四十三話 / ユーキャンフライ、メイビー


 私はふわふわとしたまどろみの中を漂っていた。
 温かくていい匂いがする。柔らかい毛布に包まっているような心地よさだ。そしてとくとくと、微かに聞こえてくるのは心地よいリズム。その音は心を落ち着かせ、そのぬくもりに甘えるように私はぐりぐりと顔を擦り付けた。そこでふと私は違和感に気づく――ん、あれ、毛布のはずなのに、なんだか妙にゴツゴツしているような……。

「やっと目が覚めたのか」

 触れていた硬い塊がはっきりと声を発し、音が直接、体に響く。漸く覚醒した私はぐわっと目を勢いよく開き顔を上げた。そんな私の目の前に鎮座するのは月を背負って優雅に微笑む、桂木拓巳の花の顔(かんばせ)。
 近い。近すぎる。パーソナルスペースなんてクソ食らえの至近距離。気づいてみれば奴の腕は私の背中に回され、お互いの体は向かい合いぴたりと密着している。
 ――さっきぐりぐりしたのはまさかといわずとも桂木の胸板なのでしょうかジーザス!
 そう自覚したとたん、羞恥レベルは容易に臨界点を突破し、私は奇声を発しながら桂木から必死に逃れようと体をよじった。私がそんな奇行に走るとは予想していなかったのか、桂木の拘束はあっさりと解ける。腰砕け状態の私は這い蹲りながら、少しでも距離をとろうと後ずさった。しかし、すぐに桂木に足首を捕まれ引き摺られる。中華風スカートがまくれ上がりそうになるのを死守しながら床に張り付き耐えている私と、そんな私を引き寄せようと足首を引っ張る桂木の綱引き――まさに地獄絵図である。
「ちょっと会長! 近寄らないで下さい! っていうか引っ張らないで下さいよ!」
「何を言っている馬鹿モノっ! 落ちてど根性ガエルにでもなりたいのかお前はっ!」
「――ど根性、ガエル?」
 いったいぜんたい何のお話をされているんで?
 桂木の珍妙な台詞に首をかしげていると、その隙に一気にずりりと引っ張り寄せられた。
「痛っ! 酷いじゃないですか!」
 擦り傷をこさえながら私が泣き言を漏らせば、桂木は怒った口調で下を指差した。
「いい加減にしろ阿呆! いいから周りを見てみるがいい!」
 桂木に言われた通り私は、空に浮かぶ綺麗な月から段々と視線を下に移動させる――私がさっき逃げようとしていた少し先にはもう、コンクリートの地面は存在していなかったのである。



 どうやら私達は校舎を繋いでいた一階下の渡り廊下の上に落ちたらしかった。あと一メートルほどずれていたら、二人仲良くど根性ガエルデビューしていたかと思うと、運がよかったとしか言えない。体の節々は痛むものの奇跡的に無傷だった。しかし、それは桂木を下敷きにしていたお陰らしい。さっきの体勢はつまり完璧な不可抗力だったというわけ――というかそう思わせてくださいお願いします。

「こんな時って普通、どうすればいいんでしょう?」
 私はひゅるりと通り過ぎていく冷たい風に自分自身を抱きしめながら体を震わせた。
「人が来るまで待つか? あと十時間ほどで夜が明けるぞ」
 桂木は軽い口調でそういったが、私はぶるぶると首を横に振る。風も冷たくなってきた今日この頃、こんな吹きさらしかつ危険な場所で夜明かしなんてとんでもない。だからといって脱出する方法も浮かばなかった。屋上にはジャンプしても届かない高さであるし、私達が上に立っている渡り廊下はかなりアクロバティックなことをしなければ降りられそうも無い。それに第一、落ちる危険性も十分にあった――八方塞だ。私が絶望に打ちひしがれていると、おもむろに桂木が立ち上がった。

