四十話 / 現行犯逮捕されるのですか?


 針の筵ってか、剣山の上をごろごろ転がってるみたいだぜ。イェーハァー!
 ……ごめんなさい。ちょっとだけ現実逃避してみただけです。
 私は首を九十度、もちろん下に折り曲げ、なるべく視界にあの”物体”が目に入らないよう、結城さんに手を引かれたままで歩いていた。
 ざっしゅざっしゅ。
 先ほどから音が聞こえるかと錯覚するほど皮膚に感じているのは、峰藤の体から発せられる殺気か? 殺気だろう。殺気に違いない。
 幾度となく峰藤の殺気には晒されてきたが、今日の今日は本気で死を覚悟した。たぶん、この場に結城さんがいなかったら、即効でジャンピング土下座――這い蹲って許しを請ってただろう。「勘弁してくだせぇ、お代官様!」って感じで。
 しかし、残虐非道な極悪代官峰藤は不吉な笑顔で打ち首獄門を言い渡すのであった。
 これにて、いっけんらくちゃーく! 
 ――じゃ、ない!
 現実逃避したいのは山々だったが、今のところ一番に考えなければならないことは、ここからいかに無事に脱出するかである――あ、違った。どうやって峰藤に謝るかだ。ふぅ、危ない危ない、私とした事が本懐を忘れ去るところだった。
「座らないの?」
「ぎゃっっっ! すいませんすいませんすいません!」
 急に声をかけられて、私は冷や汗をかきながら飛び上がって謝罪した。しかし、正気に戻ってみれば、目の前には目を丸くしてこちらを見つめる結城さん、と相変わらず殺意に満ち満ちた峰藤――目を合わせたら殺される! と私は即効で明後日の方向を向く。
「ほら、浩輝君が怒った顔してるから。彼女、困ってるじゃない」
 流石は結城さんとでも言うべきか。柔らかに喉を震わせ、苦笑しながらも果敢に峰藤を諌めている。しかし訂正させてもらえば、あれは怒った顔って言うレベルではなく、一人ぐらいは殺める心積もりだろうと断言する。たぶん最有力犠牲者候補は、この私であることは間違いない。
 余りにも怯えている私に呆れたのか、それとも結城さんの説得が実を結んだのか、峰藤は疲れたようなため息を吐き出した。そのため息には鬱屈とした感情総てが凝縮されていたようだった。それでも峰藤は不機嫌さを隠そうともせず、掠れた低い声を出す。
「何故来たんですか」
「あれ、浩輝君に会いに来ちゃいけない?」
「来ないで欲しいと」
「そう言われて、僕が来ないとでも思った?」
 ふふふ、と含み笑いをする結城さんに、峰藤は肩の力を抜き「思いません」と呟いた。
「しかし、明日、来るって仰ってましたから」
 諦めが付かなかったのか、峰藤が恨みがましい口調で言う。
「ん、だからね。そういってたほうが浩輝君、油断するでしょう?」
「……結城さん」
 そっと瞼を伏せた峰藤の表情からは怒りが失われる。この人には怒るだけ無駄だし、どこまでも敵わないと彼は思ったのだろう。とりあえず生命の危険は去ったようだと、私はどっと脱力して膝から崩れ落ちそうになった。それを耐えるために私は状態をぐっと逸らせば、まるでロボットダンスを踊っているようにかくかくとした動きになる。
 不審にも一人で踊っている私に当然、峰藤は気づき、そっと眉間には皺が刻まれた。そして、その鋭い視線はすいっと繋がれた手に注がれる。何故か急に疚しい気持ちになって、私はつないでいた手をさりげなく振りほどくために両腕で万歳をした。しかし、思ってた以上に硬く繋がれていた手は離れず、結城さんも片手万歳状態。
 ――沈黙がひっじょうに痛いのですが。
「貴方は突然、何をやっているんですか」
 という峰藤の鋭い冷え冷えとした突っ込み。
「何を、やって――いるんでしょうねぇ。私がききたいですよ」
 墓穴を掘りまくりながら、私は心で泣きに泣いた。結城さんは片腕を上げながら、少し吃驚していたみたいだったが、一瞬後には思わせぶりに笑う。
