三十八話 / 迷宮入りの赤い林檎殺人事件


 かちんこちんと、強張りながら私は結城さんの隣を歩いていた。
 仕事が終わってそのまま出てきたから、身に纏っているのはつるつるの素材の中華服で、首には新聞部所有のカメラがかかっている。
 結城さんは興味深々で校内を見回しながら歩いていたが、私の歩みが遅れていることに気づけば、さりげなく歩調を緩めてくれた。
「大丈夫? 疲れた?」
「いえっ! ぜんぜんそんなことないです!」
「そう? ――あ、りんご飴」
 縁日とプラカードに書かれたクラスでは、簡易なつくりの屋台が毒々しい色をしたりんご飴を売っていた。まるで白雪姫の毒りんごみたいだなと、私は心の中で思っていたが、結城さんは早速りんご飴を購入していた。そしてあろう事か嬉しそうな顔で私に差し出しているではないか。もちろん理由もないのに買ってもらうなんて恐れ多い。私は首を横に振った。
「あの、私、自分で払いますから」
「えー? 可愛い格好をした女の子にご馳走するのは男のロマンなんだけどなぁ」
 キラキラビームに大ダメージ。
 片目をつぶった結城さんに蚊の鳴くような声でお礼を言いながら、私は結局りんご飴を受け取る羽目になった。
 心臓がドコドコと激しいサンバを踊っている。下手をすると心臓麻痺で殺されてしまうかもしれない。体は子供で頭脳は大人な眼鏡っこにも解けない見事な完全犯罪だ――いや、それも本望だけれども!
 私がいささかドリーミンな世界へと旅立っていたとき、結城さんがクスリと笑った。
「懐かしいなぁ。この前、みんなで縁日行ったの覚えてる?」
「あ、えと、はい」
「あの時、僕が柄になく弱音はいちゃって、君に励まされたなぁって」
「え、ええと、そうでした?」
 振り返ってみると、あの時の言動がもの凄く恥ずかしかった。じわりと体中に汗をかきながら、私はしどろもどろに返答する。
「うん、そうでした」
 悪戯っぽく結城さんは頷くと、私の前に人差し指をぴっと突きつけた。その仕草、齢三十五には到底見えない。
「だからあのときのお礼もかねて、今日はおじさんが奢ってあげるから好きなもの食べてね?」


