三十二話 / 恋人達の「せ」の付くアレ


 お祭りというものは総じて、人の心を浮き立たせるものである。
 落ち葉舞い散る季節に催される文化祭は、また体育祭とは違った高揚感を生徒達に与える。どことなしに浮き足立ったものを感じながら、私はひっそりとため息を吐いた。
 そう、ため息。それは最近の私のデフォルトになりつつある――というのも、原因といえば、あの誰の迷惑をかえりみない男と、そしてこの人。

「桂木君が食べかけの肉まんを食べるか? って聞いてくれたの! もっ勿論断ったわよ! そんなっはしたない! でも、桂木くんって……歯形まで綺麗よね! キャー! 私ったら。私ったら! 死んでもいい!」

 ああ、何この人。マニアックだな。
 心の中では醒めた感想を抱きながらも、私は「ヘェ。ソウデシタカ。ヨウゴザイマシタ」と先刻から壊れたテープレコーダーのように、延々と同じ言葉を繰り返し続けていた。普通なら咎められるであろう不遜な態度も、ピンク色の妖気――まさに妖気だよ――を纏った美登里には関係ないらしい。美登里にしても、口を開けば「桂木君が」を連発しているのだから、お互い様だ。
 人の恋愛話を聞かされ続けるほど苦痛な事は無いな。と思いながら、私はオレンジジュースを一口、飲み込んだ。その僅かに酸っぱい柑橘系の飲み物は、切なげに私の喉を通過していく。
 冗談みたいなカップル成立の後、桂木と美登里の関係は良好に続いてるらしかった。といっても、私の判断材料は美登里の話なので多少は誇張されている可能性も捨てきれないが。
 兎も角、二週間ほど経った現在でも、美登里のテンションは醒めやまず、すぐに広まるだろうと思っていた学校での噂話もとんと聞えてこない。美登里はどうやら私の想像以上に奥ゆかしかったらしい――友達いないのかという不安もちらりと頭を過ぎる。
 知人の秘め事なので、スクープに嗅覚が利く紀子にも絶対に面白おかしく報道する事だけはないようにと口ぞえはしておいた。紀子はまだ未練がましい眼で「ドラマチックに演出することも出来るけどぉ?」と呟いていたが私は首を振る。『秘められた恋情! その波乱万丈な愛の軌跡!』とでもやられたら、美登里は卒倒するだろう――そしてその火の粉を浴びるのは私だ。
 飄々としている桂木は我関さずだろうし、そのゴーイングマイウェイなスタンスを崩すとも思えない。実際に美登里と付き合い始めた今でも、以前と変わったことは無い――つまりは、いつものようにいじられていると言う訳だ。
 私は美登里に遠慮をして桂木とは距離を置こうと思ったのだが、私が避け始めると桂木は途端に不機嫌になるし美登里は桂木至上主義な上に「猛獣使いなんでしょ?」と妙な理解力を示されたから、私の中途半端な立場も変わる事は無い。
 ただ、のろけ話を聞かされるのは億劫だったが、頬を薔薇色に染め上げる美登里は可愛かった。
勿論、顔立ちが綺麗で美人といわれる部類に入っていることにも要因はあるが、それよりも「桂木」という名前を口にする時の表情が、私にも覚えがある典型的な病――恋をしているのだと明瞭に物語っていた。
 柔らかく緩む頬とか、微かに潤んでいる瞳とか、そわそわと落ち着き無く動く指先とか、言葉の代わりに体中で「桂木の事が好き」だと表しているのが解る。そんな風に素直に好意を相手に示せる事を可愛いなと思い、同時に少し羨ましさを感じる。私も結城さんの前で、そんな風になっているのだろうか――そうだとしたら、恥ずかし過ぎる。
 想像で頬がかっと熱くなった。掌で自分の頬に風を送って冷ましていると、美登里はちらりと不審げな視線で見たが、彼女の幸せに水をさす事はなかったらしく、気を取り直したように話を続けた。
「――でも、一つだけ。何が不満かって言うと。アレが無い事よ」
「アレ?」
「察しが悪いわね! 恋人達がするアレよ! アレ! 『せ』の付く!」
 顔を赤らめながら興奮して喋る美登里のエルボーが私の脇を掠めていった。あっぶねぇ!
 身を捩りながらも私は美登里の言葉を吟味する。「せ」の付く恋人同士のアレ……といいますと。十八禁な言葉がすっと頭を過ぎる。まさかセッ――。
 私が返事に窮すると、美登里がついに爆発した。

