四十一話 / 来る、末法の世!
私と峰藤とウエイトレス。
魔のバミューダトライアングルが成されたまま空気が凍りつくこと約五分。三竦み状態の中、真っ先に解凍されたのはウエイトレスだった。
「ししし、しつれいしましたぁ?」
ぱさぱさに乾いた声。可哀想なぐらい引き攣った顔。
だがしかし、発した言葉は到底、美味しく頂けそうにもなかった。
なんてこったい。
まさか峰藤の色気にトチ狂った私が狼のように襲い掛かったとでも思ったのだろうか?
――そんなホラーなこと起こってたまるものかっ!
「ちょちょ、ちょっとすいません! それは誤解にしても酷すぎ……ぎゃっっ!」
私は、乙女の尊厳を守るため即座に否定しようと立ち上がりかけた――ところで転倒。
下敷きにしていた極妻が予告無しに立ち上がり、私を跳ね除けたのである。ごつり、と鈍い音とともに後頭部をしたたかに打ちつけ、私の視界には火花が散る。
痛みの余り頭を抱えながら地面を転がっていると、地を這うどころか地獄まで響くであろう低音が、その場にいきとしいけるものの鼓膜を振るわせた。
「何か――見ましたか」
ずるり。ずるぅりと擬音がつくぐらいの陰気な足取りで死神の草履が彼女のほうへと近づく。艶やかな帯を背負っている峰藤の背中から、どす黒いなにかがぞろりと立ち昇る幻覚を私は見た。峰藤は感情を削ぎ落とした声で冷ややかに言う。
「今、見たこと即刻、記憶から抹消しなさい。万が一にでも誰かに漏らしでもした時は――」
そこで峰藤の言葉を切った。落ちる沈黙に緊張は極限にまで張り詰め、私は這い蹲りながらごくりと喉を鳴らす。
時は、何。
なんてその続きは聞かなくても、土気色のウエイトレスの表情を見れば十分に予想は付く。彼女にはお気の毒だが私は峰藤が背を向けていたことを神に感謝した。正面から見たら三日三晩は確実にうなされる自信はある。
峰藤の正体はSADAKOだったんです。
とか言われても、私、まったく驚きませんとも。ええ。
とうとつですが、ここでもんだいです。
わたしと、こうきくんと、ウエイトレスのAちゃんがいました。
ウエイトレスのAちゃんはこうきくんにおもいきりメンチをきられ、いのちのきけんをかんじたので、すたこらさっさっさーのさーと、にげだしてしまいました。
さて、のこったのは何人でしょう?
昨今では幼稚園児さえも即答できるぐらい簡単な答え。
半廃人と化したウエイトレス退場後には、当然のように峰藤と私だけが。つまり二人っきりという恐怖の亜空間ができあがってしまったわけだ。沈黙は尖ったナイフのように研ぎ澄まされ、私の神経はごりごりとすり鉢で擦り潰されている。
思えばこの教室に入ってからというもの絶体絶命のピンチは好転するどころか酷くなるばかりで、当初の目的である謝罪どころの騒ぎではない。この沈黙を払拭する活路がまったく見つからないのだ。しかし、このままでも一向に埒が明かないと、恐怖で縮こまっていた舌を舐め、私は意を決して立ち上がる。そしてピクリとも動かないSADAKO――改め峰藤に恐々と声を掛けた。
「……あのぉ、副会長、大丈夫ですか?」
無言。
「あ、頭とかうたれてないと――いいなぁ、なんて」
無視。
「思いっきり下敷きにしちゃいましたし。お怪我とかありませんでしたか」
返事が無い。ただの屍のようだ。
そりゃあ、しかばねーな。
……心が挫けそうです。
普段は打てば響くような嫌味が返ってくるから、ここまで華麗にスルーをかまされているのは初めてである。よっぽど怒っている証だろう。
そりゃあ誰でも、嫌々女装させられた挙句、からかい混じりに同性からほっぺチューをぶちかまされ、その上、私に下敷きにされて、その屈辱的な現場を誰かに目撃されたとなれば、怒って当然なのかもしれない。羅列してみれば余計に峰藤の怒りがじわじわと頭に染み込んでくる様な気がして眩暈がした。プライドの高い峰藤のことだ。私が百回、ジャンピング土下座するぐらいの男気を見せても到底、許してもらえる気がしない。