 ワタアメとヨーヨー片手に教室から出た時、ばったりと出くわした人物に私は目を丸くした。
 それは粋に和服を着こなす私の友達の、
「辰さん!?」
 素っ頓狂な声で名前を呼べば、辰さんは軽く手を上げて唇を歪めた。その一見、捻くれた様な笑い方は、私を驚かせて喜んでいるときの辰さんの表情だ。
「おう、嬢ちゃん。随分と小粋な恰好してるじゃねぇか。喫茶店の首尾はどうだい? 繁盛してるのかい?」
「あ、はい――っていうかなんでここにいるんですか? お一人でこられたんですか?」
 私が尋ねると、辰さんはおどけたような仕草で目じりを拭うふりをした。
「おうおう。冷てぇじゃねぇか。こちとら嬢ちゃんの晴れ姿を拝みに来たってぇのに。それが義理堅い老人にかける言葉かい?」
「あっ、違うんです! ちょっと吃驚しただけで――あの、ええっと、ありがとうございます!」
 焦って弁解すると、辰さんははじけたようにかかかと笑い出し、私はようやくからかわれた事に気づき憮然とする。辰さんはひとしきり笑い終えると、膨れている私の頭をぽんぽんと叩いた。
「あぁ、悪かったな。嬢ちゃんが余りに可愛かったから、ちょっくらからかってみただけだ。そう餅みたいに膨れなさんな。せっかくの可愛い顔が台無しだぜ?」
「――辰さんって、そういう事をさらりと言うところが侮れないですよね」
 私の恨めしそうな表情もなんのそので辰さんは快活に笑う。結局のところ私が叶う相手ではないのである。
「厳密に言えば一人じゃねぇんだがな。嬢ちゃんとこ以外にも用事があったから来たんだが、そちらさんは……」
 辰さんの視線は私の隣に立っていた結城さんに注がれているようだった。
「あ、結城さん、こちらあのときの猫を引き取ってくださった――」
 お互いを紹介をしようとした私は結城さんのほうを向き直った。
 結城さんは唖然として辰さんに見入っていたが、私の視線を感じてか、ふっとその強張りは溶け、そして懐かしさと何か他の感情が交じり合った複雑そうな表情で笑った。
「……お久しぶりです。瀧川さん」
  驚きのあまり私の視線は二人の間をいったりきたりしたが、二人は当たり前のように穏やかに言葉を交わしている。
「あぁ、先生こそ変わりねぇようで安心した――っと。もう先生じゃあねぇのか」
「ええ、今は喫茶店のマスターなんてものをやってます。ご存知かもしれませんけど」
 沈黙が落ち、少しばつが悪そうな表情で辰さんは頭をかいた。話の内容がつかめずにぽかんとしている私に視線を移すと、辰さんはふっと息を吐く。
「俺が言えた義理じゃねぇが、達者で暮らしてるならよかった。じゃあ、そろそろ年寄りはお暇するさ。これ以上、若ぇお二人さんをお邪魔すると、また嬢ちゃんが餅みてぇに膨れそうだからな」
「別に膨れませんよ! 失礼な!」
 口答えする私を軽くあしらいながら、辰さんは結城さんへと目を向ける。
「――先生とこのボンにもよろしくたのむ」
 どこか改まった辰さんの言葉に、結城さんは頷き、去り行く辰さんの背中を無言で見送った。私はなんとなく沈黙を破る事が出来なくて、じっと結城さんの隣に立っていた。
「昔の知り合いなんだ」
 結城さんは私の問いかけるような視線に気づいたのか、辰さんをそう一言で表現する。やっと息の詰まるような沈黙がなくなったことに安堵して、私は遠慮がちに問いかけた。
「あの、結城さん。先生ってなんですか?」
 結城さんは少しの間だけ黙り込んでいたが、ふぅっとため息を吐くと、答えてくれた。
「前の職業だとそう呼ばれる事が多かっただけだよ。ただそれだけのことだから」
 それ以上は聞くなと暗に言われているような気がして、私は口をつぐんだ。彼のまとう雰囲気がピリピリしていた。
「こんな所で突っ立っているのもなんだし、僕らもいこうか?」
 結城さんは私を安心させるようにいつもの笑みを浮かべようとしていたけれど、私には無理をしているのが解ってしまった。無理をさせているのは私のせいなのだろうかと、胸の辺りがちくりと痛む。
「無理に、笑わないでください」
 ついこぼれた言葉に、結城さんは少しだけ目を見張った。
「結城さんも弱音とか吐いてもいいんですから。私はまだ未熟ですけど、少しでも結城さんの気持ちを軽く出来たらなって思います。結城さんにそうやって笑われると苦しくなるんです」
 結城さんは、ふにゃりと困ったように笑った。それが一瞬だけ泣き出しそうに見えたのは私の目の錯覚だったのだろう。柔らかい髪の毛をくしゃりとかき回しながら、結城さんは天井をしばらくの間見つめていた。そして結城さんの口からは心の破片がぽろりと零れだす。
「困った」
「え?」
 私が聞き返すと、首を軽く振りながら、ようやく結城さんは視線を落とし、私の瞳にあわせる。
「――ううん。君の前じゃつい弱音吐きたくなっちゃって。困るなぁって思っただけ。もうちょっと僕も恰好付けたいんだけどなぁ」
「弱音、吐いてください! ど、どんとこいです!」
 胸を張りながらそう宣言すれば、結城さんはふわりと笑って私の頭を撫でた。
「……この場に誰もいなかったら、ハグして慰めてもらってるんだろうけどなぁ。残念」
「は、ははははハグ?」
「冗談だよ。そんなに動揺しなくても――でも、これぐらいは許してね」
 最後のほうは独り言のようだったが、りんご飴よりも赤くなっている私の鼻頭をちょんとつつきながら、結城さんはからかう様な笑みを浮かべた。そして私の手をとり、ぎゅっと握る。
 しかも、五本の指を絡めて握る、俗に言う恋人つなぎ。
 ……おとうさま、おかあさま、先立つ不幸をお許しください。
 必死に呼吸を整えている私に目を丸くしてから、結城さんは頬を緩ませた。
「じゃあ、そろそろいこうか?」
「ええ! はいっ!」
 緊張のあまり無駄に元気のいい返事をして、私はずんずんと早足で進みだした。結城さんが小走りになる状態で私は廊下を進む。結城さんは私の後姿を微笑ましそうに眺めながら引っ張られていたが、ふと一瞬だけ真顔になり呟いた。
「――瀧川さんを全面的に信用しないほうがいい」
 結城さんの言葉は猪突猛進状態の私には届いておらず、その意味を知るのはもう少し後になるのだけれど。



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