二十六話 / さながらメロス


 見つかっちゃいましたかぁ、デヘヘ。――なんてはっちゃけるテンションである筈もなく。
 私は安堵の息を吐きながら半壊した扉の間を這いながら外に出た。目の前には苛めっ子三人組改め、意味もなくテンションが高い桂木に、相変わらず陰険な峰藤、そしてやはりあの時渡り廊下でぶつかった三年の先輩が私を見下ろしている。
 妙に居心地が悪い空気の中、私は体操服から石灰を払い落としてゆっくりと立ち上がり、凄く釈然としないまま礼を言った。
 あれ、私被害者なのにおかしいなぁ? という疑問は、軽く二夜連続語り明かせるぐらいあったけれど、それを一旦は置いておくのが上策である。今は一刻を争うのだ。
 どこを見ているか解らない緑の眼を捕らえて、私は畳み掛けるようにして口火を切った。
「会長! リレー、アンカーでしたよね? アンカーがすっぽかしって洒落になりませんよ!」
「――ほんっとに2Cはトンマだな。俺がアンカーじゃないリレーなんて梅干の無い日の丸弁当だろうが! それはつまりのところ白ご飯だ! Do you understand?」
 
 妙に発音のいい英語で聞くまでも無いです。――意 味 不 明。

「……いえすおふこーす」
 考える事を放棄した私は腐った魚の目で相槌を打った。――トンマって言われたのも人生初、オメデトウ私。その言葉のもつ破壊力に、家で一人祝ってしまいそうな勢いである。
「それについては同感ですが――その足ではリレーは無理ですね」
 どれについて同感なのか非常に気になった。――どうせトンマにだろうさ! 少し卑屈になっていた私の歩き方に、目ざとい峰藤はちらりと視線を落とす。
 確かに多少は違和感のある足を庇っていたが、痛みはそれ程ないし、このままなら騙し騙し走れそうだ。私は朗らかな笑顔を――傍から見たらかなり胡散臭かったが――浮かべた。
「え、まぁギリギリいけそうだし、大丈夫です」
「――怪我人が足を引っ張るのは自明の理ですが?」
「平気ですってば」
 盛大に眉を顰めた峰藤の言い分ももっともだったけれど、その言い方が私の神経を逆なでするのは何故か。
 こいつの性格が捻じ曲がってるからに違いない! ――こじつけた答えは私怨交じりである。私の眼光など痛くも痒くも無いと峰藤は馬鹿にしたように肩をすくめ、その仕草が余計に私をいらだたせる。――お前は似非外人か!
 腰らへんに何かの感触を感じた瞬間、視界がぶれ、前置き無しに私の足が地面から離れた。そしてお腹にずしりと覚えのある圧迫感を感じる。
 かなり高くなった目線から、彼女の唖然とした顔と峰藤の仏頂面が見える。――桂木は私をやすやすとまた肩に担ぎ上げたのだ。
「さっきから何をゴチャゴチャ言っている。お前はトンマな上にノロマだな!」
「もうトンマでもランマ二分の一でも何でもいいんで下ろしてください」
「行くぞ! 飛ばすからな!」
 彼好みの冗談もまったく聞いちゃいない桂木が勢い良く走り出した瞬間に私は舌を噛み、痛みに悶絶しながらがっくんがっくんと上下に揺らされる人形と化した。桂木の言葉に違わず、二人の顔は凄いスピードで遠ざかっていく。
 どうでもいいけど、いい加減人間らしい運びかたして欲しいんですけど。
 という私の祈りは神に届く事はあるのか。――なんて無宗教だから多分無理。



 ――あの子、白目剥いてたけど。
 熊がじゃれ付いて調教師に怪我をさせちゃうみたいな状態、という訳のわからない説明をなんとなく理解してしまった自分がいる。はっきりしたのは、あの子に怒りをぶつけるのは激しくお門違いだったというわけだ。グラウンドのほうへ消えていくマイラバー+αの背中を見送りながらため息を吐けば、彼女はあの峰藤と二人きりであることに気がついた。
 心臓が嫌な感じで鼓動を早め、一気に周りの空気が張り詰めた。
 峰藤浩輝は一応、彼女の憧れのマイラバーとは友達であるらしいが、何を考えているかわからないところははっきり言って苦手だし、その冷たく人を見下すような眼も嫌いだ。クラスは違うし、これまでに一度も話した事は愚か、視線が交わった事さえなかった。
 そしてその眼が自分を見据えている事に気付き、戦慄した。
「遊びがいがあることは否定しませんが――」
 その唐突で主語を抜いた言葉を、彼女は本能で正しく理解した。ひやりと冷たさを纏う黒い眼は、刺し殺すような鋭さで。彼女は蛇に睨まれた蛙のごとくその場に凍り付いていた。

「――何事も度を越すと許容し難いですね」

 その感情がまったく感じられない声に彼女はぞっとする。彼はすべて解った上で黙っていた、そして忠告しているのだ。彼女はからからに渇いた喉から声をこぼす。
「なんで……」
「これは主観的な意見です。――それとも何か身に覚えでもあるんですか、三年D組朝倉美登里さん」
 ――ネタは上がってんだよ。
 脅迫の言葉を嘲笑で覆い隠して峰藤は唇の端を吊り上げた。――始めて目のあたりにしてしまった恐怖の笑顔を、美登里は悪夢に見そうだと思った。



 下ろされたような衝撃を感じて、次にぎゅむと暖かいものが両頬の肉をつまんだ。
 その力は段々と遠慮の無いものになっていき、限界までそれが伸びた所で、私は痛みの余りに目を開いた。
「ひたいっ!」
「やっとおきたか」
 涙目に飛び込んできたのは桂木のどこか残念そうにも見える顔――頬が最も伸びたギネスを狙っていたらしい(そんなのねぇよ)。そして自分を珍獣を見る眼で凝視する生徒達。――ここは動物園か。
 私はどうやら荒い桂木の運搬方法に少しの間、意識を飛ばしていたらしい。そしてここはグラウンドの中心で、リレーの順番をもつ生徒が待機している場所である。つまりは私は全校生徒の目の前で砂袋のように担がれて運ばれたという事だ。しかも白目で。――やっぱ死のう。
 痛くなく楽で、なおかつ桂木を道連れにできるような自殺方法を考えている時に、私は凄い力で肩を掴まれた。
「オイ、どこ行ってたんだよ。まじでさぁ?」
 怒れる獅子、田代様光臨。
 肩骨砕かれそうな握力が彼の怒りをダイレクトに伝えてくれる。微妙な笑顔を貼り付けて、私はひたすら平謝りだ。こめつきバッタの様な私の謝罪を遮って、田代君は引きずるように私をレーンの中に押し込んだ。
「え、ちょっと待って。何、私の番なの?」
 心の準備なんてまったく出来ていない。
 焦って視線を泳がせると、前の走者がレーンの最終のカーブを曲がる所が見えた。田代君は真剣な眼で私を励ますように頷いた。
「俺からの最後のアドバイスだ――」
 親指をすっと立てた握りこぶしで首を掻っ切る仕草。

「――勝利か死か」

 脅迫でしょうそれ。
 ぱしん、と小気味いい音で渡されたバトンをしっかりと握り私は走り出した。
 さながら命を賭けたメロスのように。



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