二十三話 / すねちゃまは負けず嫌い


 テントは周りの喧騒とは隔離され妙に静かだった。気配に聡い峰藤は顔に当てていたタオルをずらし、その眼差しが私の姿を認めて、訝しげに細められた。
 タオルの下から覗いた頬には殴られた後がはっきりと残っていたし唇も少し切れて少し血が滲んでいる。その上、色が白めな肌ではそれが余計に目立つ。見てるだけで痛さが伝染してきそうで、私は自分の頬を反射的になでていた。
「何か用でも?」
「……会長の、代理見舞いです」
「――それはご丁寧に。どうも」
 冷たい口調で嫌味としか思えない言葉を返して、峰藤はグランドのほうを眺めている。いつも以上に無愛想なその態度に逃げ腰になったが、私は思いとどまって近くにあったパイプ椅子に腰掛けた。話しかけ難い雰囲気を纏った背中を眺めていると、こちらにやっと視線を向けた峰藤が唐突に沈黙を破った。
「桂木から何か言付でも?」
 鋭い峰藤の言葉をきっかけに、「負け犬! 負け犬が! ワン!」とかいう桂木の言葉がぐるぐると脳みその中を飛び回ったが、なんとか無い知恵を振り絞って私は誤魔化した。
「ええーっと『怪我大丈夫か?』でしたかねぇ! いやぁ、やっぱり友達ですね! 仲がいいなぁ!」
「桂木のことでしょうから、負けた事を馬鹿にするのが関の山というところですか」
 流石、無駄に桂木の友達をやっているだけあって鋭かった。
 皮肉げな口調ですっぱりと切り捨てられた私は、ぐっと言葉に詰まる。
 それにしても一度さえも峰藤に嘘が通用した事があっただろうか。もしかしたら顔にはっきりと嘘です、と書いてあったらどうしよう。そんな心配を本気でし始めた私に、峰藤は馬鹿にしたようなため息を吐く。
「すぐ看破されてしまう嘘なら、吐くだけ無駄だと解りませんか?」
「――愛のある優しい嘘は必要だと思いませんか……?」
 私の苦し紛れのボケに向けられたのは絶対零度の視線だ。完璧に滑った。――こんな冷たい反応がデフォルトな峰藤とだけはコンビ組みたくない。いや、誰とでも組まないけど!
 馬鹿には付き合ってられないと思ったのか、峰藤は救急箱から取り出した消毒液にガーゼ、絆創膏を差し出した。
「もし貴方が少しでも人助けという精神をお持ちでしたら、手当てを手伝って頂けると大変助かるのですが」
 まわりくどいんだよ! と折りたたみ式の机をすんでのところでひっくり返しそうなるのを我慢して、私はそれを無言で受け取った。そしてどぽどぽと消毒液を必要以上にガーゼに振りかける。ええい、染みてしまえ!
 私がガーゼをふやけさせている時、机の上に乗っているフレームの少し歪んだ眼鏡に峰藤は視線を落とした。先程の騎馬戦で壊れてしまったようだ。それも柳が原因だというのだから、峰藤が腹の中で何を思っているのか恐ろしい。――軽く18禁ぐらいのスプラッターだったらどうしよう。うげ、リアルに想像してしまった……。
 消毒するためにタオルをどかすように言うと、普段は見慣れない眼鏡なしの顔と対面する事になった。
「眼鏡なしでも見えるんですか?」
「多少は。しかし目測狂いますね。避けたつもりだったんですが」
 まじで? と思わず顔を上げた私の表情に、誰かが思っているほど貧弱ではないつもりです、と峰藤は言った。しまった近くに居る人物の顔色ぐらいは見えるらしい。
 細い銀色のフレームに隠れている峰藤の素顔は決して不細工ではない。どこかのお約束の漫画みたいに、眼鏡の下は数字の3が二つ並んでいた。とかだったら一生笑えたのに残念。――そんな事口に出そうものなら、生まれた事を後悔しそうな目に合わされそうだけど。
 適度に整った顔立ちは桂木とは違った種類に分類されるのだろう。その眼差しは見るものの背筋を伸ばすような強い意志がある。眼鏡が無い今では少しだけ冷たく大人びた印象が和らぎ、歳相応に見えた。切れ長の眼とすっと通った鼻筋は、知的な雰囲気を漂わせているし、せめてもうちょっと顔色が良くて、いつも朗らかな笑みを浮かべていて、その嫌味ばかりを吐きだす口をつぐんでれば大層マシになるだろうに。――朗らかな峰藤。はっきり言って失神レベルの恐怖体験だな。
 その想像を星の彼方に投げ捨てて、私は手当てに意識を戻した。少しぼんやりとしていたから、消毒ガーゼを顔に当てるのが無造作になってしまい、それに峰藤は顔を歪めた。
「貴方に怪我人を労わる繊細さなんて期待するほうが無駄でしたね」
「普通に、染みるから手加減して下さいっていえないんですか、この口は」
 キンカン塗りこんでやろうかこの野郎。と心の中でぶつくさ言いながら、私は傷口を消毒してから、青くなり始めていた傷口にガーゼをあてテープで固定した。軽傷には絆創膏を貼ると、峰藤は即席のミイラ男に大変身だ。ちょっとした意趣返しであるその大げさな処置に少し不満そうに眉を上げたが、峰藤は一応形だけの礼を述べた。
 本来なら係に当たっているはずの救護係の姿が見えない事を私が訪ねるより先に、柳の付き添いだと峰藤は言った。確かに担架で運ばれていたのだから、保健室で治療を受けるのが正しい判断だろう。
「柳……先輩一体どうしたんですか?」
 恐る恐る質問した私に、峰藤は一瞬無表情になった。そこからは何の感情の色も読み取れない。いやぁな予感を抱きながらも、私は峰藤の眼をじぃっと見つめた。そこにある嘘ならなんでも見破ってやるぞという意気込みだ。私の不躾な眼差しに峰藤は少し煩わしそうに顔を歪めた。
「喧嘩を売って下さったみたいなので、少し御挨拶を」
「挨拶、ですか?」
 その穏やかな単語に激しく違和感を感じながら、私はそれを反芻した。挨拶だけで騎馬の上から転がり落ちるなんてありえやしない。テヂカラですか、そうですか。
 私が疑わしそうな視線を送るともともと隠すつもりも無かったらしく、峰藤はあっさりと吐いた。
「肩の骨を外しておきました」
「……それ挨拶じゃないでしょう」
「脱臼は骨折と比べても治すのに時間が掛かりませんし」
 確かに一度壊れたものがくっつくよりは、外れたものをはめるほうが速く直りそうだけど。そんなうまくいくものだろうか。私が首を傾げていると、峰藤はさらりと付け足した。

