三十九話 / 突入、魔の巣窟!


 三年生の教室がある階は沢山の人でごった返していた。特に混雑しているのは三年B組のあたりのようだ。その組から私が連想するのは、人という字の成り立ちを説明してくれる教師などではなく、それとは正反対の変温動物の陰険眼鏡である。
 峰藤とはあの時別れたきりで今日まで、私には謝るタイミングも勇気もなかった。いまさらどの面下げて峰藤に会えばいいのかを想像すると胃がきりきりと痛む。そして、D組ではラスボス――桂木にも会わなければならないだろう。
 みぞおちのあたりに鈍い痛みが広がる。それは緊張と呼ばれる類のものだ。……でも、ずっと逃げているわけにもいかないし。
 ふと、繋がれていた手に力がこめられた。弾かれたように顔を上げると、結城さんが私のほうを見ている。それは何もかも見透かすような目だ。
「大丈夫? いける?」
 何に対してかは彼は言わない。けれど湧き上がるようなパワーがしっかりと繋いだ手から流れ込んでくるような気がした。私は力強く頷き、B組の入り口へ足を踏みだす。
 女は度胸! 当たって砕けろだ!
「あ、前」
 がつん。
 結城さんの注意も虚しく、私はもろに顔面から壁のようなものにぶつかった。
 痛む鼻をなでながら顔を上げれば、目の前にはそびえたつ壁。否、それは人間だった。絶壁を思わせるような身長の男子生徒が私を見下ろしていたのだ。その威圧感に私は一歩後ずさり、背中が結城さんにぶつかる。よく周りを観察してみれば、3年B組の前には長蛇の列が出来ており、体格のいい男子生徒が前方と後方の入り口に二人づつ。合計四人ががっちりとB組の出入り口を固めているではないか。しかも、身にまとうのは真っ黒のスーツであるから、もはや仰々しさまで感じさせるほどだ。
「これは一体、なんなんでしょうか、ねぇ」
 あんぐりと開いたままだった口を閉めながら、私は結城さんに問うた。
「これがさっき伊藤さんが言ってたことなんじゃないかな? ほら、新聞部立ち入り禁止の」
 きゃあきゃぁと、教室から出てきたらしい女子生徒を横目でみながら結城さんは呟いた。
「僕はなんとなくだけど、予想はついたかな」
 彼は笑みを浮かべた。それはまるで素晴らしい悪戯を思いついた少年の表情だ。
 カメラ隠しておいたほうがいいかもね。とウインクしながら結城さんは列の後ろに並んだ。私も手を引かれながら彼の隣に立つ。
 峰藤のクラスの出し物の列に並ぶのは、女子生徒だったり、男子生徒だったりとまちまちだ。それでも、人気が高いのは確かなようで、皆がそわそわと自分の番を待ちわびている。
「ほんっとうに凄い人気ですね。こんなに人が待ってるなんて。いったい何をやってるんだろ」
「うん、楽しみだね」
 にこにこと邪気のない笑みで結城さんは答えた。さっき予想はついたといっていたのに、教えてくれる気はないらしい。まぁ、入ってみればわかる――入れればだけど。
 とりあえずカメラをどこに隠そうかと四苦八苦しているとき、高い声がかけられた。
「あら、お父様じゃありません?」
 それ反応して、私の体はぎくりと強張る。振り返らずとも解った。美登里だ。お父様と呼ばれた結城さんは苦笑いをしながらも、言葉を返す。
「朝倉さん。それやめてくれると嬉しいって言ったのに」
「あら、私にとって結城さんは桂木君のお父様ですから。間違ってませんよ」
 美登里は白い着物を身につけていた。その衣装と顔色の悪いメイクは雪女か何かを表現しているのだろう。そうなるとD組の出し物は定番中の定番、お化け屋敷だろうか。
 くすくすと笑う美登里から、あの時感じた翳りは見つけられなかった。でも、それはたぶんきっと、うまく隠しているだけだ。私の遠慮がちな視線に美登里は気づく。彼女はすぐにいつもの高飛車な表情を浮かべたけれど、一瞬だけ過ぎった罪悪感の破片を私は見逃さなかった。
 しかし、抱いていた気まずさなんてものは次の瞬間には吹っ飛ぶこととなる。
「あらー、アンタ、なんでこんなところにいるのかしら? お父様と一緒に仲良くおデート? ――手まで繋いでるなんて、どこまで羨ましい目にあってるのよこの野郎」
「イダダダダダッ! 痛いっ! 先輩っ、マジでいたひっ!」
 美登里は凄い力で私の頬を抓りあげた。 ね じ 切 ら れ る ! そんな危惧を抱いたほどに。
