい!

 桂木の憎さが峰藤を上回った記念すべき日だった。
 これも悪夢だったら! と心のそこからそれを願ってみたけれど、覚めないのが悪夢であり、これも覚めない現実だ。
 私は保健室の枕を涙で濡らしながら、しばしの休息へと落ちていったのである。




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