「じゃあ、そろそろ行くか?」
 背を向けた桂木に、私はもちろん度肝を抜かれた。
「ちょ、ちょ、ちょっと会長! 一体どこ行くんですか! まさかアイキャンフライとか高笑いしながらダイブするつもりじゃ……! あの! 言っておきますけど人間は空飛べませんから!」
「あのなぁ2C、今、お前の俺に対するイメージがよぉく解ったぞ」
 パニックに陥り静止するつもりで腕に飛びついた私を桂木は呆れた風に眺めた。
「ここで夜明かしは嫌なんだろう? ならさっさと脱出するだけだ」
「だからどうやって!」
「あれを伝わって廊下に飛び移る。お前は屋上から引っ張りあげてやるから安心しろ」
 そうあっさりと言った桂木の視線の先には校舎の壁にくっつくパイプ。校舎と同じくらい長い年月を経ていかにも古そうだ。体格の良い青年男子の体重を支えられるかどうかはまったくもって疑わしかった。
「……マジデスカ」
「マジもマジだ。大マジだ」
 片言で呟いた私に桂木がノリよく答える。そうして桂木に引き摺られるように歩を進め、近くで見たパイプは更に貧相だった。下を覗き込んでみると遙か遠いところに地面が見え、それに私はくらりと眩暈を覚える。
「無理無理! 絶対に無理ですこれ! 落ちます! 百パー、落ちますから!」
 首をぶるんぶるんと振りながら私は桂木を説得した。想像するだけで体が震えてくるし、膝は既に大爆笑だ。そんな私を力強い腕で支えながら、桂木は喉を鳴らした。
「俺は不可能を可能にする男だ。そんなことも知らなかったのか?」
「か、かっこいいっぽいことをいっても駄目です!」
 いくらしぶとくて殺しても死ななさそうな桂木でも、もちろん地面に叩きつけられれば無事ではすまない。私が必死に止めているにも関わらず、桂木は聞いているのか聞いていないのか、まじまじと私を観察していた。
「ちょっと会長! 聞いてるんですか!」
「いや、特に聞いていない」
「偉そうに言うことじゃないでしょうそれ!?」
 そう私が癇癪を爆発させると、当然とでも言いたげに桂木はさらりと肯定した。
「だって偉いだろう。俺は」

 ――まだ宇宙人とのほうが上手く意思疎通する自信あります私。
 がくりと脱力して膝を突けば、桂木はぐいっと私の腕を掴んで引き上げる。そしてふと見上げた桂木の深い翠の双眸は一瞬、息を呑むほどに強く、決意に満ちていた。
 桂木はにやりと大胆不敵に唇を歪める。
「大丈夫だ。俺が一度やると言ったことでやり遂げなかったことがあるか?」
「……えっと、たぶん」
「今は忘れろ」
 きっぱりと言い切られた理不尽な言葉。しかし何故か私はそれ以上何も言うことができなかった。黙りこんだ私はたぶん不安げな表情をしていたのだろう、パイプに右手を伸ばして強度を確認していた桂木は振り返り、珍しく苦笑いを浮かべると、もう片方の手で私の頭をくしゃりと撫でた。その感触は驚くほどに優しくて私はびくりとしてしまう。そんな私の反応に桂木はまた笑った。
「心配するな、お前は俺を信じていればいい」
 そう唇を一度震わせてから、桂木は空中に身を乗り出した。
 パイプに両腕で捕まり、ゆっくりとした動作で壁との接続部に足をかける。ギシリとパイプが鈍い音を立てたが、見た目ほど華奢ではなかったらしく、ハラハラと手に汗握りながら見つめている私の前で桂木は危なげなくパイプをつたっていった。そして渡り廊下の高さまで降りると、勢いをつけながら上半身を渡り廊下のほうに投げ出す。そこで手がすべりでもしたら即、南無阿弥陀仏である。
 ヒッ、と一瞬、息を呑んだ私は桂木の手が無事かかるのを確認してどっと冷や汗をかいた。心臓に悪すぎる。桂木はそんな私の緊張なんかに頓着せず、ぐっとしなやかな腕で体を引き寄せ、いとも容易く渡り廊下に乗り移った。
 強張った体は弛緩し、張り詰めていた息が漏れた。握り締めていた掌にはつめが食い込み、じんわりと汗が滲んでいる。思わずしゃがみ込んでしまいそうになっていた私に桂木は、少し待っていろと声を掛けた。
 そうして私は屋上からマントを使って引き上げられ、無事に桂木とご対面することが出来たのである。引き上げられる際にはいろいろと――重い、どんくさい、ブタでもきょうび木に登るぞ? などという暴言がかけられたのだがここでは割愛させていただこう。



