三十七話 / ボンドガールは貧乳チャイナ!


 暖めた茶壷に茶葉を敷き詰める。
 高い位置から落としたお湯が、茶壷の中で茶葉を開かせ、それは鮮やかな緑へと色づき始めた。蓋の上から注がれるお湯は、湯気を立てながら茶盤へと落ちてゆく。そしてテーブルの上においていた砂時計をひっくり返すと、私はだいぶ様になってきた営業スマイルを浮かべた。
「この砂が落ちたら、呼んでください」
「はーい」
 一挙一動を観察していた下級生の女の子二人組は素直に返事をすると、自分達の会話を楽しみ始めた。私はそんな会話を背中に受けながら、そっと安堵のため息を吐き、テーブルを離れる。
 ぐるりと視線をめぐらせれば、深めにスリットが入っている中華服姿のウエイトレスが忙しそうにクラスの中を走り回っている。足に履かれているのはつるりとした布地の靴で、頭には二つのお団子がくっついていた。私は赤く光るチャイナ服の皺を手で撫で付けながら、赤のアイラインが引かれた目をあげた。時計が指すのはお昼前。もうすぐで私の当番も終わりのようである。


 南高文化祭は興奮と熱気に包まれ始まった。
 校門から下駄箱までの道に軒並みならぶ模擬店や、校内を歩き回る珍妙な格好をした呼子たち。廊下を歩けば、各教室で流れるロックやレゲェなどが混ざり合って聞こえてくる。文化部はこの日が見せ場だと精を出し、演劇やブラスバンドの演奏などと様々な催し物が企画されていた。
 私のクラスの出し物「中国茶喫茶」も健康ブームのお陰か満員御礼。提案者であり、お茶の入れ方を結城さんから教わったとおりにレクチャーした私は朝から出ずっぱりで、足は棒のようになっている。お茶を入れるのは、かちこちだった最初と比べてだいぶスムーズになっていたが、それでも芸能人でもあるまいし刺さる視線を喜びとは思えそうもない。
 そのとき、開いた扉に私は条件反射となった笑顔を貼り付けた。
「歡迎光臨(ようこそ)……」
 ぴかぴかと浴びせられた光と、軽やかなシャッター音。
 私の笑顔は見事にひきつった。無駄な笑顔をサービスしたことに気づいたからである。
「よっ、姑娘(くーにゃん)! がんばってる? そのスリットいまいち甘いわよ! せっかく客として来てあげてるんだから、サービスしなきゃ」
 カメラを構えながら、親父臭い台詞でセクハラをかましているのはわが友、伊藤紀子である。新聞部の部長であり、行事の写真撮影を担っている紀子はクラスの仕事は免除されていた。それなのに、このコスチュームプレイのような衣装を提案したのは彼女であったから、それはかとなく彼女の思惑が知れるというものだ。他のウエイトレスをターゲットに写真を取り続けている外道パパラッチを私は冷たい目で睨み付けた。しかし、心臓がタワシの紀子は、私の視線を鮮やかにスルーすると、内緒話でもするように顔を寄せてきた。
「あのさ、あんたもうちょっとで仕事終わりでしょ?」
「そうだけど……なによ」
「あのね、私から親友のあんたにひとつお願いがあるんだけど」
「却下」
 私はきっぱりはっきりと即答した。
 前回の体育祭しかりで、ぜったいに、ずぅえったいに、紀子のお願いなんてろくなものでは無いとわかりきっているのである。金か特ダネか、はたまたその両方か。
 私の強固な姿勢に、少しも紀子がひるむ様子は無い。きらりと光る眼鏡を押し上げながら、口元に張り付いているのは胡散臭げな笑み。それは勝利を確信した悪役が浮かべるそれに酷似していた。
「あれ? 私にそんな口を聞いちゃっていいのかしら。私はあんたのために、ある人をつれてきたって言うのに」
「え?」
 私が間抜けな声を上げていたとき、紀子の背後からひょいと”ある人”が姿を現した。
「こんにちは」
 オフホワイトのセーターを身にまとったのは桂木結城さん。三十五歳。男やもめ。私の思い人。

「そのチャイナ服、すっごく似合ってて可愛いね。あ、伊藤さん、僕にさっきの焼き増ししてね」

 私は扉の前でしばしの間、硬直。
 ――なぜアナタがこの外道パパラッチと一緒にいるのでせうか?