私が絶望に打ちひしがれていると、淀んでいた空気がゆっくりと動いた。
峰藤は黙ったままで歩を進めると、ウエイトレスが割ったグラスの近くで座り込んだ。広範囲に広がってしまった輝く破片に手を伸ばし、どうやら残骸を片付けようとしているようだった。彼らしくなく動作が緩慢なのは、眼鏡をしていないからだろう。これ以上、怪我でもされたら大変だと、私は急いで駆け寄った。そして、大きな破片を拾おうとしていた峰藤の手を遮って破片に右手を伸ばす。
「あのっ、副会長! 私やりますんでっ! ――いっ」
ざっくりと、お約束のように私は指の付け根にガラスを突き刺してしまった。
痛い。と思うより早く私の手首は、骨張った別の手に掴まえられる。驚き、弾かれるように顔を上げれば、怒ったような黒い双眸に射竦められた。女物の着物を身に纏い、化粧を施されてはいるが、余分な肉を削げ落とした輪郭から喉仏へと流れる精悍なラインは間違いなく私とは違う性を持った人間の証だ。微かに歪んだ表情に戸惑いながら、私は無言の峰藤を見つめ返した。しかし直ぐに居心地が悪くなり、右手首を捕まれたまま、私は峰藤の名前を読んでみたが、彼は何かをこらえているかのように唇を噛み締めたままで一向に喋ろうとはしない。捕まえられた手首を伝わり、傷口からとめどなく流れる血は峰藤の手をも濡らし床に滴り落ちる。その赤が峰藤の腕を走り、黒い着物に吸い取られているのを目にした瞬間、私ははっと我に返った。
「副会長! 着物っ! 着物の裾に血がついてますっっ! 高そうな着物が汚れるっ!」
私は着ていたチャイナドレスの裾で、峰藤の手についていた血を拭ったが、その拍子に服の中に隠していたカメラがぽろっと飛び出した。下に広がるのは割れたグラスと液体だ。私は必死に落下するカメラを捕まえようと左手を伸ばす。しかし、手が届くかという瞬間、腕は強い力で引っ張られ、カメラはがしゃんと音を立てて落ちてしまった。
「あぁっ! カメラ!」
なんで邪魔したんですか、と立ち上がり峰藤を見ると、深い溝を刻んでいた彼の眉間がぴくりと危険な動きを見せた――うわぁすんごい怒ってる。峰藤は激しすぎる感情を抑えようとしているのか、下手をすれば優しさまで感じられる声色で、ゆっくりと言葉を舌の上にのせた。彼は視線をガラスの上にねっころがるカメラに移す。
「――私が捕まえなければ、今頃、貴方は全身が血だらけになっていたでしょうね」
冷静になって考えてみれば、カメラをキャッチするために勢いあまってガラスの上にダイブする自分の姿が容易すぎるほどに想像できた。峰藤はそれを防いでくれたのだろう。決まりが悪くなって私は視線を逸らしながら頭を下げた。
「あの、どうも……すみませんでした。お気遣いいただいて」
「"お気遣い"?」
声のトーンがぐぐっと下がる。青信号点滅。
「あ、えっと。ありがとうございました。これからは、迷惑かけないように気をつけます」
「……"迷惑をかけないように気をつけます"?」
黄色信号点灯。私は油汗を流しながら堪忍袋の緒の耐久度をはかる。
「……その着物も高そうですけど、出来るなら弁償したいと思ってますし」
「あぁ、そうですか――"弁償"してくださるんですか」
それを聞いた瞬間、峰藤はふっと頬を緩め、柔らかに微笑んだ。
普通の人間の場合、ここにきて相手の怒りが解けたと喜ぶところなのだろう。ところがどっこい。奴は峰藤浩輝である。
菩薩のごとく穏やかに微笑む峰藤浩輝。
どうしよう末法の世の中来ちゃいましたよコレ。
私は頭の隅っこで、何かが切れた音を、確かに聞いたような気がした。
恐らく即死属性が完備な声色で峰藤はとつとつとまくしたてた。
「貴方って人は本当に――馬鹿だ、馬鹿だとは思ってましたけど、流石にこれ程とは思ってませんでした。救いようがありません。これならプランクトンのほうが数倍どころか数千倍ましです。言う事に欠いて着物の弁償? 一体、何処の誰が着物の心配をしましたか? カメラ? そんなもの壊れたからどうだっていうんです」
