三十一話 / チャイと共に去りぬ


 硝子を隔てて向こう側の世界は、もやでもかかっているのかのように白い。
 握り締めた専用のマグカップから立ち上る暖かい湯気が、その身をくゆらせた。
 それは寒さで強張った体の筋肉を緩やかに解していく。
 一口、含むたびに、暖かいため息がつい漏れた。
 零すたびに、幸せが逃げると言われてるため息でも、そうさせているのが、結城さんの入れてくれた紅茶なら、それは私にとっては反対の意味を持つのだ。
「それ、美味しい?」
「あ、はいっ! とっても……!」
 軽く首を傾げながら問うた結城さんに、私は激しく首を振る。それに結城さんはよかったと、ふわりと笑った。
 最近の結城さんがお勧めの飲み物はチャイだ。
 ミルクをたっぷりといれたコクのある紅茶にジンジャーにナツメグ、それにシナモンのスパイスがしっかりと効いていて、程よく甘い。それにお茶請けとして添えられているのは、ビターチョコレートにたっぷりバターを溶かし込んだ、チョコアーモンドケーキ。そこまで甘くは無いけれど、鼻腔に香るカカオと、濃厚なバターの組み合わせが、食べ応えがある。しっとりとした焦げ茶のパウンドの中に、砕かれたアーモンドが入っていて、噛む度にアーモンドの味が広がった。

「――あ、お父様。もう一切れ頂けます?」
 私がひと切れ目のチョコレートケーキを半分も食べ終わらないうちに、隣人が白い皿を結城さんの方へ突き出した。その声は数十匹の猫を被っているように甘い。
「朝倉さん、その呼び方……止めてくれると嬉しいんだけどねぇ」
 年寄りになった気がするから、と苦笑しながらも、結城さんは美登里の白い皿に切り分けた新しいチョコアーモンドケーキを乗せた。
 美登里は、それにぶすりとフォークを刺しながらも、さっきから窓際に座っているお目当ての人物にちらりちらりと視線を送っている。そして桃色の吐息を吐き出すのを私はうんざりとしながらも横目で見ていた。この微妙に色付いたピンク色の雰囲気が堪らない。下手すると地球温暖化にも影響してきそうだ。
 美登里が見つめている相手――言わずもながら桂木拓巳は、いつの間にか指定席となった窓側の四人がけテーブルに陣取り、長い足を椅子の上で交差させるという格好で漫画を読んでいた。読んでいるものがなんであっても、様になる恵まれた美貌。それは中身を知るまでの幻想である。
 それでも痘痕にえくぼ。恋は盲目。
 眼の曇りまくった美登里には、桂木が鼻水をたらしながら腹を掻いていてもうっとり見とれてそうな勢いだ。桂木を見つめる美登里――を見る私。喫茶店の中には、そんな奇妙な観察空間が広がっていた。
 くすくすという可笑しそうな音と共に私は、首を勢いよく回転させる。
 柔らかくなぜる様な視線が、結城さんから私へと注がれていた。
「――どうかしましたか?」
 顔に血が上るのを感じながら、私は結城さんの色素の薄い瞳を見つめ返した。それは少しだけ細められて、頬の緩みと共に空中に溶ける。
「いや、若人は青春してるなぁと思って」
 若人って、おじさんくさいですよ。と思いつつも釣られたように私はにへらと笑った。ほのぼのとした空気が心地よい。――っといけない。こう和んでいる場合ではなかった。
 私はカウンターの下で、緊張のあまり汗ばんだ掌を握り締めた。今日はある事を頼むためにここへと来たのに、無理矢理付いてきた美登里とほのぼの癒し系な結城さんにペースを崩されてばかりだ。気合を入れるために、私はもう一度、チャイを飲み下す。すると結城さんが思い出したように口を開いた。
「ああ――ところでもう少しで文化祭だね」
「っえ、ええ? そうですね!」
「君の所はなにをやるの?」
「――えっと、喫茶店なんですけど」
「へぇ、どんな?」
 ごくり。唾を飲み込む。
 まさに私が切り出そうとしていた話もそのことで、あまりのタイミングの良さに用意していた言葉は出鼻を挫かれ消滅した。しどろもどりになりながらも言葉を続ける。
「あの、本格的な中国茶を出そうって言ってたんですけど……それで、実は、結城さんに、それについて教えていただきたいんです。あっ、勿論、忙しいなら全然正直に断っていただいていいですから!」
 完璧にあがった私の声は、最後の方には裏返り、恐ろしいほどの早口で言い切られた。
 返事を貰うまでの間が居たたまれなくて、私はフォークを取り、ぐっさぐっさとチョコレートケーキを刺殺する。そんな私の挙動不審さに、結城さんはこらえきれず噴出した。案外骨っぽい掌が顔を覆い、喉は低い音で震える。垂れ下がった瞳のセクシーさに、私は思わず見とれた。
「笑っちゃって御免ね。君、さっきからそわそわしてたから、どうしたんだろうって思ってたんだけど――」
 くつくつと喉を震わせながら、結城さんは咳払いをひとつ。
「――僕がお役に立てるなら喜んで引き受けるよ」
 片目をパチリと瞑る結城さんに、ああ、やっぱり私の息も桃色に染まっているのかもしれない。と私はぼんやりと考えた。

