四十二話 / 屋上での怪談というか会談


 峰藤のクラスを出ると、私は素直に保健室へと向かい、治療を受けた。
 保険医はご丁寧に包帯まで巻いてくれたけれど、既に血は止まっていたし、ただの切り傷にしては大げさすぎる。それよりも血を吸ってがびがびになった、借り物のちりめんのほうが目下の心配事なのだ。
 これっていったいぜんたいいくらなんだろう。クリーニングで落ちる、よね? いや、お願いだから落ちてはくれまいか。
 必死にクリーニングの全能さを願いながら渡り廊下を歩いていた時、見慣れた雪女の姿が目に入った。私は包帯を巻いたほうの手をひょいと上げて声を掛け――ようとしたところで後悔したがもう遅い。妙に殺気立った雪女は私に気づくと、もの凄いスピードで駆け寄ってきた。壮絶に嫌な予感がして私は踵を返したが、後ろから首根っこをガッと捕まえられた。
「なぁに、逃げようとしてんのよ、アンタは」
「いや、なんとなく本能が……いだだだだだ、ゴキゴキいってます先輩! 首が!」
「逃げようとしたら、へし折るわよ」
 その声から伝わってきた本気に、私はぴたりと動きを止めた。まだ信用しきっていないのか、私の首を鷲掴みにしたまま雪女――美登里は低い声で唸る。
「アンタ、桂木君を見なかった?」
 美登里の口から出てきた名前に私の肩びくりと跳ねた。それに美登里は片眉を吊り上げる。
「知ってるの?」
「いえ、見てないですけど。会長がどうかし……」
「知らないならいいわ。見かけたら教えて」
「美登里先輩?」
 美登里は一方的に話を打ち切ると、私の首を解放し走り去る。その背中を呆然と見送って、私は首を傾げた。
 探しているってつまり――桂木が行方不明ってこと? 


「桂木? あー、そういや朝から見てないけど。どうせいつもの気まぐれだろ? そのうちひょっこり姿現すんじゃないの」
 教室の壁にもたれながら、穏やかなフランケンシュタインは頭に生えた螺子を弄りながらそう言った。暗くなっている教室からは、人の叫び声がひっきりなしに聞こえてくる。
「どこか心当たりとかありますか?」
「さぁねぇ。きみのほうが知ってるんじゃないの? きみ、最近、よく桂木と一緒にいる子だろ。桂木に会ったら言っといてくれない? そろそろ帰って来いよって」
「……はい。あの、お邪魔しちゃってすいませんでした」
 構わない、という風に手をひらひら振ってくれた先輩にぺこんと頭を下げて、私は三年D組を後にした。美登里に会ってから、なんとなく知らない振りをすることはできなくて桂木のクラスにきてしまったが、皆、朝、見ただけだと口を揃える。能天気に文化祭を満喫しているのだろうかと、クラスや模擬店なども覘いてみたり、歩く情報網である紀子にも聞いてみたが桂木の姿はどこにも見つけることが出来なかった。


