三十四話 / あと一つ、たりない言葉


 私はのろのろとした動作で靴を履き変えた後、教室に向かう道のりを自分のつま先ばかり見て歩いていた。ぺたりぺたりと、ゴム製の靴の裏が自分の気持ちを反映しているようになんとも間抜けな音をたてている。
 衝撃の一夜をあけて、朝一番に見つめた鏡の中の自分は、眼鏡未装着のノビタのように目が腫れていた。酷く泣いたのは一目瞭然だ。今でも不機嫌そうにひん曲がった唇は大して整ってもいない顔の造詣を見事、崩す事に成功していることだろう。こうなったら目指せ福笑いだ。
 そんなやけっぱちな事を考えながらも、私の頭の中を占めるのはやはり昨日のあの出来事だった。
 会いたくない人物は二人居る。向ける二つの感情は少し異なったものが、とてつもなく気まずいというのは共通している。特にことの元凶・桂木とはいったいどんな顔して会えばいいのだろう。詰ってやるべきか、それとも無視してやるべきか。ああ、できれば一生会いたくない。――って、ちょっと。なんで私があの男を避けなきゃいけないんだろう。どちらかといえば、土下座して謝らないといけないのは、あっちのほうだ! そう! 私はなにも悪いことなんてしていないし! どっちかというと被害者なんだから!
 ぐっと、拳を握り締めながら顔を上げると、目の前にぬりかべが出現した。まったく予測していなかった私は避ける事も出来ずぶつかり、「ぶしっ」と微妙な声が漏れる。私が謝るよりも先に、心の底から呆れたような声が頭の上から振ってきた。

「――前方不注意もいいところですね」

 聞き覚えのある声に全身がピシリと音を立てて凍結した。もしかしなくても、私がぶつかったのは、今会いたくない人ナンバーツーかい? あんな醜態をさらした本人に遭遇してしまうなんてと、私は本気で自分の運のなさを悔やんだ。
 出来ることならば、夢か幻であって欲しかった。しかし、恐る恐ると顔を上げた私の目の中に飛び込んで来た光景は、それが現実だという事を嫌というほど示している。
 そう。峰藤が表情の読めない瞳で私を見下ろしていたのだ。