 なぁに、青春してやがるのよコノヤロウ! という小声と共に、ガスッとわき腹に肘が入った。飲んでいたチャイにむせ返りそうになりながらも、美登里を睨みつける。カウンターの向こうには結城さんの姿は見えない。客がいないのを見計らい、ゴミ捨てに行っているのだ。
「痛った! 何するんっぐむ」
「あらぁどうしたの? 急に大声出しちゃって」
 片手で口を塞がれながら、もう一方の手で頭を引き寄せられる。明らかに白々しい大声は桂木に対するいい訳だろう――絶対、聞こえてないけど。美登里は声のトーンを落とし、囁くような声を出す。頬にはチョコレートの食べかすがくっついていて、私は妙にそれが気になった。
「あなただけうかれちゃって、ずるいわよ!」
「……朝倉先輩も見てるだけじゃなくて、話しかければいいじゃないですか」
「できるならとっくの昔にやってるわよ! この百億光年馬鹿!」
「その単位、どこから来てるんですか」
 この強烈な性格からは予想が付かないが、美登里は極度の照れ屋らしく、これまでに桂木とまともに喋った事も無いらしい。鈍痛がするわき腹を撫でながら、そういうところは案外可愛いなと思う。
 美登里はどうやら決心したらしく、さっき三度目に追加していた、チョコアーモンドケーキの皿にちらりを思わせぶりに視線を寄越した。
「――あなた、これを私からって、桂木くんに渡してきて」

 どこのバーの誘いかたですかソレ。
 前言撤回、私を巻き込むのは止めてほしかったが、また飛んできそうになるエルボーが怖かったから、私は渋々と立ち上がる。美登里の期待いっぱいの視線を背中に受けながら、皿を手にして私は桂木に近づいた。

「退屈だっっ!」
 桂木が持っていた漫画を放り出しながら叫んだ。その造りものめいた端麗な顔が、酷く不服そうに歪む。吃驚して立ちすくんでいた私に気がつくと、桂木は変なものを見つけたみたいに首をかしげ、柔らかな髪が頭を振るたびに、ふあふあと揺れた。
「何してるんだ――ん、なんだそれは?」
「……あちらのお客様からデス」
 私はケーキを桂木の机の上に置きながら、そっと美登里の方へと視線を流す。――美登里ははにかみ、というか引き攣れた笑いを浮かべ、それはまるで威嚇しているようだった。
「――ふぅん。お腹が空いていた所だ。気が利くな!」
 桂木の輝くような笑顔の直撃を食らって、美登里はきゃっと顔を伏せた――はっきり言って怖い。
 私が自分の役目は終わったとばかりにさっさと戻ろうとしたら、手をぐわしと掴まれる。
「どこへ行くんだ2C。俺は暇なんだ。ここに座れ」
 引っ張られ、椅子に腰を下ろした私にとってそこは、桂木の隣という意味でも嫌だけれどそれよりも。
 ギギギ。ギシギシ。ミシミシ。という音。
 背後から、歯が砕けそうになるぐらいの、歯軋りの音が聞えている――怖すぎる。
 私はそのプレッシャーに耐えられず、脊髄反射で美登里を呼び寄せた。