 私が涙目になっていようが、叫び声をあげようが、結城さんフィルターでそれは「じゃれあい」に分類されたらしい。温かい目で放置プレイされた。
 美登里の気が済むまで苛められた私は、ようやく解放された頬を押さえる。私の恨めしそうな視線なんてなんのそので、美登里は晴れやかな表情で胸を張る。
「あーすっきりした。悪く思わないことね。知ってた? アンタの頬に”つねって”って書いてあるのよ。私は親切でつねってあげてるんだから」
「なんですか! その『私、善意でやってあげてます』的な言いかた!」
「だって、そうだもの」
 しれっとのたまった美登里。
 日本語が通じない事を、我悟る。
「……もういいです」
 肩を落として嘆息した私に、美登里は満足そうに笑った。
「アンタはいつもそんな馬鹿っぽい顔してればいいのよ。アンタの暗い顔なんて辛気臭くってたまらないわ」
「ばかっぽい。くらいかお。しんきくさい」
 私は九官鳥のように美登里の言葉を繰り返す。がつんがつんがつんと連続で食らわされたトリプルパンチにノックアウト寸前だ。
「アンタってば馬鹿だし、子供っぽいし、無自覚で暴言吐くし、挙句に人の彼氏にキスはされる? ふざけんな。大嫌いだ。いなくなれとも思ったわよ正直。叩いた事だって謝らない。あのとき言った気持ちは、全部本心」
 周りにいた生徒達の視線を集めていたが、私にそれを気にする余裕はなかった。美登里は言葉を切り、息を吸い込む。
「だけどアンタみたいなオバカをずっと目の敵にしてるのも馬鹿らしいし、それに。あの時、一番、痛いところつかれたってのもあったから」
「美登里、せんぱい」
 そんな顔するなって言ったじゃないと、美登里は嫌そうな顔をして私を小突いた。それが彼女お得意の抉るようなエルボーだったので、私は一瞬で天に召されかけた。
 そして、首をぐいと寄せた美登里は私の耳元で囁く。
「桂木君と話してみる――私も、もう逃げないことにするわ。アンタに発破かけられたみたいだから癪だけど」
「っせんぱい!」
 私はたまらなくなって顔を上げた。すると美登里はこれまで見た中で一番、綺麗な笑顔を浮かべていた。それは強くて凛としていて、私を見惚れさせるのには十分な魅力を持っているもので。不覚にも涙が出そうになった――原因にさっきのエルボーに抉られた痛みも含まれていることがないでもないが。
「あ、お父様、後でうちのクラスにも来て下さいね。サービスしますから」
「朝倉さんは拓巳と一緒のクラスだよね。だとしたら『お化け迷路』か。そうだね――色っぽい雪女のサービス期待してるよ」
「はい。凍死しないように気をつけてくださいね」
 結城さんと軽やかな冗談の応酬をして美登里は去っていった。ぼんやりとそれを見送っていれば、ぽんと頭の上に置かれたのは暖かくて大きい手だ。髪をなでられる心地よさと恥ずかしさに私は顔を伏せる。結城さんが優しい表情をしているのは解っていたので。
「よかったね。仲直りできて」
「はい。おかげさまで」
 僕は何もしていないよ、君が頑張ったからだよ、と結城さんは言う。だけど私は首を力いっぱい横に振った。そして握り締めた拳も突き上げんばかりの勢いで熱弁をふるう。
「でも、私はいっぱい結城さんにパワー貰いましたから! 結城さんあってこその私なんです! 結城さんは私にとって神様みたいなものなんですよ!」
 私の熱意に圧倒されたのか結城さんは目を丸くした。呆れられたのかと私は、握り締めていた拳を手持ち無沙汰に閉じたり開いたりする。結城さんは少しだけ困ったように笑った。
「お客様は神様です、みたいだねそれ――そんな神様みたいな人間じゃないけどねぇ、僕も」
 私はその時、結城さんの言葉の、本当の意味を理解する事が出来なかった。
 だからそのときの私は、本気の言葉を茶化してしまった結城さんに悲しくなっていただけで。酷く独りよがりだったと反省しなければならない。
 だけど、それも、後にならないと解らない話であって。

「いらっしゃいませ。何名様っスか?」
 ドアを守っていた巨人の低い声に私は声の主を見上げる。しかし、首がぐきっと音を立てたから、それもすぐに諦めた。頭一つ分とまではいかぬものの、私よりも大きい結城さんは、巨人に目を合わせてにっこりと笑いかけた。
「二名だけど。指名とかって出来るのかな」
 しめい?
