二十九話 / センチメンタル・ジャーニー


 四角く切り取られた世界から、十何年も付き合ってきた自分の顔がこちらを覗いている。
 それは見ている側を馬鹿にしていると思えない、見事なあっかんべ。
 ――紀子、お恨み申す。
 びりびりに破きたい衝動を抑えながら、私はそっと机の上にその写真を戻した。
 落ち着いた焦げ茶色である喫茶店のカウンター上には、体育祭で撮られた沢山の写真がばらばらに置かれている。
 それにはパン食い競争のフライングを捕らえたと思われる、焦りが滲んで最高に歪んでいる表情の私とか、パンに食いつこうと口が半開き状態の餌を食べる鯉の様な私とか、顔を傷だらけにして鼻血を出した挙句、驚愕に目を見開いているスプラッタホラーな私とか。
 絶妙なアングルと最高の――私にとっては最低な――瞬間を切り取られた写真は、撮った人物の腕のよさを証明していたが――まともな写真が一枚もないって、私に喧嘩を売っているとしか思えない。
 他の写真に目を移してみると、空中に飛び上がりまるでアクション俳優のように誰かを蹴り飛ばしている桂木とか、騎馬の上で峰藤が相手の鉢巻を鮮やかに奪った瞬間を捉えたものとか、極めつけは爽やかアイドルのブロマイドかと見間違うぐらいの綺麗な笑顔の桂木の写真。これは多分リレーで一番になったときのものだろう。――それでもこの笑顔は最後は不満そうに歪む事になったんだけど。
スウェーデンリレーで勝利したのは南軍だったが、最終的に総合点で優勝したのは東軍だった。
 東軍は総合点では一位を独走していたし、リレーでは二位をとったから、最後の最後で南軍は及ばず準優勝となった。あの時の悔しそうな桂木を思い出すと、お腹から優越感交じりの笑いが湧き上がってくる。勝負には負けたけれど、最後に笑ったのは私なのよ! ざまあみそ!
「――お待ちどうさま。写真、凄く良く取れてるよね。君の友達、伊藤さんだっけ? カメラ忘れちゃってたんだけど、ほんとに頼んでよかったなぁ」
 にこにこと穏やかな笑みを浮かべながらジャスミンティーを運んできてくれた結城さんに、私は悪役まがいの高笑いを引っ込めた。無論それは心の中での出来事であるが、思っていることが素直に出てしまう私なだけに非常に危険であるから。少し強張った顔で笑う私に、結城さんは軽く首を傾げる。薄黄色をしているお茶は、名に恥じずほのかな花の香りを漂わせていた。
「それにしても面白い子だねぇ、まるでテレビのインタビューを受けてるみたいに一杯質問されちゃったよ」
「……すいません、紀子が失礼したみたいで」
「いやいや、気にしてないから」
 私が変わりに謝ると、結城さんは仲良いんだねぇと、ふんわり笑った。きゅんとしながらも、カップに手をつける。
「でも――なんで私の写真はこんなに――普通じゃない奴ばっかりなんですか?」
 私が意を決して聞いてみれば、結城さんは思っても見なかったと言う風に目を瞬かせた。
「何で? 可愛いじゃない。この舌伸ばしている写真とか、僕のお気に入りだよ?」
「えっ、そっそうなんですか!?」
 恥ずかしさと嬉しさの余りに声がひっくり返る。自分の写真を気に入っているなんて好きな人の口から聞くのなんて嬉しすぎる。――その写真は微妙だとしても。それに誤魔化されそうになりながらも、私は赤い顔でひとつ咳払いをした。
「ゴホン――で、でもですね。紀子は珍プレー、好プレーを切り取ります。というサービスをしていた筈ですけど」
「あぁ、それね」
 どうせなら人のカッコいい写真を残したいと思うのが、普通の人間の心理だと思う。いや、この場合はとられた側の私の心理だが。
「浩輝君がね――どうせ好プレーなんて期待できませんし、珍プレーならインパクトの強い写真が残るんじゃないですか? ――ってアドバイスしてくれて」

 あんの野郎……!
 カウンターの下で、ぎりぎりと拳を握り締めながら、へぇえ、そうなんですかぁ。と結城さんに向けた顔は引きつった笑顔である。優雅に泳ぐ水面下は水をかき続けている白鳥のごとき涙ぐましい努力の賜物だ。
「でも、見てるだけでその時のことが鮮やかに思い出せるじゃない? 君の写真なんて本当に生き生きしてるし」
「……そう、ですね」
 その邪気の無い満面の笑顔に、私の苛立ちもすんなり溶けていった。結城さんが良いって言ってくれたならそれでいいや、そんな風に思ってしまう。なんで結城さんはこんなに私の負の感情を霧散させるのが上手いんだろう。――やっぱり好きなんだなぁ私。いつも行き着くのはそんな言葉。私はやっぱりしぶといのだ。私は胸元の生徒手帳に潜ませた結城さんの笑顔を、制服の上からそっと押さえた。紀子に頼んでいた結城さんの写真は期待以上で、私が好きな最高の笑顔が数種類、切り取られていた。一枚、サービスだと風が強いときの偶然を取ったのか、腹チラショットなんぞも入っていたが――きゅんとしましたよ、ええ。

「――あぁ、もし良かったら、欲しい写真、2、3枚持っていってもいいよ?」
 自分の写真全部を回収して帰りたかったけれど、それは無理な相談だ。結城さんはそれでも、私の写真に視線を落とし、何かを探しているみたいだった。
「あっかんべの写真、三枚入ってたはずだけど――あれ、無いね」
「自分の写真はいいですよ」
「そう? ――あ、じゃあ浩輝君のは?」
「いりません」
 あんなやつの写真を持ってなんかいたら呪われそうだ。
 私ははっきりと断ってから、もう一度ジャスミンティーを口に含んだ。外は木枯らしが吹き始める季節である。秋が来るのだと、私はぼんやりとそんな事を考えていた。頭をふと過ぎった言葉はセンチメンタル・ジャーニー。――意味不明である。私はなんとなく複雑な気持ちをもてあまして、ひとつため息を付いた。

 一つの季節が終わり、新しい季節が。
 秋が、はじまってしまうのだ。



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