二十八話 / そして獣は風になる


 田代君に肩を貸してもらって、片足を軽く引きずりながらも私は、救護班のテントへと向かった。
 酷い流血沙汰になっている私の顔を見て、救護係と思われる女の先輩がぽかんとしている。汗臭いシャツをのけてから鼻声で「鼻血と捻挫です」と申告すると、慌ててパイプ椅子を私のためにひいてくれた。それに私が腰掛けると、田代君は私の肩をがっしりと掴む。
「その怪我でよく走ったな! マジで感動したから!」
 涙目でにじり寄られるのは普通に気持ち悪かった。
 相変わらずにその体育会系ノリには付いていけそうに無いのです師匠。

 田代君に有難うと言って追い払い――戻ってもらって余裕が出てきた頃、自分の現状の酷さに気付いた。
 血は乾燥し始めてガビガビになっていたし、地面で勢いよく打ったから顔全体にも擦り傷が出来ている。こんなベタな方法で負った派手な怪我、まさか高校生にもなってするとはお釈迦様でも思うまい。――お嫁にいけなくなったらどうしてくれよう。
 ここは峰藤を見習って十倍返しにと、不穏な事を考えてみるも、桂木のほうが遙かに高そうなかんばせをしていることは明白だ。引っ掻き傷一つつけただけで、なんだか罰当たりな気分になるのはこっちのほうである。――会長、顔だけはいいからな。
 こんな時にさえも冷静な判断を下してしまう自分を少し憎く思いつつも私はため息を吐いた。私を心配そうに覗き込んでいた救護係の先輩は、落ち込んでいる私に気を使っているのか優しい声をかけてくれる。
「うっわ痛そうね、大丈夫?」
「あぁ、はい」
 一番痛いのはソウルです。と素直な気持ちを告白しようかと、一瞬その優しさに血迷ったが、流石に初対面だからとりあえず頷くにとどめる。これ以上痛々しい目で見られて溜まるものか。
「じゃあ治療するから。こっち向いてくれる?」
 優しそうな先輩は、両手にガーゼとヨードチンキを持って早速取り掛かってくれようとした。グラウンドに視線を移すと、アンカーひとつ前の走者にバトンが渡ったらしく、なお一層高まる興奮と熱気が肌で感じられた。
 ――別に言う事を聞く義理は無いし。
 そう胸のうちで呟く私の目の前を桂木の偉そうな笑顔がちらつき「見てろ!」という自信に満ち溢れた声が耳に鮮やかに蘇る。
 私はそれを追い払うように頭を振った。
 ――どうせうちの軍が勝つだろうけど。
 少しの間だけ逡巡すると先輩のほうに向き直り、申し訳なさそうに頭を下げる。

「……あの、すいません。リレー最後まで見てからお願いしてもいいですか?」


 やはり最後のトリを飾る競技なだけに先輩も興味があったらしく、先輩は快く了承してくれた。彼女も私の隣のパイプ椅子に腰掛けて走者を視線で追いかけている。
「次でアンカーね。あぁ〜私の軍はびりかぁ」
 西軍であるらしい先輩は残念そうな色を滲ませて独り言を言った。やはり最後の体育祭だけに勝ちたかったのだろう。その時、ふと感じた人の気配に顔を上げる。
「――終わってはいませんでしたか」
 見上げてしまってから声の主に思い当たり後悔した。思わず歪めてしまった顔に、傷が突っ張ってぴりぴり痛んだ。眼鏡のフレームを通してこちらを見た峰藤の黒い瞳は一瞬、驚きで見開らかれる。
「その怪我――」
「……こけたんですけど、なにか文句でも?」
 喧嘩腰に言葉をぶつけると、視線は直ぐに逸らされ後ろを向いた峰藤に私は訝しげに眉を寄せた。――奴の肩はさも可笑しそうに揺れてやがったのだ。
「……そこで笑いますか普通」
 低い声でねめつけると、ゴホンと一つ咳をしながらも峰藤は振り向いた。眼鏡の奥の瞳はいつもの冷たい色とはまったく違い、うっすらと涙すら浮かんでいたような気がする――勿論笑いすぎの。
「貴方って本当……何やってるんですか」
「私が聞きたいですよ」
 やっと肩が震えるほどの笑いから解放された峰藤は、少しだけずれていた眼鏡を中指で押し上げた。
「ところで――大丈夫ですか、その傷」
「散々笑った後のその言葉、説得力ゼロですけど!」
 興奮したせいかやっと止まっていた鼻血がたらりと出そうになった。慌てて桂木のシャツで鼻元を押さえると、それに気付いた峰藤は訝しげにそれを注視した。何見てんですか、とヤンキーのような台詞をくぐもった声で発すると、峰藤はますます眉を寄せる。
「――貴方の特殊な性癖を否定するわけではありませんが、出来れば近づかないで下さい」
「誰が匂いフェチですかっ!!」
 この鼻血が目に入らねぇのか! と、どこかの暴れん坊風に啖呵を切ってみたら、生憎、そこまで目が悪いわけでもありませんので見えますと、あっさり切り替えされた。――別に「ははぁー」と言って平伏するようなリアクションを峰藤に期待するほど愚かではなかったが、ノリの悪い男ってどうかと思う。