 薄暗い廊下を二人並んで歩き、教室に戻ってみれば、携帯電話には何件かの着信とメールが来ていた。確認してみるとそれは家と紀子からだ。ため息をつきつつ、私はまず家に電話をかけてみたが、ツーツーという電子音が聞こえどうやら通話中であるらしい。タイミングの悪さを嘆きつつ、先に紀子にメールを返すことにした――実はちょっと問題があって、今、会長と学校に閉じ込められちゃったんだ。もしかしてうちの家からから電話かかってきてた? 心配かけてたらごめん。
 そうぽちぽちと打ちこんで送信する。そして折りたたみの携帯を閉じると私は深く長い息を吐いた。
 なんだか今日はとんでもない日だった。女装姿の峰藤に馬乗りになったり、屋上から桂木と共にダイブしたり、思い返すだけで眩暈と疲れが一緒くたになって襲ってきそうになる。
 ……もうとっとと帰ろう。
 そう思い、ふと視線を転じれば中国風の布で飾られた机の向こう側には桂木が――まるでそうするのが当然のように、どかりと座っていた。私に気づき、桂木はにっとシニカルな笑みを浮かべのたまう。
「茶」
「は?」
「ここは喫茶店だろう? 俺は茶が飲みたいんだ」
 桂木は右手の人差し指でテーブルを軽く叩きながら反対の手で頬杖を突く。自分を王様かなんかと完璧に勘違いしている男を、私は半眼で見返した。
「……もう営業時間は終わってますけど?」
「俺が来た時が真の営業時間だ」
 偉そうに言い切った桂木は、相変わらず無駄に爽やかで憎らしい。一体何が"真"なのですか、という無意味な突っ込みを入れるのは諦めた。無理を投げつけて道理を叩き割るような相手に何を言おうとも、けっきょくエネルギーを無駄に消費するのはこっちなのだ。
「――いれればいいんでしょういれれば」
「うむ。よきにはからうがいい」
 えっらそうだなまじで! ムカつくんですけど! いったい何様のつもりなんだ! 
 ――桂木様だとあっさり答えるだろう桂木に妙に納得してしまう自分が悲しい。
 雑巾の絞り汁でも入れてやろうかと不穏なことを考えながら、私は渋々とお湯と茶器セットを運ぶ。桂木は行儀悪く机の上に足を組みながら、ぶらぶらと椅子を揺すっていた。眉をしかめつつ近づくと、机の上に置いてあったライターが目に入る。屋上からダイブしたことを今更ながらに実感してぞっとした。半分は私と壊れかけていた柵の所為だとは言え、このライターを落っことさないために桂木はダイブしたのだ。それはまさに峰藤に馬鹿だと指摘されていたことだけに私には責められずバツが悪かった。テーブルの上に茶器を置くと、私は桂木に声を掛ける。
「それ、大切なものなんですね」
 桂木はライターに一度視線を落とすと、顔を上げすっと翡翠の瞳を細めた。
「まぁな。ムッティ――俺の母親のだ」
 どきりと胸がなった。桂木の母親。つまりは結城さんの奥さんだった人だ。どんな人だったかは遠慮して聞けたことは無かったが、穏やかな微笑を浮かべる桂木が亡き母親を今も尚慕っていることは解った――それは結城さんが奥さんについて語るときの表情と同じだったから。
 桂木の口から母親に対しての言葉を聞いたのはこれが初めてで、私は何故か開けてはならないドアを無用心にノックしてしまったような気がしてしまった。動揺を誤魔化すために手早くお茶を入れ、桂木の向かい側に腰を落ち着けたが、そわそわと決まり悪そうにしている私に桂木は気づいたらしい。
「お前、解りやすすぎるぞ。変に気をまわすな。聞きたいことは聞けば良いだろう。それとも俺が泣くとでも思っているのか?」
「それは想像できませんけど……あの、ごめんなさい」
 居たたまれない気持ちになって下を向くと、謝るな、という笑い混じりの声が掛けられた。柔らかい口調に励まされて私はそっと顔をあげる。桂木が頷くのを確認してから、私は口を開いた。
「会長のお母さんってどんな方だったんですか?」
 勇気を出してそう聞けば、桂木はよくぞ聞いたと言いたげににやりと笑った。
「俺のムッティは世界で一番いい女だ。なんてったってムッティだからな」
「――桂木会長にそこまで言わせるなんて凄く素敵な人だったんですね」
 自分で言ってちくりと胸が痛んだ。桂木はゆっくりと頷く。
「あぁ、出会う人間になんらかの鮮烈なイメージかトラウマを植えつけていた」
 え? と聞き返せば桂木は歯をちらりと見せた。
「誰よりも我侭に自分の道を歩んでいた人だった。子供相手に本気の掌底をかますような母親だったから俺も幼少からかなり鍛えられたぞ」