 フォローしてくれたのか「座る?」と首をかしげながら、紫色のソファーが置いてある空間に視線をやった。そしてさりげなく手を解く瞬間に、結城さんの長い指がするりと私の指の間を撫でていく。思わず、ばっと手を離してしまったのだが、結城さんは不思議そうな顔をしていた。私は自意識過剰な反応を返してしまったことに憤死しそうなほど恥ずかしくなる。真っ赤になりながらも、私は一人でずんずんと進み、ソファーに腰を下ろした。
 あっついですねぇ! ここ! という声も裏返り非常にわざとらしい。
「そう? 僕には丁度いいかなぁ」
 くすくす笑いながら、結城さんは私の左隣に腰を下ろした。そして自分の隣をぽんぽんと叩き、峰藤に笑いかける。
「浩輝君はこっち座って? 可愛い子と美人で、両手に花とはこのことだねぇ」
 どんなことがあっても開き直れそうに無い峰藤は、はっきりと嫌悪の表情を浮かべ、それに逆らうように私の右側に座った。困ったのは私である。怒っている峰藤が隣に居るということがどれだけ神経を使うか。席を変わろうと立ち上がりかけた私の肩を峰藤は鷲掴みにした。恐怖に引き攣った顔で峰藤を見やれば、アイラインがくっきりと引かれたド迫力の顔が間近に迫る。
「席かわるつもりなら、容赦しませんよ」
 殺す、と目が物語っていた。私はぶんぶんと頭を振る。面白くなさそうに、結城さんは口を尖らせてからかうように言った。
「あれ、もしかして浩輝君が彼女の隣に座りたいだけとか?」
 これ以上煽るの、やめてくださぁぁぁぁい!!!
 私は初めて結城さんを恨めしく思った。しかし、峰藤は感情をコントロールする術を取り戻したのか、冷えた表情の下に怒りを押し込めた。
「挑発されても乗りませんよ。それ以上からかうつもりなら、本気で帰って頂きます」
「はいはい。ごめんね。――まぁ、少しは気が済んだからいいんだけど」
 にこにこと顔の筋肉だけで笑って、目が笑ってない結城さんは冷えた声で言った。
 その豹変振りに私が固まっていると、結城さんはふっと緊張を解き、いつもの柔らかい雰囲気を纏う。しかし、目は峰藤を見据えたままだ。
「怖がらせてごめんね。でも、ちょっと腹立っちゃって。何をしたかははっきりは知らないし、うちの馬鹿息子が諸悪の根源ってのは薄々わかったから、また後でお灸をすえておくにしても。浩輝君、君は彼女を余計に追い詰めたんじゃない? 僕はそれに怒ってるの」
 峰藤は反論しようと口を開いたが、すぐに言葉に詰まり黙りこんだ。私は誤解だと焦って口を挟む。
「結城さん、それは私が悪い」
「まぁ、僕が口出すことじゃないとは重々承知してるけど。浩輝君、君がそんなんじゃ……」
 そこで結城さんは言葉は途切れ、彼は視線を移動させる。するとそこにはウエイターの恰好をした女生徒が恐る恐る顔を出した。不振な素振りは、話を盗み聞きしていたわけではなく、純粋に峰藤が怖いからだろう。三人の間に漂う微妙な雰囲気に気づくことなく、彼女は緊張の面持ちで注文をとりだす。私が強張った表情で梅ジュースを注文しているのに反して、結城さんは柔和な笑顔を崩すことなく首を横に振った。
「あぁ、僕はいいよ。そろそろお暇しようと思ってたところだから」
「え」
「実はそんなに長居出来るほどの時間も無いんだ」
 いそいそと足早に去っていくウエイターを見送ると、結城さんは立ち上がった。私は途端に不安になる。私の視線を受けて、結城さんは頬を緩ませた。
「拓巳に会ってから帰ることにするよ。最後まで付き添えないのが残念だけど」
 結城さんはそれが当たり前のように私の頭をさらりと撫でた。
「これ以上、口出しすると馬に蹴られそうだし」
「――結城さん」と峰藤が咎めた。
「はいはい。年寄りは退場するから怒らないの。折角の美人が台無しだよ?」
 そして私は、衝撃の瞬間をはっきりと目に焼き付けてしまった。