「接吻に決まってるじゃない! って言わせんじゃないわよー! あんたったらー!」

 今度はクリーンヒット。
 肘が私の横腹を抉る。――嗚呼、彼女はどこまでも奥ゆかしい。


 私はなんだかんだ美登里からの恋の相談を受ける羽目になり、非常に不本意ながらも彼らの色事にも首を突っ込む形になってしまった。美登里曰く、本当に手も繋いだ事も無い「清い」関係らしい――総てを聞き出すまでにどれだけ照れた美登里にぼこぼこにされたのか。脇腹がズキズキ痛んでいるのはその余韻だろう。
 そして私は、知人のそういった話を聞くのは非常にきまりが悪いということに気付いてしまった。
 だってその相手にあったときに、想像してしまうから。いろいろと。
「ん、なんだ2C。俺の顔に何か付いているのか?」
 私は喫茶店のカウンターに席を取りながらも、桂木につい視線をやっていたらしい。気付いてみれば透き通るような翠色の瞳がこちらを不思議そうに見返していた。まさか「先輩がむらむらしてましたよ」というわけにもいくまい――口を滑らせたら取り合えずエルボー三発ぐらいは覚悟しなければならないだろうし。私は視線を引き剥がし、へらりとした笑みで誤魔化した。
「付いてますね。鼻と眼と口が」
「2Cは見事に足りていないな!」
「はい?」
「鼻の高さが!」
「……鋭いご指摘、どうも」
 面白そうに笑う桂木に脱力しながらも、私は改めて「なんで先輩、こんな人が好きなんだろう」と不思議に思った。私だったらたとえ容姿が特級品でも絶対に嫌だ。それに私が好きなタイプは寧ろ――。

