三十五話 / 嗤い、怒り、泣く女


 私が葬送行進曲でもBGMにかかってそうな重い足取りで美登里の背中を追いかけ、階段を踏み外しそうになりながらも到着したのは屋上だった。鈍い音を立てて開いた金属の扉の向こう側はおあつらえ向きにどんよりとした曇り空だ。そのうちまた昨日みたいに一雨来るかもしれない。
 紺色の制服のスカートをひらめかせながら美登里は鉄柵に歩み寄った。体育部が活動しているのか、グラウンドからは威勢のいい掛け声が風に乗って聞こえてくる。
 私は美登里の背中をじっと見つめた。これから話題になることの予想は嫌というほどついている。しかし、それになんて答えるべきか、どう振舞うべきかなんて、麻痺した頭では考えていられない。そんな私の事なんてお構いなしで、美登里は唐突にくるりと振り向いた。
「ねぇ」
 その声色はいたって穏やか。しかし、僅かな緊張を孕んでいるようにも感じたのは私の気のせいだろうか。私は身構え、喉をごくりと鳴らす。緊張に顔を強張らせる私を見て、美登里は微かに笑ったようだった。そして薄紅色の唇がスローモーションで動いた。

「あなた、桂木くんと――キスしたって本当なの?」

 この前までの恥じらいなんてどこへやら。言葉のオブラートなんてしゃらくせぇ、とばかりに核心を突く言葉と、まっすぐに覗き込んでくる視線が突き刺さる。私はコンマ何秒かで目を逸らした。正直に「はい、まったくもってその通り」なんて言う勇気が私にあるわけがない。それに確信を得たのか「貴方って本当に解りやすいのね」という美登里の皮肉っぽい言葉が聞こえてきた。そして、ひゅと美登里の腕が風を切る音も。
 ――殴られる。
 私は覚悟を決めて反射的に目を瞑る。
 しかし、予測された頬への衝撃はこなかった。その代わりに、感じるのは執念を感じさせる鈍い痛み。驚いて目を開けると、美登里はぎりぎりと私の頬を形のいい爪で抓り上げ、至近距離から睨んでいた。

「『泥棒猫』って、殴られるとでも思った? そんなべたなドラマみたいな事やるわけないでしょうが。バカ、アホ、マヌケ、アンポンタン、オタンコナス」

「……先輩。怒って、ないんですか?」
 自分の想像していた美登里の反応とはまるで違っていた。私の口から出たへろへろの言葉に、美登里の顔がこれ以上ないというほど不快そうに歪む。それに伴って私の頬を抓る指にも力が込められたようだ――はんぱなくいたいっ!
「貴方、脳みそ腐ってんの? どこの世界に彼氏とキスした女の頬抓ってるのを《怒ってない》って思うわけ? 正直、貴方の顔の皮ぜんぶ引っぺがしてやりたいぐらいむかついてるわよ。……やっぱり三発ぐらい抉っといていいかしら」
「ちょ、ちょっと、すいませんすいません!」
 腕を折り曲げ自慢のエルボーを振りながら脅す美登里の手から、私は必死で逃れた。やっと解放された頬はじんじんと熱を持ち鈍痛を訴える。美登里は離した両手を合わせると、詰まらなさそうに鼻で笑った。
「貴方に人の彼氏を取ってやろうなんて甲斐性があるとは思えないし? どうせぼっとしている時にキスされた、とかそんなところなんでしょ」
 あからさまに貶されていたが、まったくのその通りだったから何もいえない。押し黙る私に、美登里は馬鹿にするような目を向けた。
「今のはキスされるような油断してたぶんよ。それぐらいですんだってことに感謝すれば? ――これで許してあげる」
 美登里はひらひらと掌をふり背中を向ける。どうやら気が済んでとっとと帰れという事らしい。総てを理解した上での美登里の振る舞いと台詞は理不尽だが、すべてを無かったことにするような態度に違和感を抱く。被害者である私だって凄くショックだった。だけどそれ以上に付き合っている好きな人が誰か別の人とキスをしたという事実は痛いし、辛い。私だって、もし結城さんが桂木のような事をしたとしたら、散々に悲しみ泣き喚いていただろう。そう思うと、美登里の態度は淡白すぎる気がした。
 ちっとも動こうとしない背中を見つめていれば苛立ちは消えたが、私は困惑しその場から動けなくなっていた。しばらくたっても立ち去らない私に気付くと、美登里はうざったそうな表情でこちらに視線をやる。
「何? さっさと帰ればいいじゃない。イライラするから、できれば顔、見たくないんだけど」
 刺々しい言葉は、まるで過剰に自分を守っているかのようで痛い。傷を抉るような言葉だとは思いながら、それでも私は聞かずにはいられなかった。
「美登里先輩は――」
 私はこぶしをぎゅっと握り締める。掌にかいた汗が気持ち悪かった。それなのに、喉はからからに乾いている。