 結城さんが峰藤の頬にちゅうするのを。

 そのとき、私の口からはエクトプラズムが大放出。急に魂が銀河系に出張しに行ってしまったのでは、と思ったほど気が遠くなった。本気で脳内から今の映像をデリートしてしまいたい。もはや視界の暴力である。何が悲しくて大好きな人と峰藤のキスシーン見なければならないのだろう……ひゅーるるーるるるるー。たそがれたい。旅に出てしまいたい。銀河を走る鉄道で機械の体を手に入れたい――本日ここに来て何度目かになる現実逃避である。
 不意打ちだった峰藤も絶句して固まっていたが、
「嫌がらせも、それだけいい反応してくれるなら、やりがいがあるねぇ」
 そんな結城さんの笑いを含む捨て台詞を耳にした瞬間、ゆらりと感情を削ぎ落とした顔で立ち上がった。
 あ、これは殺るな。
 とナチュラルにそう確信してしまった私は、コンマ何秒かで現実逃避から奇跡的に生還を果たし、がしりと峰藤の腰に組み付いた。私が結城さんを守らねば! という決死の行動である。ずるずると抱っこちゃん人形のような私を引きずって進む己のシュールさに気づいた峰藤は漸く正気に戻ったようだった。
 しがみついている私に視線を落とすと、峰藤は動揺したのかバランスを崩す。峰藤は細いが一応は男だし、普段ならば女一人の体重ぐらいは支えられる筈だった。
 しかし、この時は和服――着物である。
 お代官様、あーれー、と押し倒されるに由緒正しい服装なのである。
 説明が長くなってしまったが、つまりは踏ん張りがきかない服を身に着けた峰藤は盛大にすっ転んだのだ。私を腰にくっつけたままで前のめりに。
 どすん、びたん、と凄い音がして、私はその衝撃に顔を顰めたが、クッションになるもののお陰でそこまで痛みは無かった。

「あいっった」
 なんだか最近になって鼻をぶつける機会がいやに多いから、桂木が言ったように本当に鼻低くなっちゃってたらどうしようと心配しながらも、もう片方の腕で体を起こした。
 ぐにゃり、という床にしては柔らかくて暖かい感触に、あれ、うちの学校床暖房じゃなかったよなぁと首を捻った。ぼんやりとした視界の中、手を動かすとすべらかな絹の手触りがする。
 絹?
 不思議に思って視線を下に落として――ほんぎゃらほいほいほい。
 落ち着こうよ、自分。落ち着いていこうよ。考えるのを諦めた時点で試合終了ですよって。人は考える葦なんですよって。
 深呼吸を三度は繰り返す。あと、もう一回、おまけで吸って吐いておく。
 私は絹の着物を身に着けたうつ伏せの峰藤浩輝の上に座っていたのである。峰藤の体は弛緩しぐったりしていた。
 ししし、死体!!!
 じゃなくて、下敷き! 峰藤を下敷き!!
 パニックになりすぎて、恐慌状態に陥っていた私だが、峰藤が意識を取り戻し、呻き声をあげたことではっと冷静になる。打ち所が悪いと大変だ。
「副会長! 大丈夫ですか?」
 峰藤は頭に手をやって唸っていたが、私の存在に気づくと急に体を強張らせて黙りこんだ。
 まさか、打ち所が! と心配して身を乗り出すと、峰藤は地を這うような低い声で唸った。
「とりあえず――どけ」
 命令形は究極に や ば い 。
 私は弾かれたように体をどけようとしたが、パリーンという何かが割れる音に、はっと後ろを振り返る。そこには女生徒のウエイターが驚愕の表情で立ち竦んでいた。足元に落ちたのは、私のさっき頼んだ梅ジュースだろう。あぁ、勿体無いなぁと、頭の隅っこで考えてから、私は自分の状態を冷静に自覚した。
 峰藤を押し倒して、馬乗りの私。
 誤解するのは非常に容易い犯行現場である。
 とりあえず私の話を聞いてくれるかな、おぜうさん?
 愛想笑いを浮かべられただけでも、この時の私を褒めてください結城さん……!



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