「――但し、嵌める時は失神程度の痛みを伴いますけど」

 酷っ! 確信犯だよ! ハンムラビ法典より酷いよ!
 私が恐ろしげな視線で峰藤を眺めていると、大丈夫です。と峰藤は頷いた。

「先生方には見えないようにやっておきましたから。あの人の所為で体育祭が中止されるなんて愚の極みでしょう?」

 こいつだけには、喧嘩を売るまい。
 はっきりと私は心にその言葉を刻みつけた――結構、すぐ忘れてしまうのだけれど。


 私が黙り込むと、本来、それほど饒舌でもない峰藤とでは当然のように会話が終わってしまった。私は何となく重苦しい圧迫感――それは目の前の人物から出ている事は確実だった――に席を立つ事もできなくて、じんわりとその沈黙に嫌な汗をかいた。治療が終わったなら峰藤も東軍の席に帰ればいいのに、無言でグランドのほうに視線をやっている。
 この嫌な感じの沈黙を破壊したい、という欲求で私は会話の糸口を探った。
 それは案外簡単に見つかった。騎馬戦のことを話題にすればいいのである。いつもなら、天敵である峰藤を褒める言葉なんて死んでもノーセンキュウだったが、その非常識な強さに呆れながらも凄いと感心したのは事実だ。私はこの偏屈眼鏡と違って、素直なのだ。
「騎馬戦、凄かったです。結城さんとかからも聞いてて、眼にするまでは信じられなかったんですけど。――弱そうって言ったの取り消……し……?」