 その単語に私は首を傾げたが、聞かれたほうは当たり前のように頷いた。
「あ、いいっスけど。誰ですか?」
「峰藤浩輝君、中にいるでしょう?」
 その名前を聞いた瞬間、ヒッ! と巨人達は喉の奥で小さな叫び声を上げ、顔はこれ以上ないほど引き攣った。まるで妖怪を目にしたかのような過剰反応。確かに峰藤は妖怪の親戚のような人物だが、これほどまでにクラスメイトに恐れられているとは知らなかった。私は同情する。名前を聞いただけで悲鳴を上げられている峰藤にすこしだけ、トラウマになるほどの恐怖を味あわされただろうクラスメイトにいっぱい。さりげなく酷い事を考えながらも、私は二人の様子を伺った。
 いままで堅い守りを見せていた双璧は、だらだらと油汗を流しながら、しどろもどろになっている。そして、挙動不審気味に結城さんに確認した。
「えーっと、もしかして。親御さん、だったりします?」
「うん。そんなかんじかな」
 鉄壁の笑顔でぺろりと結城さんは言った。
 うっそ、まじかよ。峰藤、親はこないって。
 ぼそぼそ話し合っている巨人達を尻目に、私がものいいたげに結城さんを見ていると、彼は私の耳に唇を寄せ囁いた。
 ――嘘は言ってないよ。だって親みたいなかんじでしょう。僕も。
 確かに嘘は言っていない。けれど巨人達が誤解するような言い方を故意に狙ったのは私にでも解ったぞ。それでも、峰藤に会わなければならなかったので私も口はつぐんでおく。
 ようやく話がまとまったらしい。
「……指名入ります」
 巨人が教室の中に声をかけた。まさに世界が終わったような顔をしながら。その表情に、私の鈍っていたシックスセンスがおもむろによみがえり、危険を訴えてきた。
 やばい。激しく嫌な予感がする。
 もしも私が黄色と黒の縞柄ちゃんちゃんこを来た妖怪少年だったとしたら、その髪の毛はハリセンボンのようになっていたに違いない。
 入り口と廊下は濃い紫色のカーテンに仕切られていた。結城さんの手に導かれながらカーテンを潜る。そして目の前に広がったのは少し薄暗くなっている空間。蛍光灯の周りに貼られているのは紫色のセロファンで、それが妙な雰囲気を演出していた。部屋は黒い仕切りで細かく区切られているようだ。見通しが悪くて、迷路のようにも見える。
 ここは、いったい、なんのだしものを?
 いまだに理解できないまま私は口を開こうとし、いつの間にやら目の前に無言のまま存在していた”物体”に凍りついた。
 その物体が纏う、黒を基調とした着物の裾から腰にかけては、銀色と薄紫でなだらかなカーブを持つ河が描かれていた。細い腰に巻きついているのは真っ白い帯。そして色の違う蛍光灯に照らされた妙に艶かしい白い首にはのどぼとけが! 私は必死に見ないふりをする。まるでホラー映画を指の間から覗きみるような心境だ。顔はほんのり化粧で白く塗られていたが、判別できないほどではなかった。
 視線あうものすべてを惨殺してやると言いたげな、凶悪な目つき。
 それを目にした時、私はすべてを悟る。
 ……私、生きてここから出られるのだろうか。
 女装している峰藤浩輝を前に、ひとつ辞世の句でも読むべきかと、けっこう本気でそう思った。



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