十六話 / 赤い林檎の指きりげんまん


 日差しがじりじりと肌を焼いている。夏はもう過ぎ去ったというのに、九月の太陽はまだまだ元気らしい。SPF45じゃ足りなかったか。と私は真っ白な太陽に眼を細めた。
 体育の時間は、迫り来る体育祭の競技練習に費やされていた。全員参加であるクラス対抗リレーは順番が勝敗を決める。最初と最後には足の速い陸上部の男子を持ってくるというのがお決まりのパターンだ。私といえば、女子ではトップバッターにむりやり据えられて、陸上部の田代君からバトンの渡し方をマンツーマンで特訓されることになった。スウェーデンリレーの為だとも言われて、私は嫌々ながらも教えを乞うことにした。

「タイミングが大事なんだ! 息を合わせろよ! ワン、ツー、はい! おい、早すぎ! もっとスムーズにやんなきゃだめだ! おまえ女子のトップバッターなんだからな」
 後ろから迫り来る彼の顔が鬼気迫ってて、つい体が本能的に引き気味だったらしい、ようやくオッケーを出してもらえるまで、何十回もやり直されて、体育の授業が終わった頃には私は、ぐったりと疲れきっていた。
 東山先生の号令で体育が終わりを告げると、私は紀子と並んで更衣室へと向かう。白い体操服の裾をパタパタやりながら私が、疲れた暑い。と漏らすと、心頭滅却しなよ。と紀子は為にならないアドバイスをしてくれた。
「せいぜい頑張ってね、トップバッターさん」
「他人事だと思って」
 彼女は真ん中ぐらいを走るのだから、私に比べればプレッシャーも少ないのだ。
「当たり前じゃない。それに私はそれどころじゃないの――」
 紀子はにんまりと不気味な笑みを浮かべると、拳を握りしめた。それは感情の高ぶりからかかすかに震えている。
「血湧き肉踊る体育祭! どんなドラマが生まれるのかは始まってからのお楽しみ! あぁ、私の腕も鳴るわ! ……そして写真部と合同で撮った写真を売りさばく! 部費も丸儲け! ほんっとに体育祭様々だわ」
「……相変わらずの悪徳商売だね。紀子らしいけど。――実は体育祭、結城さんが見に来るんだ」
「へぇ、桂木父来るの? それはそれは――我らが桂木会長の父君、体育祭に現る! ……ちょっとインパクト薄いわね」
「絶対にやめて」
 私達が渡り廊下を喋りながらも歩いていると、向こうから見たことのあるようなシルエットの人物が颯爽と歩いてくる。私はげっと思い反射的に逆方向に走り出そうとしたら、がっ、と紀子に腕を掴まれた。紀子は妙に爽やかな笑みを浮かべている。
「どこ行くの?」
「――ちょっと顔を合わせたくない人の姿が見えたなぁ、なんて」
「へぇ。あ、そう。――あ、桂木会長じゃないですか!」
 私の腕をがっちりホールドしながらも、朗らかな声色で紀子はその人物へ声を掛けた。その瞳が獲物を狙うジャーナリストの如く光っていたのを私は確かに見た。つまりは――確信犯かこのヤロウ。
「2C何やってるんだそんなところで! 顔が赤いから林檎みたいだな」
「痛い! 頬つねんないで下さいよ! 体育だったからちょっと暑くなっただけですってば」
 桂木は私に気付くとすたすたと近づいてきて、挨拶代わりか無遠慮に私の頬をつねり上げた。その予想できない無礼な行動に、私は文句を言いながら手を振り払った。それにからからと笑いながら、桂木は腕を頭にやって「つねりやすそうな頬をしているほうが悪い」と訳のわからない事を言うのだから、よけいに腹が立つ。
 桂木はブレザーを羽織らずに白いシャツ姿だったが、流石に暑いのか腕まくりをしていた。その袖からのぞく肌は抜けるように白い。綺麗なバランスを保った体を少し傾けながら桂木は、今気付いたというように、隣に立っていた紀子に視線を移した。
「むむ、君の顔は知っている。新聞部の――佐藤だな!」
「伊藤です。会長」
 慣れた事であるらしく、紀子はあっさりとそれを訂正すると、新聞部の部長の顔に切り替えた。
「会長は棒倒しと仮装借り物競争と、最後のとりであるスウェーデンリレーに参加されるみたいですね、意気込みはどうですか? 去年も素晴らしい活躍されてましたけど、勿論今年も勇士を見せていただけますよね?」
「勿論だ加藤! 今年は俺達、南軍が勝利を頂く! 俺がいる限りその結果は変わらないな!」
「今年は、会長がいる南軍と、体育部が集中している東軍が大本命といわれてますね。それと加藤じゃなくて伊藤です」
