二十七話 / 王子様は露出狂


 風をびゅうびゅうと切る音と、自分の息づかいしか聞えてこない。
 応援してくれているであろう人の顔は口を大きく開けたままで、無音フィルムのようだ。
 バトンを握り締めた手を、思い切り動かして、足をなるべく早く前に踏み出す。その繰り返し。
 グラウンドの土を蹴って自分の体を前に押し出す、そのたびに右足が疼く様に痛んだが、それは無視した。
 北軍の黄色の鉢巻をたなびかせている前の背中を追う。差はなかなか縮まらない。
 痛い、けど転んじゃだめだ。
 歯を食いしばりながら足を上げる。それでも無意識に庇ってしまう右足は段々と重くなっていく。少しづつ遠くなっていく背中に焦り手に汗が滲む。滑りそうになるバトンを握り締め、私は最後のコーナーを曲がった。
 ラストスパート。
 痛みを訴える右足で大地を力強く蹴る。じりじりと引き離された背中が近くなっていく。抜かせる距離ではないだろう。でもここで差を詰めておかなければ。
 バトンエリアに近づけば、次の走者も走り出した。私はどうやら二年では最終走者になっていたらしく、それは三年の先輩だ。――あと数センチ。思い切り伸ばした手からバトンが渡った。
 走りきった。
 その安堵感で力が抜けた私は、ゆっくりと速度を緩めようとする。
 しかし気が張り詰めていたし時はそれ程でなかった右足の痛みがぶり返し、体が強張った。
 ――痛っ、いや、マジで痛い!
 走ってきたスピードがまだ弱まらないうちに、限界が来た右足はもつれた。急にストップが掛かった私の体は、そのまま慣性の法則にしたがって前へと進む。――つまりはバランスを崩したわけで。
 右足を微妙に持ち上げたまま、私の体はどんどん地面へと近づく。それでも私はとっさの判断で両腕を前に突き出して、倒れた時の衝撃を和らげようとした。
 しかし、その予測された衝撃は来なかった。
 変わりに、喉がぎゅっと締まったような感触に私は目を白黒させる。
「……くっ、くるっ」
「クルッポー? ハトの真似か?」
 こんな状態で物真似やるほど、トチ狂ってませんから!
 突っ込む余裕も無くて、私はパニックの余り両腕を空中で高速クロールさせた。
 喉に食い込んでいるのは私が纏ったTシャツである。それを掴んだのは桂木で。地面に叩きつけられるのは防いだが、新たに絞殺の危機である。ぜいぜいとあえぎながらも、私は何とか声を出す。
「は、はなしっ……て」
 びったん。
 唐突に襟を離された私は、今度は両手でガードする暇もなく、蛙がひしゃげるよたような音と格好で大地と熱い接吻をすることになった。顔の面積全体に走る激しい痛みに、私が身動きを取れないでいると、それに追い討ちをかけるように呆れたような声が振ってくる。
「ほんっと、お前はドン臭いな。そんなに地面に打ち付けると低い鼻が無くなるぞ?」
 無くなって溜まるもんですか……!
 余りにも余りな言い草に、大地に顔をつけたまま怒りの炎がめらめらと燃えてくる。
 普通なら王子様なヒーローが、ヒロインを受け止めて近づいた顔に「めろりんきゅーん☆」となるのが王道でしょうよ。それなのに私といえば、猫の仔のように首根っこを捕まえらえれて絞殺されかかった挙句、あっさり顔と地面が仲良くご対面。そして仕上げに罵声を浴びせられる有様。――神様、私が何かしましたか?
 一言文句を言うまではおさまるまい、と勢い込んで私は顔を上げ桂木を睨み上げた。
 その瞬間、たらりという感触に鼻元を押さえる。恐る恐る掌を広げ視線を落とせば、そこには真っ赤な液体が。

「ぎゃっ! 鼻血!」
 ぽたりぽたりと景気よく流れる液体に、私のTシャツは赤い水玉に染まり、そこは一転して血の海に。鼻血なんて小学校以来で焦ったのに加え、手で押さえていても漏れ出す血に私は完全に混乱した。動揺の余り上を向いたり首の後ろを一人でとんとん叩いていた私を傍目に、本当に何を思ったのか桂木はTシャツを脱ぎ始めた。その見事な脱ぎっぷりに私を含め、周りの人間は釘付けになる。――桂木会長、いよいよご乱心か。
 生粋の日本人では有り得ない白く透けるような肌と、薄く筋肉がのっている見事な上半身はまるで美術の教科書にでてくる石膏像のようだ。無駄なものが少しも付いていないような均整の取れた体は、汗でしっとりと濡れ妙に艶かしく見えた。――鼻血の勢いが増したのは、気のせいだと主張したい。
 ギャー! という悲鳴というか絶叫にも近い声をバックミュージックに呆然と見入っていた私の顔に、柔らかいものがぶつかった。それを反射的に受け止めると、白いTシャツの向こう側に、桂木の翠の瞳が見える。