 そう素直に褒めたのに。
 こちらに振り向いた峰藤の顔は何故か微妙な薄笑いで、私の背筋はひやりと冷える。峰藤の身にまとっている怒りのオーラが、威圧感を後押ししている。
 なぜに!?
「へぇ、貴方にしては美味い皮肉ですね」
 焦った。揶揄しているわけでもないのに、無駄に怒りを買うのは御免だと私は必死で弁解した。結構命がけで。 冷やりとした台詞に、吊り上げられた唇。素直に褒めてみた所の態度がこれだ。
 褒め言葉を口に出してしまった事を激しく後悔しつつ、それでも返ってきた言葉を無視できないのが私の馬鹿なところだった。
「ひ、皮肉じゃないですよ! 私は純粋に副会長の戦いっぷりを褒め称えただけで!」
「勝てた試合で負けたのに、素直に受け取れるとでも?」
「別にいいじゃないですか負けたって! 命とられるわけじゃないんですから!」
「へぇ、じゃあ貴方は命を失わないのなら、総てどうでもいいと」
「揚げ足取らないで下さい!」
 話が激しく脱線してきて、私の頭の中もこんがらがってきた。ええと、私が褒めて、峰藤が怒って。というか怒る理由は? 負けたのに褒めたから気に入らない? じゃあ桂木みたいに貶せばよかったのか? いやいや、そんなの自殺行為だし。
 じんわりカタツムリ程度のスピードで私の脳に到達した結論。……まさか負けたことに腹を立てている?
 いや、でも。まさか。峰藤に限ってそんな事って。それがまるで爆発物みたいに私は恐々と口にする。
「副会長、もしかして――負けたの悔しかった、とかじゃないですよねぇ」
 下から伺ってみた峰藤の表情は、一瞬強張ってから直ぐに逸らされた。眉間には深い皺が三本刻みつけられている。不機嫌さ丸出しなその表情を見て、私は自分が見事図星を当ててしまったことに気がついた。峰藤は凶悪な顔に剣呑な声で呟いた。

「――駄目ですか? 私が勝敗に拘っては」

 す、すねちゃま―――!! じゃなくて、拗ねてんよこの人!!
 普段はあんな冷たい表情で、いつもはクール気取っているのに、私を馬鹿にして笑うくせに!
 なんだ――負けず嫌いなのか。なぁんだ。妙に安心してしまった。
 やることなすことが完璧で、皮肉屋で冷たい言葉を嫌っていうほど吐き出している峰藤にも人並みな感情が在ったということがなんだか不思議な気分だ。そりゃあサイボーグじゃないんだから当たり前だろう。と突っ込みを入れられても、これまでの私の認識なんて、さほど違いは無いものだったし。
 峰藤の弱点を言い当ててたみたいで物凄く気分はいい。これで一ヶ月ぐらいは、ネタにできそうだ。なんて思っていたら顔がニヤニヤ笑いを浮かべていたらしい、刺すような視線を向けられた。
「何か、おかしい事でも?」
「い、いえっ、唐突に咳が止まらなくってっ、ゲホゲホ」
 峰藤が怒る事はわかっていたが、どんなに我慢しても、唇が自然と上がってしまう。
 頬と口に手をやってなんとか隠そうと俯いている私の肩を、大きくて冷たい掌が覆った。驚きながら反射的に顔を上げてみるといつもはフレームに隠されている黒い瞳が私の目を写していた。さらりとストレートで癖なんて付きそうも無い黒髪が私の額をくすぐる。ぐっ、なんでこんなに至近距離!
 幾ら天敵峰藤といえど、性別オス。急に顔を近づけられたら緊張してしまう。それに眼鏡が無いと、ちょっとした別人に見えてしまうからなお決まりが悪いのだ。
 半笑いで引きつった表情の私の目の前で峰藤は般若の微笑みを浮かべた。
「――脱臼の痛み、身をもって知っておきますか?」
「ギャ―――! ごめんなさい! 遠慮しときます! もう笑いません!!」
 ぐいと、腕が後ろにまわされて、ぎしぎしと体重を掛けられるたびに、腕が悲鳴を上げる。というか、私が悲鳴を上げてるんだって! イタイイタイ!

