三十六話 / 神様は天然タラシ。


「――だよ」
 ぼんやりと緑色の植物に私の視線は縫いとめられている。その行為に意味なんてものは無かったが、私の頭の中にはぼんやりとした霞が掛かっているようだった。
 そして再び耳朶を震わせたのは柔らかい結城さんの声だ。
「お茶葉、少し蒸らしすぎだよっていったんだけど、聞こえてた?」
「はっ、え?」
「うん。それね、苦くなりすぎちゃうよ?」
 結城さんがそっと指差したのはお茶葉を蒸らしていた中国茶器。私はようやく覚醒し、目の前にある茶壺を慌てて掴む。熱されていたそれは私の指にひりつくような痛みを与えた。鳥肌が立つような熱さに、反射的に茶壺を離せば、茶壺はがしゃんと不快な音を立ててカウンターの上に落ちる。
「ごっ、ごめんなさい!」
「中国茶器は丈夫だから大丈夫。そんなことより、火傷したんじゃない?」
「あ……」
「ちょっと手、かしてね」
 結城さんは長く綺麗な指で私の手首を掴むと、流水へと浸した。冷たい水になぜられた指からは火傷特有のひりひりとした痛みはすっとひいてゆく。その水が指先を伝いシンクへと吸い込まれていくのに私はしばしの間、魅入られていた。
「そこまで酷い火傷じゃないみたい。少しだけひりひりすると思うけど、すぐに痛みもひくよ」
「あ、はい。……すいません」
 結城さんは申し訳なさから俯いた私の手を引っ張ると、誘導するように椅子に座らせた。少し吃驚したように見つめる私に結城さんは言う。
「少し休憩しようね」
 迷惑をかけるのは忍びなかったが、この状態では私の火傷が増えるだけだろう。
 そう判断した私は結城さんの提案に素直に甘えることにしたのだった。

 以前約束した通り私は、中国茶の入れ方を結城さんにレクチャーしてもらうため、今日、喫茶店へとやってきていた。本当なら、結城さんと二人で、浮き立つ気持ちを押さえつけながらも、らぶらぶな時間を過ごす予定だったのに。それとは正反対な気持ちでここに居るのはなぜだろう。
 カウンターの向こうで動きまわる結城さんの背中をぼんやりと見つめながら、私はふと後ろを振り返る。
 ――窓際。
 いつもそこを指定席としている人の姿は見えなかった。それにほっとしながらも、なぜか複雑な気持ちで私は重たい空気を吐き出す。
「はい。どうぞ」
 結城さんの柔らかな声と共に、花のような香りが鼻腔をくすぐった。私がやりかけにしていた中国茶を入れなおしてくれたらしい。お礼をいいながら私はそれを口に運ぶ。ふわりと爽やかな味が舌の上に広がった。しかし私の気持ちは萎んだままだ。
「……美味しいです」
 その言葉は嘘ではない。しかしその暗い声色に結城さんは苦笑した。
「――君と会った時の事を思い出しちゃうなぁ」
「え?」
 かけられた意外な言葉に、私は緩慢な動作で顔を上げる。そこには懐かしそうな表情をしている結城さんがいた。結城さんは組んでいた腕を解くと、扉のほうを指差す。
「セーラー服着た君が、『悩んでます』って感じの表情で、僕の喫茶店に入ってきて、それなのに僕の入れたハーブティーを一口飲んだら、一気にリラックスした顔になっちゃって。不謹慎かもしれないけど、あの時は嬉しかったなぁ。僕のお茶であんなに喜んでくれる人って久しぶりだったから――でも、今日の君をリラックスさせるにはどうやら力が足りないみたいだね。……なんだか悔しいなぁ」
「いえ……別にそんなわけじゃ」
 私はそれを否定したが、その声には力が入っていなかった。見上げた私を結城さんの瞳が捕らえる。それは優しい色をしていて。まるで私の心の中を見透かすかのようだ。
「悩み事、あるんじゃない? 僕じゃ力になれないかもしれないけど、吐き出したほうがいい」
 そこで結城さんはウインクをひとつ。
「ほら、王様の耳はロバの耳って言うし、スッキリするよ? ――今、結城悩み相談室に相談していただくと、ライチゼリーがもれなく付いてきますが。いかがなさいます、お客様?」
 冗談めかして言った結城さんの声がじわりと心に染み入る。
 なんでこの人はこんなにも私の心の中に自然に入りこんでくるだろう。そして優しい言葉で私の心のもやもやを癒してしまうのだ。まるで、いつも私の心を救ってくれる神様のような人――ああ、こんなに好きにさせといて、どうするつもりなんだろうこの人は。
 最後のほうは、殆ど八つ当たりだったけれど、私は心の中で文句を言った。
 悲しいわけではないのに思わずこぼれてしまった涙が頬を伝っていく。それは留まる事を知らないようだ。泣き笑いという器用な真似をしている私に結城さんはハンカチを差し出すというニクイ真似をしてくれた。
 ――やはり天然タラシなのである。