 段々と日も翳ってくると、一般客はぽつぽつと姿を消した。今日の片づけを終えたクラスはさっさと終わらせて帰ってしまったのだろう。がらんとした廊下には私の足音だけがぺたんぺたんと響く。
「あー、まだ残ってたのかお前さん」
 ふと背後から掛けられた声に私は飛び跳ねた。振り向いてみると、何やってんだ、という呆れ顔の東山先生が立っていた。彼は手にしていてた鍵をちゃらりと鳴らした。
「そろそろ門、閉めるから帰れよ。なんだ探し物でもしてんのか?」
「あの、桂木会長を探してて」
「かつらぎぃ? あいつまだ残ってんのか」
 面倒臭そうにがしがしと頭を掻きむしる東山先生に気圧されながら、私は恐る恐る口を挟む。
「えと、絶対にいるとは限らないんですけど」
「俺が見回ってきた所じゃ電気も消えていたし見なかったがな。もう帰ったんじゃないのか?」
 そうかもしれない。なんだか一人でほっつき歩いているのが馬鹿らしく思えてきた。というかあんな自己中心的な男、放って帰ってしまえばいいのに、何を一生懸命探しまわってたんだろうか。振り回されている自分に腹が立ってきて私は俯く。するとぽんと軽く暖かな手が肩に乗せられた。
「ま、見かけたら声掛けといてやる。気をつけて帰れよ。じゃあな」
 ちゃりちゃりと揺れる鍵の音が遠ざかっていく。それになんとなく勇気付けられて、私はもう少しだけ探してから帰ることにした。すっかり消灯されてしまった廊下を進む。うろうろしていればさっきまで世界を覆っていた夕闇は濃度を増し、ガラス越しに見上げた空には気の早い一番星が輝いていた。やばいな門が閉められてしまうかも。そんなことを考え、ふとそらした視界の隅で何かがチカチカと瞬く。
 未確認飛行物体か? はたまたUMAか? それともオがつくオバQですか?
 オバQは特にノーセンキューである。オバケなんてないさ。オバケなんて嘘さ。寝ぼけた人が見間違えのさって、どっかの誰かさんも言ってたし。
 しかし無情にも今現在の状況は、放課後の学校。一人ぼっち。そして瞬く光――ばっちり幽霊フラグは立っている。
 怖いものみたさで、私はもう一度、目を押さえた指の隙間から、外を覗き見た。
 ぴかり――また光った。
 それは蛍のように、時折、思い出したように光を放っていた。場所はどうやら屋上。そういえば数日前、手すりが壊れそうで危ないと立ち入り禁止にされていたことを思い出して、私は卒倒しそうになった。明日の朝、血みどろで発見される女子生徒Aとかになっていたらどうしよう。血塗られた文化祭! という二時間ドラマのチープな煽りがふと頭を過ぎる――縁起でもない。
 嫌な想像を振り払い、私は結局、好奇心には勝てず屋上へと足をむけることにした。
 鉄のドアの前に辿り着くと大きく深呼吸をする。そして、勇気を振り絞り冷たいノブを握り締めた。それを捻れば、鍵は――かかっていない。
 心臓は早鐘を打ち、まるで全身が心臓になってしまったかのようだ。緊張のあまり喉は見えない手で締め付けられ息が上がる。ギギィ、と鉄のドアが鳴いて、開けた視界には闇以外の何者も存在しなかった。二、三歩、歩き出して周りを見渡す。遠くのほうに町の明かりがぼんやりと見えた……なにもいない。やっぱり見間違いだったのだ。
 ほっと安堵の息をついて、踵を返そうとしたところで、上からなにか黒いものが落ちてきた。
 ばさりと重たいものが頭にかかり、私の視界は塞がれる。叫びながらそれを振り払っていると、乾いた笑い声が聞こえてきた。その声には聞き覚えが嫌というほどある。
 必死の思いで叩き落せばそれは真っ黒なマント。荒い息を整えながらも顔を上げると、目の前に立っていたのは予想通り、探し回っていた桂木だった。黒い衣装を身に着け、闇に佇む彼はまるで本物の吸血鬼のようで私はぞっとする。手元で弄んでいるのは、百円では買えなさそうな四角い銀のライター。カチリカチリと蓋を開けては、火をつけて、また消す。さっき私が目にしたのはこれだったのだろう。血でも吸ったかと思うほど赤い唇はかろうじて笑みを刻んでいたが、こちらを見つめている翡翠の目には感情は写りこんでいない。観察されているような居心地の悪さを感じ私は本能的に身構る。それに桂木は更に笑みを深め、人形めいた美貌が柔らかく歪んだ。
 屋上で向かい合っている桂木の雰囲気は異質で、幽霊なんかよりもずっと恐ろしかった。私はその沈黙に耐え切れなくなって震る唇をこじ開ける。
「何を、してるんですか。こんなところで」
「見ての通り火遊びだ。2Cもやるか?」
 カチリ。シュボ。カチリ。
 口を開けば場違いなほど明るい声が返ってくる。しかしそれは裏にナイフでも隠し持っているような鋭さを孕んでいた。彼はライターを気軽に突き出してきたが、その人を馬鹿にするような態度に腹が立った私は、その手を跳ね除ける。桂木は一瞬だけ眉を潜め、次の瞬間にはつまらない奴だな、と屈託無く笑った。空虚な笑い声が闇に溶ける。それに何故か無性にむかむかした。
「……こんな、ところで、ずっと今まで何をしてたんですか」
「また同じ質問か? だから火遊びだって言ってるだろう」
「みんな会長を探してたんですよ? 美登里先輩だって、結城さんだって。それなのにこんな所で火遊びだなんて、ふざけるのもいい加減にしてください」
 爆発しそうな感情を押し殺すように私は唸った。何故こんなに腹が立つのか唐突に気がついた――さっきから桂木は一度も私の目を見ていない。
 初めて桂木の唇からはすっと人工的な笑みが消えた。そこにはあのときの表情と同じ、酷薄で冷たくて、剥きだしのままの拒絶が浮かんでいた。桂木は冷笑をたたえ私を見下した。思わず後ずさった私を追い詰めるように近づく。
「探してくれと、一言でも頼んだか? お前らが勝手に探していただけだろう」
 反論しようと私は開いたが、それを遮るように桂木は強い力で私の腕を掴んだ。
「それで見つけてどうするつもりだったんだ。お前らみんなで説教か? いまさら朝倉と話してどうなる。うすっぺらい謝罪を並べれば満足か? それとも口付けて抱いてやればいいのか? 随分とお安いな。お前が言う恋ってやつは」
 じりじりと後退していた背中には冷たいコンクリートの感触。熱に浮かされたような低音の囁き声が耳の中に入り込んでくる。両腕は壁に縫いとめられ、桂木の吐いた熱い息が唇に当たる。以前の記憶が蘇り、嫌悪感で私は体を強張らせた。
 は、と馬鹿するような笑い声が聞こえ、唐突に腕の拘束が解かれる。私はコンクリートの上に崩れるようにしてしゃがみ込んだ。強く捕まれていた腕はちりちりと痛みを訴える。見上げた桂木は嘲笑を唇の端にたたえていたが、一瞬、浮かんだ傷ついたような表情を私は見た気がした。
「恋や愛なんてものは本能が見せる幻想だ。執着ほどくだらないものはない。永遠なんてものは存在しないのだからな。どうせいつかは消えて無くなるものを欲しがってどうする? 無くして傷つくのが解っているのに、手に入れようとするなんて愚か者のすることだ」
 この世のもの総てを馬鹿にし、見下しているような――それでいて初めから諦めてるような桂木に無性に腹が立った。自分が目の前の人物を怖がっていたことなんか吹っ飛んでいて、強い感情に突き動かされるように私は立ち上がる。
「――だったら無くすのを恐れて、欲しくないふりをするのは愚か者じゃないんですか?」
「なんだと?」
「何一人で悟った振りなんてしちゃってるんですか? ――馬っ鹿みたい。会長は、傷つくのをただ怖がってるだけでしょう? それなのに知ったかぶりして恥ずかしくないんですか。こちら片思いして二年ちょっとの大ベテランですよ? 会長に言われるまでも無く痛い思いして日々生きてますよ。……でも、それでもやめられないのは痛みを伴ってでもどうしても欲しいものがあるから――」

