十九話 / 珍プレーは誰が為


 薄暗い視聴覚室に響く甲高い笑い声。
 それは学校七不思議のうちの一つ――でもなんでもなく、私の友、伊藤紀子の悦に入った高笑いが響き渡っているだけである。
 ようやく赤みの収まった頬で差し入れのアイスティーをちびりちびりと飲みながら、私はいささか冷たい視線を友におくった。そんな視線もものともせず、紀子は笑いが止まらない――事実その通りだが――といった様子で、私に向かって演説を始めた。
「事前に承ってたのと今日飛び込みできた依頼が全部あわせて39件! 毎日が体育祭でもいいくらい! 《あの人の珍プレー好プレー、永遠に残してみませんか?》の爽やかなキャッチフレーズがお客の心をギュッと掴んだのよ。私ってばやっぱり商才あるわぁ!」
「珍プレーが永遠に残ってどうするよ」
 私の冷静な突っ込みは、聞えない振りで綺麗にスルーされた。まぁいいけど。
 紀子はコンビニで買ったサンドイッチを片手に、私は母特製のトンカツ弁当――激しくベタだ。をつつきながら昼食をとっていた。陰気臭い雰囲気が微かに漂っている視聴覚室ではだれも昼食をとろうとする気が起きないらしく、幸か不幸か二人だけだった。紀子は私がトンカツを勧めると、遠慮なく手を伸ばして、カツを頬張りながらもまだ喋り続けている。
「ほれにしても、会長様々はわ。会長がでると、とはんに。むぐ。珍プレーがれんはつするんだから……んぐ。――あんたのお母さんのカツって最高! も一個貰っていい? じゃ遠慮なく。あ、ほうだ。後半、あんたパン競争だわへ。実はあんたの写真も頼まれへんのよ。……誰って? 馬鹿ねー守秘ひむってやつよ。だから、……んむ。――珍プレー! 期待してるわよ!」
「だが断る」
 なによプロ根性無いわね。と紀子にぶつくさと文句をたれられたが、なんのプロ根性だ。お笑いか? 私の写真を頼んだ奇特な人はまさか私の珍プレーを期待してるわけ? と紀子を問い詰めようと思ったが、肯定されるのが恐ろしかったので止めておいた。――されたが最後、やらずには居られなくなりそうだから。
「紀子も珍プレーあったよね。伝家の宝刀《めがねめがね》」
 私がそう遣り返すと、紀子は思い出したのか嫌そうに顔をしかめた。
「思い出させないでよ! ダブル佐伯が名前呼ぶから悪目立ちするし。悪を暴くジャーナリストは潜伏してなんぼなのに! ――あいつら、目に物見せてやる」
「……ほどほどにね」
 御免ダブル佐伯、私には止められない。心の中で合掌しながら、冥福を祈っといた。
 そしてこっそり私も結城さんの写真を頼みこんだ――友達料金で。有償だが腕は折り紙つきである。


 昼休みに入った体育祭はまだまだ前半が終わっただけだ。今の所、前評判でも優勝の本命だった東軍と大健闘の西軍が185点で並んでトップ。それを南軍が十点差で追い、最下位はトップ二十点差だが、まだすぐにひっくり返される点差だけにわからない。
 午後の部一番最初の競技は応援合戦で、十数人の応援団を中心に、各団がそれぞれに趣向を凝らした応援を展開する。
 東軍は応援団のメンバーが運動部中心だった事もあり、あくまでもスタンダードで硬派なもので勝負する。団長は腹にさらしを撒き、白い鉢巻と白い手袋が黒い長ランに映えている。副団長が振り上げたバチを振り下ろし、太鼓の丸い深い音がドーンと始まりを告げた。