「ぎゃっ! 出たっ!」
 脊髄反射で私は奇声を発し飛び退ったが、後ろを歩いていた女子生徒の足を踏んづけて、迷惑そうに文句を言われた。それに慌てて頭を下げていると、出会いざま失礼な事を口走った私への非難の視線が背中に突き刺さっているようだった。それでもカウンターパンチのような嫌味がなかったのは奇跡に近い。
 私は脱兎の如く逃げ出したい気持ちを堪えて、ゆっくりと峰藤のほうに向き直った。峰藤は一寸の狂いなく制服をかっちりと着込み、硝子越しの瞳がこちらをまっすぐと見つめている。その視線が自分の酷い顔に注がれているような気がして動揺したが、私はなんとか平静を保ち、朝の挨拶を搾り出す。
「……お早う、ございます」
「ええ」
 「ええ」ってなんじゃいこの眼鏡! ちゃんとした挨拶一つ出来ねぇのか! といつもなら心の中で罵っていたかもしれない。だがしかし、この日の私の心の中は、そんな突っ込みを入れている余裕などなかった。
 なんてったって、これで二度目だ。天敵、峰藤に泣いている所を見られたのは。
 ああ、なんたる屈辱! こんな奴に「泣き虫女」だという弱みを握られたら、それを徹底的に揶揄られるだろうし、一生、頭が上がらなくなってしまう。しかも泣いていた時は私も心が弱くなっている所為か、峰藤の気遣いというか優しさを微かに感じるような気がしたから落ち着かない。どういうつもりか知らないけれど、私を馬鹿にするのがデフォルトな普段の峰藤と違和感がありすぎて混乱する。っていうか優しい峰藤って、叫びだしたくなるぐらい怖いんですけど!
 そんな私の心の中の葛藤を知ってか知らずか、眼鏡のフレームをついと上げながら、峰藤は落ち着いた雰囲気を身にまとい無言で立ち尽くしている。彼は何か問いかけたい様にも見えたが、それを躊躇しているようでもあった。生徒達が、突っ立っている自分達を何事かと横目で通り過ぎていく。沈黙と浴びせられる好奇の視線に耐え切れず、私は頭を下げ通り過ぎようとした。
 峰藤は中途半端に手を上げ、それを遮る。私は眉を寄せたが、本人の不本意そうな表情を見れば、それは無意識だったのだろう。私の訝しげな視線に僅かに峰藤が怯んだような気がした。
 ――何だ、この人は。なんだか様子がおかしいけれど。変なものでも食べたとか?
 そして、ふと視界の隅で捕らえてしまった人物に視線は釘付けになる。
 それは紛れもなく、会いたくない人堂々のナンバーワン、桂木拓巳だった。
 欠伸を漏らしながら、下駄箱の方からやってくる桂木は眠そうに見えたが、散々頭を悩ませたあげく酷い顔になっている私と比べたら、不公平もいいところではないか。それでもチキンな私はまともに桂木と顔をあわせる勇気など持ち合わせてなかった。文句を言うなんて夢のまた夢だ。段々と近づいてくる桂木にパニックをおこしながら、私は何か隠れるものは無いかとあたりを見回した。そして結果、何を血迷ったのか近くに突っ立っていた峰藤の背後に身を隠したのだ。
「何を」
 ブレザーを掴むと珍しく動揺した声が聞え、ぴくり、と峰藤の背中が僅かに震えた。峰藤はさぞ怪訝そうな表情をしているだろう。しかし、私には気にする余裕なんてあるはずがなく、息を潜め、このまま桂木が気付かずに通り過ぎてくれるのを待つのみだ。ぎゅうと、ブレザーを掴む手にも段々と力が入る。
 ぺたぺた。ゴムをひきずるような音が次第に近づいてくる。そして桂木は峰藤を見つけると、軽く声をかけ近寄ってきた。――し、しまった! 隠れる場所を間違えたっ!
 恐慌状態に陥った私は動かぬ銅像となった。
 透明になるようなスキルを持っていなかった私に、桂木が気付くのは当然の事だ。峰藤の背中にくっついている物体に首を傾げると、桂木はひょいと後ろを覗き込む。そこに私を見つけて、桂木は驚いたようだった。
「2――」
 桂木は一瞬、声をかけようとしたみたいだが、私が峰藤の背中にへばりついて息を殺していると、その意図に気付いたようだった。そしてブレザーを掴む手に視線を落とすと、すっと纏う空気が冷えた。桂木の冷めた怒りを肌でぴりぴりと感じて、私はますます萎縮する。
 そして桂木の感情を殺した声が、したたかに耳朶を打った。
「――俺のは、顔も見たくないんだな」
 その言葉に、このままではいけないと反射的に顔を上げると、桂木の翡翠色の目はすっと細まり、切りつける様な冷たさを纏っていた。しかし、そこには苛立ちと、なぜか裏切られたような傷心の色が浮かんでいて、私は小さな衝撃を受ける。

「また胸がむかむかする。やっぱりお前なんて嫌いだ」

 整った薄い唇が険のある言葉を紡ぎ、桂木の背中はあっという間に遠ざかっていく。
 私の胸には深々と桂木の言葉が突き刺さっていた。こうも真正面を切って人から「嫌い」だと言われたのは初めてで、それは、これまでどんな形にしろ憎からずは思われていなかっただろう桂木である。しかも言った本人が傷ついたような顔をしていたのだから、自分が悪いような罪悪感まで感じる始末だ。……なんだか立ち直れないほど落ち込んできた。
 私が顔を上げられずにいると、前を向いたままだった峰藤が居心地が悪そうに口を開く。
「――そろそろ離れて下さい」
「あ、すいません、でした」
 ぱっと掴んでいたブレザーを離し、私は下を向きながら謝った。峰藤の視線は相変わらず私をとらえているみたいだったが、それを見上げる元気も無い。しばしの間、沈黙が落ち、それを破ったのは静かな峰藤の声だった。峰藤はあの雨の中で問うた答えを再び繰り返す。
「何か、あったのですか」
「いえ、別に」
 私も昨日の行動をリピートするみたいに、首を横に振って否定した。しかし、昨日とは違い、峰藤は明確な答えを望んでいるようだった。
「桂木の様子が変でした――それに貴方も」
「なんでもないですってば……それになにかあったとしても、副会長には関係ないですから」
 まさか落ち込んでいる理由が、桂木にキスされたからなんて、峰藤に言えるはずも無い。私の突き放すような言葉に、峰藤の表情が凍りついた。しかし、俯いている私にはその表情は見えなかったのだ。峰藤は自嘲する様な乾いた笑いを一つ漏らす。
「そうですね。貴方が落ち込もうと私には関係ありません」
「……」
「それなら、あんな顔で私の前に現れないで下さい。気が散るんです」
 顔を上げた私の瞳に写ったのは、苦々しげな峰藤の顔だった。それが何故か、さっきの桂木の顔に重なる。思っても見ない反応に、私は息を呑み何もいえなくなってしまった。峰藤は私を睨み付けると、手に持っていたものを突きつけるように私に渡す。戸惑いながらも受け取ったそれは、ぐしゃりと握りつぶされた冷えピタだった。
「……これ」
「貴方にとっては余計なお節介でしょうけれど、見られたものではありませんから」
 最後にはいつもどおりの皮肉げな笑みを峰藤は浮かべた。