「あの――委員長?」

 涙目になっていた私に声をかけてくれたのは多田さんだった。私と私を抱き込んでいる――正しくは腕を捻り上げて肩を外そうとしていた――峰藤を戸惑ったように見比べている。峰藤も流石に腕を解放して、多田さんのほうへと向き直った。
「あ、ごめん。もしかして――お邪魔だった?」
「いや、全然」
「いえ、全然」
 恐ろしい勘違いをしている多田さんに即答して――被ったのが非常に気に入らなかったが――、私は愛想のいい笑顔を貼り付けた。私の肩の骨の危機を救ってくれたのは君だ。感謝感激。という気持ちを前面に押し出して。そして私は目線であっち行ってください。と峰藤を追い払った。他人が居る前では暴力は振るえまい、という読みがあっての上での果てしなくチキンな行動だ。峰藤は一瞬、射殺すような目つきをしたが、私がびくりと体を震わせたのに、鼻を鳴らして行ってしまった。……ああ、怖かった。
 多田さんは去っていく峰藤を酷く気にしているみたいだったが、私が大丈夫と繰り返しているうちに――多分自分にも言い聞かせたかったのだ――ようやく気を取り直したようで、明るい表情で勢い込み、それは私にとっても朗報だった。
「やっと靴見つかったの! やっぱり借り物競争のときに、間違えて持っていっちゃってたんだって。それでもう他のものと一緒に倉庫の中にしまっちゃったみたい。今、先輩が倉庫空けてくれてるから、取りに来て欲しいって」
「あ、ホント? え、と外の倉庫だよね?」
「うん。ほんとに御免ね〜! 見つからなかったらどうしようかと思った!」
 胸をなでおろした多田さんに苦笑しながらも、私もほっとしていた。靴代も馬鹿にならないし、やっぱり履き慣れた靴で最後のスウェーデンリレーは走りたかったのだ。
 最後のリレー頑張って、と激励の言葉をかけてから多田さんは戻っていった。グラウンドに視線を戻すと、丁度運動部対抗リレーの終盤に差し掛かったところだ。次が綱引きで最後の締めくくりとしてスウェーデンリレーがやってくる。召集が掛かる前に行ってこなければ。
 私は大鳥君にただひたすら謝り倒してから体育倉庫へと走り出した。


 体育倉庫は屋内と屋外に一つずつあり、体育祭などの用具がしまわれているのは、屋外でその為か比較的大きめだ。場所をとるからグラウンドから少し離れた裏庭にあり、掃除当番や体育の授業で使うハードルをつかう時や今回のように体育祭の時でなければ来る機会も無いだろう。
 相変わらずじめじめした地面を踏みしめながら、私は倉庫の前まで来てみたが、鍵を開けてくれたという先輩の姿が見えない。しかしちゃんと鍵は開いていたから、もしかしたら開けるだけで、どこかに行ってしまったのだろうか? そんな風に考える。
 倉庫の中を覗き込むと、埃と石灰の交じり合った匂いがした。口を押さえながら覗き込んでみるが、明かりもついていないし暗い。壁を手探りで探ってみれば、出っ張りに指が触れた。それを押してみるが、カチカチと小気味のいい音がするだけで、どうやら蛍光灯が切れているみたいだ。
 ああ、これ申告した方が良いんだろうな。と諦めのため息を吐きながら眼を凝らした。段々と暗闇に眼が慣れてくると、向こうのほうにごちゃごちゃと積み上げられた小物が目に入った。ダンボールの中に、妙にど派手な衣装が突っ込まれている。そこに白っぽいヒョウのマークが見えたから、私は倉庫の中へと足を踏み出した。引っ張り出してみると、やはり私の長年愛用してきた運動靴だ。偏平足な私の足にフィットしてくれる相棒なのである。余りの愛しさに頬擦り――するほどトチ狂ってはなかったが、嬉しくなったのは事実で、早速、代用していた上履きを脱いで履き替えた。
 そして立ち上がり、さぁ走りに行こうか! と微妙に爽やかな気分で居た時。
 ――目の前で体育倉庫のドアが、きしんだ音をたて閉まった。



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