 結城さん曰く。
 校門のところで偶然紀子に声をかけられて、旅は道連れ世は情けと、この2Cへと来る事になったそうな。
 ――偶然だって?
 私が疑いの目を向ければ、紀子はあさっての方向を見ながら口笛を吹いている。そんな古典的なごまかし方では隠す気があるかどうかも疑問である。
 とりあえず席に案内して、結城さんがメニューに夢中になっている隙に私は紀子の首根っこを捕まえた。
「……ちょっといったいどういうこと?」
「あら、怒っちゃイ・ヤ! ま、色気はいまひとつっていうか皆無って感じだけど、アンタのチャイナ姿をみて、もしかしたら桂木父もアンタにすっころぶかもしれないでしょ? そのお手伝いをちょこーっとね? ――はいはい、わかったわよ。わかりました。そんなに睨むこと無いじゃない。正直に言えばいいんでしょ? 言えば」
 ぬすびと猛々しいと言うのはこの事だろう。さらりと暴言を吐いた紀子は結城さんの様子を盗み見て、彼の意識がこちらに向いてない事を確認すると、声を潜めた。
「ま、すべての偶然ってのは神様が定めてることであって、必然っていうやつ? まぁ、待ち伏せしてた、とも言い換えられるわね」
「――何を企んでるのよ」
「嫌だわ! 疑り深くなっちゃって! 私が親友の顔見にきちゃ悪いの?」
「紀子の場合、私の顔より福沢諭吉の顔を眺めてるほうが楽しいでしょうよ」
「アッッ! そうだー! ところで、あんた今日の休み時間、誰と回るの?」
 どうやら図星だったらしい。思いっきり話を逸らした紀子に私は諦めのため息をつく。
「回る人? 誰って……あぁ」
 文化祭準備の目の回るような忙しさにかまけて、誰かと一緒に校内を回ろうという約束するのをすっかり忘れていた。思ってみれば紀子は部活の展示と文化祭の写真撮影で、私と回っているような時間も無いし、他の友達もすでに彼氏や友達と約束しているだろう。
「……ま、いいや、誰か探してみるよ」
 自分の失敗に少し落ち込みながらもそう言った私に紀子は、ちっちっちっと、気障な仕草で指を振る。
「落ち込むのは、早いんじゃなーい? ほら、目の前に恰好の相手がいるでしょう?」
 すうっと直線状に視線を流していけば、その先には――結城さん。
「いやいやいやいや、無理無理無理」
 高速回転で首を横に振れば、紀子は強い意志を宿した瞳で、私の肩をがっと掴んだ。その表情は真剣そのものである。
「――いい? あんたは桂木父が好きなんでしょ? そんなに消極的じゃ伝わるもんも伝わんないよ? 好きならがんがんアタックしなきゃ! これはチャンスなんだから、どんどん掴むべきよ!」
「紀子……」
「私は、あんたを応援してるんだから! ね? 頑張りなさいよ!」
 にっこりと笑いながら応援してくれた紀子に、私は同じような笑顔でもって答えた。

「――して、そのココロは?」

「チッ。だいぶ知恵つけてきやがったわね」
 はっきりと舌打ちしながら、紀子が悪態をついた。これでも一年のときから付き合ってきた悪友である。お前の考えている事なんてお見通しだ!
「しょうがない。腹割って話すわ」
「あー、やっぱり聞かなかった振りしていい?」
「私が文化祭の写真を撮って回ってるのは知ってるわね?」
 またまた私の意見は華麗にスルーされる。私はぶすくれながらも先を促す。
「それがね、撮れなかったどころか、どうしても、どおーしても入れなかった場所があったのよ。私も面が割れてるみたいで『新聞部の人は入れません』の一点張りでさ。まったく何考えてんのかしら! 恥ずかしい写真ばら撒きますよ! って台詞にもひるむものの通してくれないし」
 ぷんぷんと紀子は腕を組みながら憤慨している。私は頭を抱えた。
 馬鹿だなぁ、その人、紀子の性格を考えたらどうなるかは火を見るより明らかなのに。