 私は少し腫れた目でライチゼリーをつついていた。結城さんは鼻歌を口ずさみながら食器を洗っている。あのメロディは某ジャニーズ系演歌歌手の曲だろう。腰を振って名前を叫ぶやつ。
 結城さんは悩みを聞くといってくれたが、泣いている間は私を無言で見守っているだけだった。無理に聞き出そうとはせず、私が話し始めるのを待っていてくれているのが解ったからこそ、私は余計に落ち着かない気分になった。
 冷静になって考えてみると恐ろしい事態である。
「えー、あなたの息子さんが、美登里先輩と付き合ってるにもかかわらず、他の人とも関係してて、その上、私までキスされちゃって、被害者は私なのになぜか一方的に怒ってる? みたいで、先輩も泣いちゃうし……私、どうするべきっすかねぇ?」
 ――なんて、いえるわけが無い。
 ちらちらと結城さんのほうへと視線をやると、丁度、目線があってしまった。それに私は恐る恐る口を開く。
「あの、結城さん」
「ん、なぁに?」
 結城さんはこちらに視線だけを向ける。少し冷めたお茶を勢いよく口に含み、ごくんと飲み下すと、私は覚悟を決めた。
「男の人って、好きじゃない女の人とでもその……セックスできるんですか」
 がしゃん。
 結城さんが手を滑らせたのか、食器がシンクの中で音を立てた。
 あ、うろたえてる。
 食器を落としたままの状態で固まっている結城さんは普段見ることのない表情をしていた。それから瞬間解凍された彼はふかぁいため息を付く。
「……最近のジョシコオセイは凄いこと聞くんだねぇ。これは拓巳に年の事言われてもしょうがないかなぁ」
「す、すいません」
 自分がとんでもない質問をしてしまった事に気付き、私は深く恥じ入った。
 青くなったり赤くなっている私に視線をやって、結城さんはひとつ咳払いをする。
「ん。結論から言ったらイェスかな。女の子の夢を壊すみたいで悪いけど、いわば生理現象だしね」
「……そうですか」
 当然の事のようにさらりと言った結城さんに私は少なからずショックを受けていた。
 結城さんも男の人だということは解っていたけれど、他の人とは違うのだと無意識に線引きをしていたのだろう。暗くなっている私に、結城さんはそれでも、と付け加えた。
「――でも、やっぱり気持ちがあってこその体だと思うんだよね。好きでなくてもできるけど、好きな人とはもっと気持ちいいじゃない? それは身体だけじゃなくて心まで満たされてるから、そう感じる事ができるんじゃないかな。だから、好きな人とセックスできるのは、凄く幸せなことだし、同時に大切なことだよ……とオジサンは思うんだけどねぇ」
 最後は茶化すように悪戯っぽく首をかしげて聞く結城さんに、私の顔には瞬く間に血が集まった。
 誤魔化さずに真剣に答えを出してくれた結城さんに対しての感謝と、喜びと、恥ずかしさ。それがごっちゃになって、私は言葉を発することが出来ないまま、ぶんぶんと無言で首を縦に振る。結城さんに貰った柔らかくて、優しくて、温かい言葉が栄養みたいなものになって体中に満たされていく。もやもやとした気持ちはすっと溶けて消えていった。
「――有難うございます。元気でました」
 ぼそりと呟いたお礼に、結城さんは目じりを下げる。

「お役に立てた用でなにより」

 既視感。それは私が結城さんと会った時と同じ鮮やかさを纏っていたもので。
 そして、私の運命を大きく左右することになる文化祭まで、あと五日。



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