「拓巳、女の子に失礼だよ。御免ね。礼儀の無い育ち方しちゃったみたいで」
 心地よいトーンと、柔らかな声が耳朶を打つ。オフホワイトのセーターを纏った結城さんは、桂木をやんわりと咎めてから申し訳なさそうに言った。私が慌てて、気にしていないと首を振ると、にっこりと安心したように笑う。
 ――そう、私の好きなタイプは、結城さんのように穏やかで優しい人なのだ。
「でも僕”も”君の鼻は可愛いと思うけどね」
「いえっ! ほんとに気にしてませんから!」
 『低い鼻』は結城語では『可愛い鼻』という意味を持つらしい。一気に血が顔に集まった。そんな私を見ながら、結城さんはほんわかと微笑む。それに釣られてますます上がる体温――私の病も重症な様である。
「あ、そういえばこの前頼まれていた紅茶の指導の件だけど。お勧めしようと思ってた、中国茶の葉っぱが丁度切れちゃってた所だったんだ。一緒にお店に見に行こうとも思ってたんだけど――今、ちょっと立て込んでてね」
「あ、大丈夫です。お店の場所だけ教えていただけたなら、自分ひとりで行けますから」
「行き方がちょっと複雑なんだよねぇ、あそこ」
「俺が一緒に行ってやる」
 ギイギイともたれた椅子を揺らしながら、桂木が結城さんの言葉を遮った。手にしていた漫画雑誌をぽいと放り出し、立ち上がった桂木は私を見下ろす。結城さんはそれに安心したように頷いた。
「あぁ、そういえば拓巳も行った事があったね」
「えーと。別に私一人でも行けるますから。大丈夫です」
 何となく二人きりというシュチュエーションは遠慮したかったから、私は咄嗟に断っていた。それは美登里に悪い、という罪悪感からの言葉でもあったし、純粋に桂木と二人で出かけるのは、地獄巡りツアー並みの度胸が必要だと思ったのだ――絶対に桂木と連れ立って何も起こらないわけが、無い。
 自分の言葉を退けられるのが嫌いな天然ゴウダタケシは、秀麗な顔を不満そうに歪める。
「俺がお供するといってるのに、まさか断るつもりか? 我侭を言うな!」
「……その最後の言葉、いつもの会長にそっくりそのまま返しますね」
「2Cの癖に生意気だっ!」
 桂木の逆襲は予想済みだったので、私はひらりとカウンターの椅子から飛び降りた。しかし優れた動体視力と長いリーチを持つ桂木にとってはそれはただの小細工に過ぎなかった。しなやかな腕に絡め取られ、頭は万力のような力で締め上げられる。
「いだだだだだ。いだいっ!」
「どうだ参ったか! この無礼者めが!」
「……拓巳、じゃれ付くのはいいけど、それぐらいにしときなさいね」
 舌打ちと共に、締め付けられ巡りが悪くなっていた血が戻ってくる。首をごきりごきりと鳴らしながら、私はそっぽを向いている桂木に視線を移した。その表情は叱られて不満そうにしている子供そのものだ。流石の会長もやはり親の言う事は聞くんだなと感心していると、ふっと結城さんが笑った気配がした。そしてふんわりとした石鹸の匂いを伴って、唇が私の耳に寄せられる。
 ひとつ、強く脈打った心臓の音が聞えた。そしてくすくすと笑いを含んだ声が鼓膜に届く。
「―― 君と拓巳、体育祭で勝負してたんだって? 拓巳、まだ貸しがあるみたいで悔しがってたから、よかったら今回は拓巳に案内させてやってくれないかな? 僕からもお願いするよ」
 さらさらと流れる言葉は呪文のようで、鼓膜と共に私の心をも震わせる。そう、それは多分、強力な催眠術と同じ力を持っていて。
 私は促されるままに、頷いていたのだ。


 確かに付いてきてもらってよかったかも。
 数種類の中国茶を手に、私は歩いてきた道筋を振り返る。大通りから入った裏路地は蜘蛛の巣のように入り組んでおり、桂木がいなかったら店には絶対にたどり着けなかっただろうし、もし、見つける事ができたとしても、帰ってくることは出来なかっただろう。
 斜め前を悠々と歩く桂木の頭を見上げながら、私はそのペースに引っ張られるようにして歩く。コンパスの長さは違うから、付いて行くのには必死だ。時々、桂木はくるりと後ろを振り向いて私が追いつくのを待ってくれた。
 大通りに出れば、後は簡単だ。眼を瞑ってでも帰れる――いや、それは大げさにしても。私はおもむろに立ち止まり、桂木に素直に感謝する事にした。
「会長。今日は有難うございました。初めは生意気にもお供いらないって言ってましたけど、会長がいて助かっちゃいましたよ」
「やっと俺の偉大さを思い知ったか未熟者! 最初からそういえばいいんだ」
 ぽかりと頭を叩く拳も機嫌の良さを反映してか、力が込められていない。少し傾きかけた太陽を仰いでから私は「じゃあそろそろ帰りますんで、結城さんによろしくお願いしますね」と軽く会釈をした。
 そして目に入った桂木の笑顔に、第六感が警報を鳴らす。翠色の瞳はきらきらと悪戯そうに輝き、薄い唇が綺麗な弧を描いていた。
「まさか2C、俺に案内だけさせておいて帰るつもりじゃないだろうな」
「だ、だって、これは体育祭の時の勝負の約束で――」
「俺はそんな事、一言も言ってないぞ! 世の常、人の常はギブアンドテイクだ!」
「会長の場合、いつもテイクアンドテイクじゃないですか……ってちょっと!」
 大きくて暖かい何かが掌を覆った。それが何かと知覚する前に、私は物凄い力で前方に引っ張られる。つんのめる様にして歩き出した私の前に伸びた右手は、桂木に繋がっていた――って、手繋いでるんですか!?
「ちょちょちょ、ちょっと離して下さいよ!」
「煩い! お前は歩くのが遅いんだ! 文句を言うな!」
「お供なら先輩を誘えば良いじゃないですか!」
 ぶんぶんと振り払おうとしても、ぴったりと合わされた掌は接着剤でも付いているのかと思うほどだ。私の悪足掻きを桂木は傍観し、私が腕を振りほどく事に疲れきったところで、馬鹿にするように鼻をならした。そう、相変わらず傲慢な態度で。
「誰が朝田の話をしている! 俺は今、『お前』と遊びたいんだ!」
「会長、朝倉です。あさくら」
 律儀に訂正すると、名前なんてどうでもいい! と桂木は不貞腐れる。どうでもよくねぇよ。とすかさず突っ込みを入れておくものの、掌は離れようとはしないし、このままずうっとここでこうしているわけにもいくまい。私は深くため息を吐いと、肩を軽くすくめた。