 最初から負けっぱなしの私の恋。いつ失くしてしまうかと思うと怖くてたまらなくなる。だけどあの人の笑顔一つ、口をきいただけで、また一つ幸せになれるから。

「それを、恋ができもしない臆病者にガタガタ言われたくないですっ!」

 ――誰がどう思おうが関係ない。私は私のやり方で恋してやるのだ。
 妙にすっきりとした気分で私は桂木にぴしりと指を突きつけた。そして呆気に取られている桂木を前に片方の腕を腰に当て、胸を張って不敵に笑う。いつもとは完璧に立場が逆転していた。
 しん、と沈黙が落ち、二人の間には闇が横たわる。力強く言い切ったものの桂木の反応は無し。なんとなく居心地が悪くなってきた。少しだけ様子を伺うようにちらりと視線を送ると、唐突に噴出すような音が聞こえ、桂木が腹を抱えて笑い出した。コンクリートの壁を叩きながら笑い転げている。これまで見たことも無い桂木の抱腹絶倒振りに、今度は私が呆気にとられた。
 ――え、私、笑えるようなこと言った覚えないんですけど。
 うけを取ったつもり無いのに笑われるのって凄く腹立たしい。「ごめんなさい。僕が間違ってました」と感動にむせび泣く桂木ははなから期待していないが、しおらしい態度ぐらいは夢みてもいいじゃないか。
「えーと、会長、お楽しみのところ悪いんですけど――人を指差して笑うなんて失礼ですよ」
 目尻に浮かんだ涙を拭いながら、桂木は漸く立ち上がった。パンパンと黒い衣装についた埃を払いながら、まだ可笑しそうに口元を緩めている。不機嫌そうな私の視線を受けて、噴出しそうになるのを堪えた。桂木にしてはえらい進歩である。
「片思いの大ベテランって、そこは胸を張って誇るところじゃないだろう」
 ぐさっと、胸に突き刺さる鋭い言葉。それ禁句。NGワード。
 ええ、解ってますとも、どうせ報われない片思いですよ!
 じとりと恨みがましい目で睨めば、ククク、と喉を震わせていた桂木はぽんぽんと頭を叩いた。
「やっぱりお前は愚かだと思う――だが、やめたくてもやめられないのが恋ってやつなのか?」
「……少しは解ってきたじゃないですか」
 悔し紛れにふん! と私は鼻を鳴らしたが、今の桂木には何でもツボにはまるらしい。からかうな、と言う意味を込めて睨みつけてやるとおどけた仕草で肩をすくめた。
「馬鹿にはしていないぞ? ただそこまで愚かでいられるお前が少し――」
 うらやましいだけだ、と唇が音を作るために動いた気がした。
 その時の桂木の表情は、限りなく優しい上に切なく見えて、私の心臓はどくりと鳴る。だってそれはまるで恋に焦がれているような――。
 そこまで考えてから、ぐわっと私の顔には血が上った。
 なんでそんな表情でこっち見てるんですか。色気出血大サービスですか? うわうわ、ちょっと近づかないでください! 今の貴方の存在が軽く十八禁ですから!
 近くなってきた距離に耐え切れず、私は混乱しっぱなしの頭で桂木を思いっきりどついた。突然な私の反撃に桂木は驚いたようだったが、二十センチ以上も差がある体は少し状態を崩しただけだった。その代わりぽろりと手を零れたライターが空中へと放り出される。あ、と私が口を開けば、振り返った桂木が素早くライターをキャッチした。
 安堵の息をついた私の耳に、次の瞬間、バキリ、と鈍い音が届く。
 目の前を落ちていく体に絶叫し、私は手を伸ばす――ところで世界は完全に暗転した。



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