「それででも、押さえてろ」

 ――不覚にもちょっとときめいてしまった。
 私は頷いてTシャツを押さえる手に力を入れた。――が、ソレは非っ常に汗臭かった。
 あっさり一瞬のトキメキも忘却の彼方へ。
 思わず放そうとした私の行動を読みきっていた桂木は大きな掌でTシャツを私の鼻に押し付ける。べし、とやられた私は、再び襲った鼻の痛みに悶絶した。
 そして桂木は座り込んだままの私の脇に手を差し入れ、まるで子供に対してかのように持ち上げた。ひょいと軽々しく持ち上げられた私は、子ども扱いされた事に怒る事よりもまず、気恥ずかしさのあまり固まった。
 上半身だけとはいい、裸で近づかれた私は目線をあわすことはおろか、その白い裸体が極力視界の中に入らないようにあさっての方向を見続ける。それでも近すぎる距離に体を離そうと試みると、怪我した右足に体重がかかり、それでまたバランスを崩すことになる。
「まったく馬鹿め。大人しくしていろ」
 倒れそうになった私の腰をしなやかな腕が掴み引き寄せる。――頼みますから、お願いですから。地面に叩きつけられてもいいから今度こそ放してください。
 何に頼んでいるのかも解らなくなってきた私が生き地獄を味わっている間、桂木は騒ぎをみていたギャラリーから見知った顔であった田代君を呼びつけた。
「そこのやつ。2Cを救護まで連行しろ」
「あ、いいっスけど……」
 一連の惨事を見ていた田代君は自分が指名された事に少しだけ驚いたが、血だらけの私の横に並ぶと遠慮がちに肩を貸した。男の子に肩を貸してもらうのは恥ずかしかったが、半裸の男と比べたら羞恥の差は一目瞭然だ。天の助けだと、片手で桂木のTシャツを押さえながら、私は遠慮なく田代君に支えてもらうことにする。
 ひょこひょこと片足で歩きながらも、桂木の顔だけを視界に入れて軽く頭を下げた。
「会長、シャツ、有難うございます。一応」
「一応って何だ馬鹿者」
 だって臭いし、という言葉は飲み込んで、私は曖昧に言葉を濁した。
 桂木は唐突に私のほうに腕を伸ばす。それに私が警戒して体を引くと、むっとして唇と尖らせた。
「2C」
「……何ですか?」
「頭を出せ」
 脈絡もない台詞に私が更に疑いの眼差しを送ると、強制的にぐわしと頭蓋骨をひっ捕まえられた。叫び声をあげる前に、桂木がにやりと笑った気配がした。

「その足で頑張ったから、褒めてつかわす」

 ぐっしゃぐしゃに髪をかき混ぜられる。あはは、こいつぅ! という戯れのレベルではなく、全力でかき回してくるから、見事に台風一過していったような荒れ具合になった。芸をしたペットを褒めているノリだな。と過ぎった不快な考えに自分で顔を歪める。
 思う存分かきみだした桂木は「よし、スーパーサイヤ人の完成だ!」と満足そうに頷いた。――結局、主旨がずれている。
「……先輩、そろそろアンカー出番っスけど」
 田代君が遠慮がちにそう教えると、そうだな。と桂木は頷き、私の目を見据えた。
 「しかし勝つのは俺だからな! あの時の約束、忘れるなよ!」
 ――すっかりさっぱり忘れてました。
 優勝したほうに、一日お供する。イコール、一日下僕になる約束は、体育祭の前に私の意志はスルーで一方的に結ばれてしまったものだ。
 レーンの外に視線を移してみれば、三年の先輩が疾走している。
 トップを走る北軍と東軍は僅差で、抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げていた。そこから少し遅れた所を南軍が追いかけ、大きな差をつけられてしまったのが西軍で、貯めてきた得点から言うと優勝は厳しくなった。優勝の可能性があるのは他の三軍で、このリレーは他の競技よりも配点が大きいから、一位を取れば一気に優勝ということも有り得るのだ。
 東軍の総合得点は一位を独走しているし、最後の東軍のアンカーは陸上部の先輩である。今のままでいけば勝てそうだと私はほくそ笑んだ。その余裕から社交辞令を口に出す。
「会長、頑張ってくださいよ……適度に」
 桂木は私の心の中を読んだように、悪戯っぽく口の端を吊り上げた。
「どうせ勝てるわけがない、と侮っているだろう」
「い、いや別に……イタッ」
 動揺したら思う壺。
 強烈なでこピンを喰らってしまい、私は後方にのけぞる。涙がうっすらと滲んだ目で睨み付けると、不敵な笑みを貼り付けて桂木は偉そうに胸を張った。

「応援したこと後悔させてやる! 見てろ!」

 ――なんだか嫌な予感がぎゅんぎゅんしてきました。
 私は既に後悔し始めていた。



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