「……はぁ、解りましたよ。付き合えばいいんでしょう。付き合えば」
 その台詞を言うないやな、私の体は前に引っ張られる。文句を言おうと顔を上げると、ゲンキンなことにさっきの不機嫌さを払拭した桂木の嬉しそうな顔。
 そんな顔を見たら、なんだか、もう。勝手にしてくださいって感じだったわけで。
 桂木の色素の薄い髪が夕日に溶け出していたのを目にして、私は諦めの気持ちと共に、素直にそれを綺麗だなと思った。


「会長、お供ってどこ行くんですか?」
「む? 考えていないな」
「何ですかそれ。あの、取り合えず、逃げないんで手を離していただけます?」
「イヤダッ!」
 桂木と手を繋ぐ行為自体には別に抵抗は無かった。図体はでかいが中身は小学生だと理解していれば、あまり羞恥心というのは湧いてこない。それよりも感じてしまう居たたまれなさは周りの目にあった。
 絶世の、という形容詞が似合ってしまう彼は、自然と老若男女を問わず視線を集める力があるらしく、さっきから通り過ぎるたびに、通行人は桂木にうっとりしてから、その視線は手を繋いでいる私に自然と移行する。
 その夢から醒めてがっかりしたような顔といったら! 何? 私が何か悪い事でもしましたか? 失望させてすいませんねぇ! ……と、このように心が荒むのだ。
 立ち止まりながら押し問答をしている今現在も、視線を集めている事を肌で感じるし、ほら、あの人だって。
 ふと、こっちを見つめている人物が目に入った。派手かつ露出度が高い洋服と、すらりと伸びる長い足。セクシーと評価するに相応しい女の人だ。
 私は桂木に視線を戻し、いい加減にしてください。とぴしりと言おうと口を開いた……ところで、それは驚きの余りあんぐりと固まる。
 桂木の体に、大きな赤い塊が飛びついてきたのだ。桂木はそれに事前に気付いていたのかは不明だったが、少しも状態が揺らぐ事は無かった。そしてそれはぶちゅう、と音を立てながら桂木の頬に、美登里の言葉を借りるなら「恋人達のせのつくアレ」をかましたのだ。
 度肝を抜かれて硬直している私を尻目に、桂木は呆れたような視線を”彼女”におくる。彼女は脳天を突き抜けるほどの黄色い声で言った。

「たっくんー! ひさしぶりぃ! 元気にしてたぁー!」

 ――たっくんって誰。っていうか貴方、誰。
 繋いだままの手はそれでも最後まで解かれる事は無かったのだけれど。



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