「――2C、退屈だ。なにか面白いことをしろ」
「そうよ、なにかやりなさいよ」
「面白いことって、そんな芸人でもないんだから出来ませんってば」
 この独裁者達めと心の中で毒付きながらも、私は寛大な気持ちでいることが出来た。やはり結城さんに指導を引き受けてもらえたのがとても嬉しかったのだ――クラスで提案した甲斐があった。
 すると何を言ってもにこにこしている私の反応を目ざとく見咎めた桂木が唇を尖らせる。
「なんだ2C、楽しそうだな。俺は退屈で死にそうなのに、ズルイぞ!」
 さっきの美登里と思考回路がまったく同じである。――案外お似合いじゃないのこの二人。
 何が面白いんだ、としつこい桂木に美登里は(目はあわせないように)斜め前の席から体を乗り出した。
「桂木くんのお父様にお願いを聞いてもらえたからはしゃいでいるのよ」
「たったそれだけか?」
「会長にとってはそれだけでも――私には最高に嬉しいことなんですっ!」
 なんとなく馬鹿にされたような気がして、私はむきになりながらも言い返した。結城さんはなかなか帰ってこない。ふと桂木は今更、思い出したように、頭を掻きながら言った。
「なんだ、2Cは結城の事がまだ好きだったのか?」
「……なんで、そんな事」
 それには驚きが混じっていたから、私は困惑した。まるで終わっているのが当たり前だと言っているような桂木に、ぶれたような違和感を感じる。それはからかったり馬鹿にしているわけでもなく、本当に意外だったと言うような含みの無い声だった。
「飽きないか?」
「飽きるわけ無いじゃないですか」
「楽しいのか?」
「……ええ、まぁ」
「ふぅん」
 桂木はぐさりとケーキにフォークを突き刺しながら、ふぅんともう一つ息を漏らす。そして斜めに座っていた美登里にふと視線をとめた。私はなんとなく嫌な予感にかられた。
「――このケーキをくれたのは、お前だな」
「えっええ! そうだけどっ!?」
 さっきの私と同じように声を裏返しながら、美登里は顔を赤くしている。それに桂木は追い討ちをかけるように、とんでもない言葉をぶつける。

「もしかして、俺の事好きなのか?」

 ぎゃふんと、発したのは私か美登里だったのか。
 爆弾並みの破壊力をもった言葉は、喫茶店内の空気を凍りつかせた。そんな事を直接本人に聞く人間なんてなかなかいない上に、それが図星であるだけたちが悪い。しかも桂木の場合、本当に口にしたままの無邪気な疑問文だったから、茶化して誤魔化すという選択肢は残されていなかった。
美登里は完璧に失語していたが、その真っ赤なトマト状態の表情に、捨てぱちの決意を浮かべた。形のいい唇をきりりと結び、美登里は桂木を見据える。
「ずっと好きでした! あの……私とっ付き合って!」
 落ちる沈黙。
 じいっと美登里を見つめる桂木と、それに耐え切れなくなり顔を伏せる美登里。そしてその二人の間を行き来する私の視線。その沈黙の重圧に美登里がぺしゃんこになる前に、それはあっさりと桂木によって破られた。桂木は顎にほっそりとした指を添えて、とんとんと軽く叩くと、まるで新しいゲームを始めるかの如く、にやりと笑った。

「俺を楽しませてくれるなら――それもいいな」

 なんですか、それ。
 私の心の声は、感極まって泣き出した美登里によってかき消され、ケーキを美味しそうに食む桂木を見つめながらも、何故だか釈然としない気持ちを持て余す。
 既に冷たくなったチャイのように、私の幸福感もあっというまに冷めてしまった。

 初っ端から波乱万丈の、恋愛の秋である。



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