「副会長、どっか行ってたんですか。こんな時に」
 応援サボって、と言外に匂わせながら聞くと、峰藤は少し含みのある視線でこちらを見返す。嫌な予感をひしひしと感じ逃げ腰になると、陰険な笑みを浮かべて峰藤は薄い唇を開いた。
「破損した倉庫の扉の連絡に行っていました」
 ぐっ、と言葉に詰まった私に追い討ちをかけるように、峰藤は畳み掛ける。
「誰かが閉じ込められるようなことが無ければ、そんな報告も必要なかったかもしれませんが」
「うっ」
「私が個人名を出さないように配慮したのはまったく無駄だった様ですね」
「そっ、それは」
 姑より性質が悪い。重箱の隅をつつく様ないやらしい嫌味に私はぐうの音も出せないでいる。
 峰藤はもう一度聞きます、とゆっくり幼稚園児にでも言い含めるように言った。
「――さて、貴方は今何かおっしゃいましたか」

「……アリガトウゴザイますた」
「良く出来ました」
 またしても峰藤に屈してしまった私は肩を落とし敗北感をじっくりと味わっていた。満足そうな奴の唇をつねり上げられたらどんなにすっきりする事か! 私の怨めしそうな視線に気付いた峰藤は心底、愉快そうにせせら笑う。今、私の合言葉が決まった。――目指せ下克上。
 爆発するような歓声が上がり、私ははっとグラウンドに視線を移した。
 競い合い、もつれ込むように走りこんできた東軍と北軍の走者が、ほぼ同じタイミングで最後のアンカーへとバトンを渡した。バトンを受け取るや否や、弾かれるように二人は走り出す。スタートダッシュではやはり陸上部である東軍の先輩に軍配があがったようだった。
 そしてトップの二組が走り出すと同時にバトンゾーンに悠然とした態度で入ってきたのは桂木だ。彼は北軍のカラーである黄色の少し小さめなTシャツに白いたすきを身につけていた。
 ――は?
 桂木の元来ていたシャツは血まみれになりながらも私の手の内にある、となれば。
 視線を滑らせて見れば、内周の隅っこの所で佐伯(ボケ)が体操すわりをしながら自分自身を抱きしめているのが目にとまった。――しかも上半身裸で。

「……追いはぎか」
 ポツリと呟いた言葉に、涙が滲んでしまったのは気のせいじゃないだろう。
 そうしているうちに南軍の走者がバトンゾーンに足を踏み入れた。精一杯に伸ばされた手の先にはバトン。背中を向けて右手を後方に伸ばしていた桂木はちらりと楽しそうな笑みを浮かべて、ゆっくりとスピードを上げた。一歩、二歩、三歩。
 危うくバトンゾーンからはみ出しそうになりながらも、桂木にバトンが渡った。
 長身の重心を僅かに沈め、状態を低くしながら桂木は足を動かした。その繰り返される一連の動作には無駄がない。
 長い足は地を蹴り、体は飛ぶようなスピードで風を切った。
 それはまるで走る事を常としている獣のようだ。
 白いたすきが後ろに引っ張られるようになびく。桂木の体は軽く自由で、まるで土の上を滑っているようにも見えた。
 じわりじわりと、少しづつ前を走る二人と桂木の距離は縮まっていく。
 桂木も恐ろしく速かったが、前の二人もアンカーに選ばれるぐらいだから負けてはいない。そう簡単に抜かす事ができないのがリレーだ。トップを走っていた二人のアンカーは後ろから聞えてきた足音に、振り向くような仕草を見せた。
 一瞬、にじむ焦りの色。
 しかしそれからは一度も振り向くことは無く、前だけを見据えて、ますます腕を振り腿を上げる。
 最後の一周を告げる鐘が鳴らされる。
 二人はラストスパートだとスピードを上げた。また少し桂木が後方に引き離される。
 ――何やってるんですか。応援した事後悔させてくれるって言ったくせに!
 ぎゅっと握った拳に力が入った。それは微かに汗で湿っている。
 睨み付けた視線の先には桂木がいる。引き離されているのに、まったく崩れない飄々とした表情が憎らしい。結局、応援してしまっている自分が馬鹿みたいだ。――やっぱりほら吹き。
 ますます力を入れて睨み付けた時、ふと――走っている桂木と目があった。
 それはすぐに逸らされて流れていったし、気のせいだったのかもしれないが、桂木は次の瞬間、胸を張った時の不敵な笑顔をはっきりと浮かべた。
 あと半周に差し掛かった所で、眼に見えるほどはっきりと桂木は速度を上げた。それはどこにそんな力を残していたのかと思うほどで、桂木は最後のカーブで二人に並んだ。
 腿をあげ、腕を振り、大地を蹴り、風をきる。走る。ただひたすら。
 もはや誰がトップを走っているのかは解らないぐらいの接戦だ。それぞれが前だけを目指し、筋肉を最大限に酷使させる。早く、早く。それだけを繰り返し考える。――そして飛び込むように。
 ――張られた、テープは切られた。

 私は張り詰めていた息を吐く。
 くるりと勢い良く振り向いた桂木はこちらをまっすぐと見つめた。
 その顔からは、たった今、走り終わったと言う苦しさはかけらも見受けられない。
 桂木は人差し指を顔の所まで持ち上げると、目の下、頬骨の辺りをとんとんと叩いてから、にやりと笑った。
 桂木の言いたい事が嫌って言うほどわかってしまった私は、同じように人差し指で目を下に引き伸ばすと、ついでに思いっきり舌も伸ばした。――あっかんべ。

 ――桂木は大口を叩いたとおり、スウェーデンリレーで一位をもぎ取ったのであった。



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