「疾風迅雷ー!」
 団長は日頃の応援練習で既に掠れた声を振り絞る。それにあわせて皆が一斉に叫ぶ。音が波となって校庭の空気をびりびりと振るわせる。皆の集中しているのが全身で感じられ、張り詰めるような緊張感が心地良い。個人は集団の中に溶け込み、私は腹のそこから思いきり叫んでいた。


 パン食い競争に出場する私は、招集係の指示に従って、列に並び座り込んでいた。校庭では教職員唯一の競技《教職員リレー》が行われている。紀子も教頭直々に撮影を依頼されたらしく、無償の上に権力に屈するのは屈辱だと文句をたれていたが、精々大坪のヅラがずれるシーンにでも期待するわ。と瞳は怪しく輝いていた。……何かやらかしそうで怖い。
 東山先生が入場門側のトラックを走り去っていったのが見えた、流石に体育の先生だけあって足取りも軽い。古典教師で仙人の通り名を持つ松尾先生は一応は定年前なのだが、見た目が枯れ枝みたいで虚弱体質に見えるらしく、皆から走ったりしても大丈夫かと心配をされていた。しかし、見事に走り終わり本人が清々しい表情をしていたのに反して、周囲のほうがどっと心労で疲れていた。
余興のような教職員リレーが終わり、ぱらぱらと労うような拍手が起こる。

「はい、立って!」
 招集係が笛を短く鳴らす。指示に従いパン食い競争の選手が入場門を潜り、定位置についた。パン食い競争のルールはシンプルだ。――走って行き、途中、釣ってあるパンに飛びつき口で取る。しかしバーがなかなか高いから、一筋縄ではいかないし、ジャンプしてパンを取ろうとしている時の顔が非常に微妙だから、好きな人とかにはなんとなく見せたくない競技である。
 白線のところに6人が一列に並び、パンがつってある方向に視線をやる。パンは結構高い所でぶらぶらと風に揺られている。ふと自分の名前が聞こえたと思ったから、ぱっと振り向いてみたら、東軍の席のところで手を振っている結城さんが見えた。条件反射で緩みかけた頬はその隣の峰藤の姿で一気に引き締まった。ゆっくりと峰藤の唇が動き、読唇術ができるわけでもない私にこう言った様な気がする。
 ――珍プレー期待してますよ。
 ま、まさかね? 嫌な予感に不整脈になりかけたが、その想像を取っ払って私は深呼吸をした。まさか峰藤が私の写真なんか欲しがるわけがない。無様な姿をあざ笑うなら兎も角。――って有り得るし!
 峰藤に聞かれたら「私を何だと思っているのですか?」と睨まれそうな事を悶々として考えていた私は、乾いた音ではっと現実に戻る。
 ――馬鹿!
 聞えたのは自分の心の声かそれとも周囲の声かわからなかったが、競技前に呆けているのは馬鹿としか言いようが無い。私は見事に出遅れて、自分自身を罵りながら走り出した。
 大地をけって、足を思いっきり前後に動かす。全身の筋肉を完璧に支配している感覚がする。足を高く上げ、手を振り、ぐんぐんとパンの所に近づいていく。前に見える背中を必死で追いかけた。
 近くで見ると様々なパンが袋に入ったまま吊り下げられている。しかし選んでいる暇なんて無く、私は一番近くにあるパンに飛びついた。風にのらりとパンが揺れて、かみ合わせた歯は虚空を噛んだ。そして二回目は、思いっきりジャンプしてパンの袋に噛み付き引っ張った。僅差で私より早くパンを取った子が弾かれたように走り出す。私も地に足が付くと同時に追いかけた。パンを落とさないように顎に力を入れながらも全力で走る。脳が全身に「早く動け」とただ一つだけの命令をしているような感覚だ。前との差は徐々にじりじりと縮まり、――あと三十センチ。
 張られていた白いロープを切ったのは、ほぼ同時だった。
 少し上がった息をしながらも、判定をする係に視線を移すと彼女は、他の係とも二言三言相談してからこちらを向き、判定を述べた。



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