 自分が酷い事を言ってしまったのだと気付いたのは、もう峰藤の背中は手の届かないほど遠くへいってしまった後だ。手元にある冷えピタに視線を落とすと、峰藤に対する罪悪感が襲ってくる。
 何でこうなっちゃったんだろう。――私って最低だ。
 私は唇を噛み締めながらも、教室へと向かって重い足を踏み出した。

 ぼんやりと沈んだ気持ちで座っている間に時間は過ぎる。先生の発した言葉など特別な意味などもっていないただの音の羅列として耳を素通りしていた。あっというまに放課後になると、やっと家に帰れるということで、私は心の底からほっとしていた。何故だか身体が重い。今日は帰って寝よう。
 問題はまったく解決していなかったが、それについて考えるだけでも気分が落ち込み、気力が奪われていくようだ。私は緩慢な動作で教科書を机の中にしまいこむと、のっそりと立ち上がった。すると紀子が、遠慮がちに私の机の横に突っ立っていた事に気がつく。その私を気遣うような視線に、私は首を傾げた。
「ねぇ、元気がないみたいだけど――大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど大丈夫だよ」
 らしくない紀子の言葉に、少しだけ笑ってしまう。返した曖昧な言葉に紀子は危機感を感じたのか、ますます心配そうに顔を覗き込んできた。
「あんた、顔真っ青だけど……」
 そこで紀子は言葉を切り、周りを見渡すと声を潜めた。
「桂木会長となんかあった?」
「――なんで?」
 私の微かに強張った表情に気付いてか、紀子も緊張した面持ちで言葉を続けた。
「実は昨日、あんたと桂木会長が手を繋いで歩いている所見たって子が居てさ。それどころか、キスしてたってネタまででてくるし。私はあんたに限ってまさかだから、否定しておいたけど――ちょっとほんと大丈夫なの?」
「大丈夫だってば。ちょっと気持ち悪いだけ」
 真っ青な顔をしている私にこれ以上の話は無理だと思ったのだろう、紀子は口をつぐんだ。そして労わるように優しく、気をつけて帰りなよ、とだけ言い肩をぽんぽんと叩いた。

 この気分の悪さは精神的なものからきているに違いなかった。桂木と一緒にいるところを見られていたなんて。しかもキスされた所まで。それを見られたということは、いずれ美登里の耳に入ってしまうかもしれない。その時の美登里のショックを想像すると、重石でも飲み込んだように胸が重たくなった。二、三発は確実に殴られるだろうな。という痛みに対する怖さもあったが、それよりも恐ろしいのは剥き出しの怒りと悲しみをぶつけられることだ。今の私には、負の感情を向けられて、それを誤解だと説明できるような気力さえもない。
 靴箱から外履きを取り出し、内履きを靴箱に戻そうとした時、誰かの手でその扉はパタンと閉じられてしまった。それをボンヤリとしながら見上げれば、橙色の夕日を受けその人物は立っていた。

「ちょっと、顔貸していただけないかしら?」

 美登里はそう言って、顔の筋肉をゆるゆると動かし笑みを貼り付けた。
 私はぎこちなく首を縦に振ることしか出来なかったのだ。



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