プランクトンの遙か格下と言い切られた人間失格は怖さも忘れて憤慨した。
「だって、カメラは新聞部の所有物で……あーっ! カメラを足蹴にぃっ!?」
「何か文句でも? どうせあの新聞部長の碌でもない依頼でも受けてきたんでしょう? そんなもの私が許すとでも思っていたのですか? そうとしたら尚更、浅はかで愚かしいですね」
みしみしいうカメラを草履でナチュラルに踏んづけながら、峰藤は形のいい眉を挑戦的に吊り上げた。
「まだ撮ってなかったんですよっっ!」
「未遂だったということにに、何か意味でもあるんですか? 写真を撮ろうとここまでのこのこやってきたことに違いはありません」
「……まさか女装している副会長がいるとは思うわけ無いじゃないですか」
膨れっ面で言い返せば、ギン! と刺し殺すような視線が飛んでくる。
「いいですか。貴方のやること成すこと総てが裏目に出ているのです。これまで貴方は散々、私に迷惑をかけていたことにはまったく気づかなかったとでも言うつもりですか」
「……す、総てってことはないと思います!」
ざくりと心に鋭い言葉のナイフが突き刺さる。かろうじて致命傷には至らなかったがもはや瀕死。思い当たる節はあり過ぎるほどにある。が、ここでひくわけにはいかないのだ。私は同じように中華靴を穿いた足を踏みしめ勇猛果敢に峰藤と対峙した。臨戦態勢の私を見やり峰藤は嘲笑う。
「ほう。まだ認めませんか。馬鹿の上に鳥頭とは」
「プランクトン以下でも鳥頭でも、ありませんっ!」
これでも一応は霊長類なのだと、私は必死でアピールしたが、峰藤はせせら笑いながら眉をきりりと吊り上げた。
「それでは少し記憶力が宜しくない貴方のために、私が教えて差し上げましょう――」
厭味ったらしく峰藤は言葉を切る。
「あの祭の日に一人で惨めったらしく泣いてらしたのは誰でした? 夏休みの宿題をやるのを忘れていたのは? 体育祭で倉庫に閉じ込められたのもどこかのどちら様でしたね。あ、そうでした。先程、派手に踏みつけられたことも確りと数に入れなければなりません」
指を折りながらあげていくのは、確かに私がなんらかの形で峰藤に迷惑をかけていた出来事だったが、泣いたことまで引き合いに出すなんて酷い!
ぐうの音も出ないほどこてんぱんに叩きのめされ唸りながら睨みつけている私を峰藤は見下す。その優越感交じりの視線にどうしようもなく腹が立った。私だって好きでみっともないところを見せているわけでも、故意に峰藤に迷惑をかけているわけではないのだ。それなのにそれを引き合いに出すなんてあまりにも卑怯だ。私は悔しさの余り唇を噛み、押し殺した声を出す。
「だから――これからは気をつけて、迷惑をかけないようにって思ってるんです」
「――はっ。無理です。貴方に出来るわけが無い」
峰藤は苛立ちを滲ませながら切り捨てた。私はそんな峰藤の微妙な変化に気づくほどの余裕はなく、かっと頭に血が上らせる。
「決めっ、付けないでくださいよっ。これからは絶対に副会長だけには迷惑かけないようにしますっ! それで副会長は満足なんでしょう?」
私は泣きそうになりながら言葉を紡ぐ。その言い方はまるで駄々っ子のようで、かっこ悪いことこの上ない。関係ない、と言ったことを峰藤に謝るなんて到底出来ないと思った。それほどまでに峰藤にわずらわしく思われていることが悔しくて、どうしてかショックを受けていて、そんな自分にまた腹が立った。実は天敵だと思っていた男に心の底では甘えていたなんて恥ずかしすぎて今すぐ死にたいくらいだ。そんな気持ちを隠すために私は益々、峰藤を睨み付ける視線に力を入れたが、ついつい零れてしまった涙は隠しようが無かった。すぐ泣くことを馬鹿にされたくなくて、さり気なくごまかそうとしたがそれは眼鏡未装着の峰藤の目にもとまったらしく、そこで初めて嘲るような仮面が崩れる。怒りと戸惑い、そしてもどかしさが混ざり合ったような表情で、彼は深い溜息をついた。