 我が南高の体育祭は一学年八クラスが東西南北に分けられていて、厳正なるくじ引きで組み合わせがきまる。桂木と峰藤は別のクラスで、去年は同じ軍だったらしいが、今年は南軍と東軍に分かれたらしい。因みに私の2年C組は東軍に振り分けられた。――あの陰険眼鏡と一緒の軍かと思うとそれだけで損をした気分である。
「東って藤の軍か。あいつ騎馬戦強いからな。そういや、2Cも東軍だろう? ――あ、スウェーデンリレー出るらしいな。結城から聞いた。頑張って走れよ!」
 一息いれてから、胸を張れるだけ張って、桂木は己を親指で指差した。
「だが勝利するのは、何を隠そう、この俺だ!」
 その言い草、まるで個人競技のようである。
 結城さんも言っていたが、桂木にさえ言わしめるとは、どんだけ、っていうかどういう風に強いんだろうあの眼鏡。まさか隠し刃物で並み居る敵を惨殺するなんてことは……味方の癖してちょっと不安になってきた。
 しかしそれよりも、結城さんが自分のことを口に出してくれることが嬉して、ちょっとだけ体温が上昇した。桂木にまた林檎のようだ、と指摘されても今度は、体育の所為だとは言えはしないだろう。そんな小さなことで幸せな気分になれるなんて、なんてお手軽なんだろうか。
「それはこっちの台詞ですよ。所詮はリレーは団体競技。個人技だけじゃ勝てないですよ。勝つのは東軍です」
 にやりと笑って、私は挑発的な台詞を吐いたのは、俄然やる気が出てきていたからで。
 そんな私の台詞に驚いたのは紀子だけではなかった。桂木は一瞬眼を丸くすると、それは悪戯そうにキラキラとした光を写す。
「言ったな? ――じゃあ勝負だ! もし南軍が優勝したら2Cは一日、俺のお供するように!」
「はぁ? なんですかそれ。嫌ですよ。そんなの。私にメリットないじゃないですか」
「馬鹿め。メリットはあるに決まっているだろう? ――もし2Cが勝ったら俺がお供してやる! カラオケで喉がかれるまで歌えとか、漫画喫茶で朝まで漫画読むのに付き合えとか、昔なつかしのアニメDVD、耐久で鑑賞、とかでもいいぞ!」
「……それ会長が全部やりたい事じゃないですか」
 まさかそんなことさせるつもりじゃなかろうか。と、ぞっとした私は、思いっきり首を横に振ってそれを拒否した。しかし、案の定、彼には通用しないかったらしく、無理矢理指きりさせられた。ぶんぶんと嬉しそうに指を振り回す彼をもはや諦めの気持ちで見やって、私は改めて負けられないな。と決心した。――私の生活の平安のために。
 じゃあ達者でな。と訳のわからない台詞をのこして、上機嫌で桂木は背を向けた。その様子を観察していたらしい紀子がつまらなそうに言った。
「まったくもって色気無い会話だわ、つまんない」
「……一体何を期待していたのか、聞かなくても解ったよ」
 私の恨みがましい視線にも紀子はどこ吹く風だ。さて今日の弁当のおかずはなにかねぇ? とさっさと話題を変えて更衣室のほうへと歩き出している。私はしばらくは紀子の背中を睨みつけていたが、ぐぅ、とお腹がなった事で気を挫かれた。なにごとも腹が減っては戦は出来ぬだ。
 更衣室のほうへと渡り廊下を歩いていると、校舎に入る入り口のところで女生徒とぶつかってしまった。名札の色からすると上級生らしく、私は反射的に謝った。茶色の髪をした生徒で、大人びた感じのきつい美人だ。謝ったにもかかわらず鋭く睨まれてちょっと焦った。確かに余所見をしていたのはこっちだけれど、謝ったのだからそんなに角の立つことでもないと思ったのだ。
「あの、すいません。私の不注意でした」
 もう一度、改めて謝ってみたが、彼女は私を無言で睨みつけるだけで、いいとも悪いとも言おうとしない。そしてふん、という感じで鼻を鳴らして踵を返す。

「――わよ」
 通り過ぎざまに、何かいわれたような気がしたが、それがはっきり何なのかは聞き取れなかった。え、と振り向いてみたけれど、もはや彼女の髪の毛が廊下の角を曲がる所しか見えなかった。
 失礼な事でもしたのだろうか。と首を傾げてみたが、生憎見たことも無い先輩だ。この通り大きな学校だし、私は帰宅部だから先輩の知り合いも少ない。
「――まいいか。ご飯食べに行こうっと」
 感じの悪い先輩の態度にちょっと腹が立ったりもしたのだが、気を取り直して私は自分の弁当へと意識をめぐらせた。

 この時の判断が、大間違いだったと思い知るのは、もう少し後のことである。



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