「そんなに隠すならぜったいに見てやろうってのがジャーナリスト魂でしょう!」

 拳を天に突き上げて、紀子、咆哮す。
 あのさ、それってジャーナリストっていうか、野次馬根性ですよね?
 言っても無駄だという事は知りつつ、私は親切にも一応突っ込んであげた。心の中で。
 炎が灯っていると錯覚するような目をこちらに向けて紀子は益々、熱弁を奮う。
「そこで、新聞部のお抱えスパイであるあんたの出番ってわけ!」
「お抱えスパイ? どこのどちらさんが?」
「普通の一般客を装って潜入し、隠された巨悪の写真を一枚二枚パチリパチリと撮ってくるべし! あんたに課せられるミッションはそれだけ! ほら簡単なもんでしょ?」
「っていうか一般客を装うって、隠された巨悪って」
「おあつらえ向きに雰囲気のある服も着てることだし。まぁ、ボンドガールには役不足って言うか乳不……」
「……紀子さん?」
 這うような私の声に、紀子は即座に舌を出しながら、てへへとごまかし笑いを浮かべた。
 しかし、そんな茶目っ気溢れる表情も無駄無駄無駄ァァァ! なのである。その言葉は私の心の傷リストナンバー496に見事殿堂入り。はっきり言って目出度くともなんとも無い。
「あ、お茶頼んでもいいかな?」
「あっ、はい! どうぞ!」
 私は飛び上がりながら背筋を伸ばした。声をかけた結城さんはくすくすと柔らかい笑い声を漏らす。
「じゃあ、ウエイトレスさん。僕にはこの阿里山烏龍茶をお願いできる?」
「か、かしこまりました!」
「じゃあ、私はプーアール茶で。ヨロシクー!」
 私は急須の役目を果たす茶壷、茶海と呼ばれるピッチャーなどお茶道具を運び、テーブルの上にセットする。にこにこと温かい笑顔で結城さんが見守ってくれているのを感じたが、私は今日で一番の緊張感を味わっていた。
 好きな人である上に、お茶の入れ方を教えてもらった先生でもある。そんな結城さんの前では緊張するなというほうが無理だ。
 ふるふるとかすかに震える手で私はお茶の入った茶壷にお湯を注ぐ。そして熱くなるまでお湯がかけられた茶壷を確認すると私は砂時計をひっくり返した。頭の中で手順を繰り返し思い浮かべながら、つめていた息を吐くと、結城さんは笑った。

「手際は凄くよくなってるよ。だけど、だいぶ緊張してる。教えた事に捕われずに、力を抜いてやってごらん。大切なのは、相手に美味しく飲んで欲しいと思う気持ちだから、ね?」

 少しだけ吃驚して、次の瞬間に湧き上がるのはくすぐったい笑い。
「……性格はぜんっぜん似て無いけど、やっぱり親子なんですね」
「ん? 何?」
「いえ、なんでもないです」
 緊張は知らぬ間にふっとんでいた。苦笑しながら首を振り、私は茶壷を傾け中身を茶海の中へと流し込む。そして聞香杯という香りをかぐための器にお茶をさっと注ぎいれると、すぐに飲杯にうつす。神妙な面持ちで私は結城さんに聞香杯と飲杯をすすめた。
「どうぞ」
「どうもありがとう」
 聞香杯で香りを嗅いでから、結城さんは飲杯を傾け、お茶を一口飲んだ。じっと息をつめて見ている私を見つめ返すと、首を微かに傾けにっこりと笑う。
「大変けっこうなお手前で――美味しいよ。すっごく」
「……よかった」
 私はほっと胸を撫で下ろす。お茶の写真を撮っていた紀子もプーアール茶を一口飲んでから、わざとらしく話題を変えた。
「桂木さん、ところでこの後、どこか回られる予定なんかは?」
「あ、うん。息子と浩輝君のクラスは予定に入ってるんだけど、他は適当にぶらぶらしようかなって」
「ほうほう。そうですか。それは結構」
 きらんと眼鏡の奥で紀子の抜け目無い瞳が輝きを放つ。それに気づく様子も見せず、結城さんは臙脂色のテーブルクロスがかかった机に頬杖をつきながら、私に瞳を向けた。
「君は? 拓巳と浩輝君のクラスにもう行ったの?」
「ええっと。まだです。朝から大忙しで――」
 私が結城さんと話していれば、ずずいと紀子が割り込んできた。
「そうなんですよっ! この子、これからやっと休憩なんですけどね……残念な事に私も忙しくて、一緒に回れないんですよねぇ。ほら、一人で校内を回るのって寂しいじゃないですか。いやぁ、困ったなあ」
「ちょっと紀子、何言って……イタッ!」
 明らかに芝居がかっている紀子に、私はあわてて横槍を入れる。しかし、机の下で足をぎゅむっと踏まれて飛び上がりながら口をつぐんだ。その様子を目を丸くしながら見ていた結城さんは、紀子の期待を含んだ目に見つめられ、ふむと考え込む。そして顔を上げた結城さんの瞳は何かを面白がっているようにも見えた。
「あのさ。もしも迷惑じゃなかったら、僕と一緒に回るのとか、どうかな?」
 結城さんは足を押さえながら涙目になっている私をその柔らかい瞳で捕らえながら、そう言った。
 私の心臓はぎゅっと縮む――はたして結城さんと一緒でもつのだろうか、私の心臓。
 そんな不安を感じながらも、私は当然のように即答した。

「――も、もちろん、迷惑なわけ、無いじゃないですかっ!」


 その後、新聞部立ち入り区域で、私はとんでもないものを目にするわけだが。
 ――とりあえず、一人、ほくそ笑むのは外道パパラッチのみである。



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