「これから、何も無かった顔して付き合っていくつもりなんですか?」

 私の唐突な言葉に美登里の形のいい眉がぎゅっと釣りあがった。聡い人だから質問の意味はしっかりと伝わっているはずだ。私を射殺そうとするぐらい鋭い視線にひるみそうになりながらもぐっと顔を上げる。さっきまでの呆れるような態度とは違い、今度は相手を萎縮させるような怒気が美登里から発せられていた。
「なんで、部外者の貴方にそんな事いわれなきゃいけないわけ? あなた何様?」
「お節介なのは解ってます。だけど、」
「お節介だって、解ってるのなら黙ってなさいよ!」
 ヒステリックに投げつけられた言葉に私は沈黙した。今にも触れれば切れてしまうような緊張感がぴりぴりと肌を刺す。爛々と怒りに燃える眼が、私にはめいっぱい悲しみを叫んでいるようにもみえた。

「解ってるわよ貴方が言いたいことなんて。――桂木君が私のことなんて好きじゃないことだって、他に付き合ってる女がいるのだって前から知ってた! そんな事、貴方に言われるまでもないわ。ずっと、ずっとずっと見てたんだから!」

 美登里が知っていた事がショックだった。全部知ってた上で、あんな風に幸せそうに笑ってたなんて、なんだか信じられなくて。真っ白になった頭の中で「何故」という言葉がぐるぐると回る。
 私だったら、好きな人には自分の事だけ見ていて欲しい。好きな人が他の人と関係していると知っていて、知らん顔でなんて付き合えない。それが普通だと思っていたから。

「なんで。だって……悲しく、ないですか。そんなの」
 私のしどろもどろな問いかけは、美登里の嘲笑で遮られた。
「貴方、本当にバカ? 悲しくないわけ無いじゃない。私だって、自分だけを見て欲しいって思うに決まってるでしょう? 桂木君が貴方や他の女に絡んでて、それを見て平静でいられるとでも思ったの? どこまで無神経なのよ!」
「だったら、我慢する必要なんて無いじゃないですか! 私に、会長にだって言えばよかったじゃないですか! 辛いのを我慢して、見てみぬ振りしてるなんて……そんなの、付き合ってる意味なんてないじゃないですかっ!」

 思わずそう叫んだ時、頬が熱いと感じた。
 叩かれた頬に手をあてて美登里を見ると、彼女は悔しそうに――泣いていた。唇を噛み締めながら、あの時輝いていた瞳は苦々しげに歪み、際限の無い涙があふれ出していた。美登里は思わず叩いてしまった手を握り締め、それは小刻みに震えている。

「嫌われたく、無かった! ”形”だけだとしても繋がっていたいの! 一緒にいたかったのっ! 悪いっ? 私はそうでしか桂木くんを繋ぎとめる自信が無いんだからっ! へらへら笑ってるだけでかまってもらえる貴方と一緒にしないでよっ!」

 美登里は掠れた声で私を責める。思わず近づこうとした私に背を向け、美登里は私を拒絶した。
「泣いたらっ、叩いたら負けだって思ってたのに。貴方が、貴方のせいよ! 全部っ!」
「せんぱい、ご」
「謝ったら本気でぶっ飛ばすから。私をこれ以上惨めにしないで――お願いだから」

 消え入るような言葉に、伸ばしかけた手を引っ込めて私はぺこりと頭を下げた。
 そして来た時と同じようにやるせない気持ちのまま屋上の扉をくぐる。キィと鳴いた屋上のドアの向こうの美登里の背中が最後に視界に入った。
 それは、やっぱり泣いているようで。
 私もなんだか無性に泣きたくなったのだ。



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