 痴漢を土下座させるまでとっちめた話や、舐められるのが嫌で女だてらに格闘技を極めてたとか――凄すぎる逸話に私の中で漠然とあった病弱な女性像が粉々にぶっ壊されてしまった。結城さんの話から勝手に想像していただけだったが、"桂木拓巳"の母親でもあったのだからそれは当然なのかもしれなかった。とにかく桂木並に――もしくはそれ以上にエネルギッシュな女性だったということは間違いない。

「それならなんで――」
 途中まで問いかけ、私は少し無遠慮に踏み込みすぎていたことに気づき、口をつぐんだ。桂木は私が何を聞きたかったのかを読み取ったらしく、少し含みを持たせた表情で続ける。
「それなら何故――ムッティが死んだか、か?」
 桂木は相変わらず微笑んでいたが、その表情はどこか硬質な雰囲気を纏っていた。そして薄い唇は皮肉げについっと吊り上げられる。

「結城が殺した――と言ったらどうする」

 真っ直ぐに向けられた双眸に私は射すくめられてしまった。桂木の言葉は矢のように心臓に突き刺さり、私はひゅっと息を呑む。頭の中でぐわんぐわんと反響した言葉は、世界を凍り付かせた。
 しばらくたってから桂木が息を緩め「冗談だ」と言い、それと共に私も息を吹き返す。三十秒ぐらいの間だっただろうか、しかし私にはそれが永遠であるかのように感じられた。
 桂木はふっと息を吐き頬をかいた。
「あぁ、結城を好きなお前には悪趣味すぎたな――悪かった」
 初めて聞いた謝罪の言葉に私は弾かれたように桂木を見る。うっすらと浮かぶ嘲笑に桂木は珍しく自分の発言を悔いているようだった。それに私は何故か言葉に表しようのない焦燥感にかられる。
「会長は――結城さんのことが、嫌いなんですか?」
 まるで私が馬鹿な質問をしたかのように――実際、そうだったのだろう、桂木は噴出した。
「腹が立つことがあるが嫌いじゃない。さっきのは冗談だって言ったろう?」
 そう言って肩をすくめる桂木の表情からはなにも読み取れなかった。桂木が冗談と誤魔化したことを全て信じたわけではないが、無視してしまうにはその言葉は重すぎた。
「私は事情を知らないですし、会長がどんな思いを結城さんに対して抱いているのかは解りません。だけど結城さんは今でもお母さんと会長をちゃんと――愛してます。だから少しでも良いから結城さんと話して……そんなこと冗談でも言わないでください」
 桂木を見つめながら私はそう懇願するように言った。たぶん、私は桂木の言葉で傷つく結城さんを見たくないだけなのかもしれない。しかし、それは同時に桂木がどんな気持ちでそれを口に出したかなんて無視しているのと同じことでもあった。ぎゅっと拳を握り締めていた私の心を見透かすように桂木はきつい視線を送る。
「とんだエゴの塊なお節介だな」
 桂木はすっぱりと切り捨てた。
「俺は無駄に干渉されたり指図をされることが大嫌いだ。結城が俺のことをどう思っていようが興味はないし、逆にあいつも気にはしないだろう。俺たちはなんでも世話を焼いてもらわなきゃならない赤ん坊かなんかか? それに今更、何の話をしろというんだ」
 辛辣な言葉だったが正論だった。桂木は、俯き暗い顔をしている私に気づくと口をつぐみ深いため息をついた。重苦しい沈黙と微かな唸り声が場を支配する。
 そしてついに桂木は耐え切れなくなったのか頭をかきむしりながら、いらいらと声を荒げた。
「わかった。あぁ、もとから口にするつもりも無かったんだからあれは失言だ! だからそんな顔をするな!」
 私が顔を上げると、桂木はぴしりとおでこのあたりを指差す。
「その眉毛のぶさいくな八の字加減だ! 俺が困るんだ! イライラするから即刻やめろ!」
 酷い言いがかりな上に困っているのはどっちかというと私のほうだと思ったが、顔を鷲掴みにされむりやり眉毛を直されそうになったから、もはやそれどころではなかった――というか表情直すのも力技かよ!