「……貴方に泣かれるのは少しだけ迷惑ですね」
そう呟くと彼はソファに腰掛け、私にも座るように目で促す。私は最初、それを無視していたが、じっと有無を言わせない視線に根負けして、緩慢な動作で腰を下ろした。それを峰藤が確認すれば、再び二人の間には沈黙が落ちる。
私が上を向いたりして涙をどうにか乾かそうと努力していると、理性的な彼にしては珍しく言葉に詰まりながら話し始めた。
「――言い方が悪かったのは、謝ります。私はこういう風にしか表現できないものですから。私が言いたかったのは、そうですね――貴方にはこれまで散々、迷惑を掛けられて来ました」
だって、それは、と鼻をぐしゅぐしゅさせながら遮れば、少し黙ってろと峰藤の目が語る。
「いいから最後まで聞いてください。貴方と関わることで被る迷惑ははっきり言って煩わしいもの以外のなにものでもありませんし、大変、不本意ながらそれは既に日常茶飯事と呼んでしまってもいいぐらいです――だから今更、貴方に掛けられる迷惑の一つや二つで腹を立てているほど私は暇ではありません」
貶しているのか、と恨めしそうな瞳で見上げると、峰藤は苛立ちながら疲れたように首を振った。そしてどこかぞんざいな口調で言葉を紡ぐ。
「ですから……はっきり言わないとわかりませんか? ――迷惑をかけるなと、私は貴方に一言でも言った覚えはありません。これまでの経験からいって、失敗や怪我、一人で泣いている貴方がそこから更に惨事に突っ込んでいくのは火を見るより明らかです。どこかで知り合いが酷い目にあっていると想像するのは精神衛生上、非常に迷惑です。どちらにせよ掛かる迷惑なら、私の目に届く範囲でやられるほうが遙かに――ましです」
しかし、私も見くびられたものですね、と自嘲するかのように笑ってから峰藤は顔を上げた。真剣な色を宿した瞳に捉えられた私の体は本能的に強張った。熱すぎる火から遠ざかるようにソファの上で後ずさる私の、怪我をしていたほうの手首を峰藤は掴みあげた。それを自分の視線の位置に持ち上げ、傷を実際に触るかのように視線でなぞる。
「私が――私が怒ったのは……物は必ず壊れるものなのに、貴方は自分より着物やカメラのことばかり心配していたからです。そちらを優先して、貴方自身の怪我が増えるなんてまさに愚の骨頂だ。だから貴方は馬鹿だって言うんです」
きつく上から握り締められた手首が痛かった。しかし、そこから峰藤の気持ちが直接、流れ込んでくるようで私は言葉に詰まる。それは純粋に私の怪我を心配し、怒ってくれたのだと気づけば、峰藤の暴言に対する怒りはいとも簡単に消え去っていた。罪悪感が胸を満たし、私は峰藤と視線を合わせることが出来なかったが、私は震える唇に小さな謝罪の言葉をのせる。それが聞こえたのか、峰藤は軽く頭を振った。
「謝って欲しいわけではないんです。ただ――」
関係無いなんてことは二度と言わないでください。
最後の台詞は消えるくらいだった。しかしそれはかろうじて私に届き、弾かれたように峰藤を見上げたけれど、彼は感情を吐露したことを恥じたのか、私の目を決して見返すことは無かった。
私は、あの時言った不用意な言葉が峰藤を深く傷つけていたことに改めて気づき、ごめんなさい。と峰藤に聞こえないかぐらいの声でもう一度だけ呟いた。
「――とりあえず応急処置を施します。この後は直接保健室に行ってください」
峰藤は聞こえないふりをしたのか答えず、胸元からちりめんの布を取り出して、私の手に巻き始めた。高そうなやつだったから筋金入りの庶民な私は腰が引けたが、ここで拒否したら怒り出すことはわかっていたので私は黙っていた。憎まれ口を叩きながら、彼は手当てをしてくれたが、その手に捕まれた手首は、何故か、微かに暖かかったのだ。
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