 数分間の格闘の末、ところどころ引っ張られた顔の皮がずきずきして逆に生理的な涙が滲んでいた。湿っぽい雰囲気は一気に払拭されたが、私の眉毛はぎゅっと眉間により、だけれど怒りのためか少しつりあがっているのだろう。それなのに満足そうに笑う桂木にもっともっと腹が立った。
「っていうか会長ってほんっとうにわけ解りません! いったいなにがしたいんですか!」
「勿論、俺がしたいと思ったことに決まっているだろう」
「あっそうですか! じゃあ私も私がしたいようにしますから!」
 とっととこんなとこから帰ってやる! 私は立ち上がり、あわよくば迎えに来てもらおうと家に電話することした。電話番号をプッシュしようと指に力を込めると、するりと伸びてきた手に携帯電話を奪われてしまう。
「ちょっと何するんですかっ!」
「まぁ、落ち着け2C。どうどう、はいどう、ぶひぶひ」
「……ちょっとなんですか、最後のぶひぶひって」
「お前のお仲間の言葉で"落ち付け"だ」

 ――完璧に馬鹿にされている。

 怒髪天をついた私は怒りの余り眩暈まで覚えたが、桂木は地団太を踏む私を面白そうに眺めていただけだった。そして携帯電話を取り返そうと手を伸ばす私の鼻面を掌で押さえて、そっと内緒話をするように囁く。
「なぁ、お前、探検したくないか?」
「はぁ? 何言って」
 素っ頓狂な声を上げた私を遮って桂木は弾む声で続けた。
「文化祭当日の夜の学校なんてそうそう見られるものじゃないぞ。これを返して欲しければ俺にお供しろ」
「ふんっ! そんな脅し無駄ですからねっ!」
 弱みを見せないように強がると、無駄だと思うか? と桂木は悪役そのものの嫌な笑顔を浮かべる。
「どんくさいお前が門を越えられるとは思わないし、それにこの暗い校内を一人で歩くつもりか? ここは無駄に古いからな、いわくつきのものはそこらじゅうにゴロゴロしている。例えば視聴覚室の怪って知っているか?」
 ひゅうどろどろと、チープな効果音を口で言いながら、桂木はふうっと私の耳に息を吹きつける。ぞわぞわっと鳥肌が私の背中を駆け抜けた。
「わ、わわわかりましたよっ!! 他に選択肢ないんでしょう!?」
 耳を塞ぎながら叫ぶと、桂木は満足そうに口元を緩めた。そして、逃げやしないのに私の手を自分のそれで包み込むと、力いっぱいに引っ張る。私は前につんのめりながらも足を動かした。
 夜の学校はシンとしていて、だけれど文化祭のために特別に飾り付けられていた教室らは昼間とはまったく別の表情を持っていた。

「2C、迷路に入るぞ。先に出たほうが勝ちだ、いいな?」

 ぶすくれている私になんてお構い無しで、周りを楽しそうに見回していた桂木は瞳をきらきらと輝かせて言う。その子供っぽさに呆れながらも、楽しくてしょうがないといった表情で笑う桂木についついしょうがないなぁと思ってしまった。少し笑みを零した私に気づくと、繋がれた手には少しだけ力が込められる。

 ――そうして私は真夜中の校内を引きずり回されることになったのだった。



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