四十四話 / 犬は不用意に拾ってはいけません。
寝苦しい。
胸の上で子鬼にコサックダンスを踊られているような重量感。
誠に遺憾ながら、そんな精神的、肉体的苦痛に喜びを見出せるはずもなく、私は苦悶の表情を浮かべ呻いた。その苦しみから逃れるべく体を動かした瞬間に、
私は横からの強い衝撃を受ける。そして数秒後、硬い床と目覚めのキッスをぶちかます羽目になったのだ。
――おはようございます。愛しのダーリン(材質は恐らくリノリウム)。
今日の朝ごはんは味噌汁とご飯? パンとバター? それとも、ワ・タ・シ? ――って朝からボケなきゃやってられないんですけどっ!
「……いっ、たたたた」
私が打ち付けた顔面を撫でると、滲んでいたアイライナーがちりめんを黒く汚した。どんよりとしていた頭は次第に覚醒し始める。
きらきらと日の光を透して揺れる白いカーテン。微かに鼻を掠めるのは棚に整然と陳列されている薬の匂いだろう。自分が落ちたらしい鉄パイプのベットをた
どり、視線を何の気なしに移動させれば目に付いたのは――にょっきりとベッドから生える、ながぁい足。
はて、何故こんなところに麗しいおみあしが?
私の脳はうっすらと思い出し始めてしまった。
そう。冥王星の彼方まで放り投げておきたかった"事実"というやつを。
――どうやら学校に無断外泊をやらかしちゃったみたいです。
私は冷たい床に座り込み、たっぷりと五分間は頭を抱えてから、ようやく現実を直視した。
確かに昨夜は校舎を引き摺りまわされて疲れていた。しかし、ちょっと休憩していくぞ! という悪魔の囁きについつい耳を貸したのが間違いだったのだ。ノ
ビタ並みの素晴らしい寝つきを見ていたら、私もちょっとくらいなら……と誘惑に負けてしまい――あとは推して知るべし。
私は深いため息をひとつ零すとゆっくりと立ち上がった。ベッドのほうに視線をやると、案の定、この世の物とは思えないぐらい美しい生き物が、健やかな寝
息を立てていた。
陽光の下で色素の薄い髪がきらきらと輝き、睫毛が頬に濃い影を落としている。仮装をしたまま黒いマントに包まれて眠っている男は本物の吸血鬼伯爵のよう
で、私は不覚にも見惚れてしまった。学校の保健室にそんな幻覚空間を作り上げるとは恐るべし美形マジック。
「……黙ってれば文句なしに美形なんだけどなぁ」
立てば芍薬、座れば牡丹、しかし口を開けば食虫植物の男、桂木拓巳を見つめながら私は嘆息した。そして恐る恐る手を伸ばすと、桂木の肩をゆする。
「会長、朝、ですよ……?」
遠慮がちに声をかけるが、桂木はうんともすんとも言わない――逆に「すん」と言われた日なんかにゃ死ぬほど腹が立つことはわかりきってるわけですが。
「……会長! 会長ってば、起きてくださいよ」
声をかけながら、先生か誰かに見つかったらどうするんだろうと、私だけがハラハラさせられていることに段々と怒りのボルテージも上がってきた。それにつ
れて桂木を起こそうとする私の腕にも力が入る。
「会長! 聞こえてないんですか! いいかげんっ! 起きてください、てばっ!」
ついには首がもげるんではないかと思うほど力を込めて揺さぶってみたが、桂木は瞼をぴくりとも動かさない。
まさか、この人、寝てるように見えて、実は死んでるんじゃ……。
ぜぇぜぇと肩を揺らしながら息を整えている私の頭を、そんな一抹の不安がよぎった。びくびくしながらも近づいて、口元に頬を寄せてみると、微かに空気の
流れが感じられる。
よかった息はしている。とりあえず生きてはいるみたいだと、胸をなでおろしたその瞬間、私は頭蓋骨を鷲づかみにされた。
「ぎゃあああああああああ!!!」
鳥が絞め殺される時に似た断末魔を上げながら、私は桂木の胸板らへんを我武者羅に殴打したが、がっちりホールドオンされた頭は万力で締められたかのよう
にびくともしない。
カッ! っと見開かれたエメラルドグリーンの眼は、虚空を彷徨っていたかと思えば、私の瞳を捕らえる。そして見詰め合うこと数十秒。だらだらと油汗をか
きながら固まっている私に向かって、唐突に桂木はふわりと花が綻ぶかのような笑顔を向けた。至近距離でくらった破壊光線に私の血液は瞬間沸騰する。
「今、お前の夢を見ていたんだ」
「え?」
生きてて良かった、と微笑む桂木に私の胸は高鳴った。そうして桜色の唇は心底安堵したように息を吐き出すと、柔らかな音を紡ぎだす。
「四肢を木っ端微塵に吹き飛ばされたお前を生き返らせてやろうとドラゴ○ボールを探していたんだ――あ、ちなみに大きいほうな」
――ものっそい広大かつグロい夢見てたみたいですけど、夢の中ですら私が酷い役回りなのはなんでなんですか神様、ピッコロ様、デンデ様!
保健室のドアをそっと開けながら、私は首を伸ばして外の様子を伺った。まだ朝も早い所為か人気は無いようだ。それでもちらほらと登校し始めている生徒達
の姿もガラス越しに見えるから油断は出来ない。きょろきょろと周囲を確認してから、私は後ろに向かって声をかけた。
「じゃあ、今のうちに行きますよ会長……って立ったまま寝ないで下さいよっ!」
「ふぁ?」
まだ眠気が覚めないのか、桂木は大欠伸をしながら目を擦っている。ふらふらと足取りまで怪しげで、今にもぱったりと倒れて、そのまま寝こけてしまいそう
だ。しかし、こんなところ人に見られたらなんと噂されることやら。煙の無いところに火はたたないというが、紀子なんかに見つかった日には、小火を山火事レ
ベルまで焚きつけられる恐れもある。眼鏡をギラリと輝かせる紀子を想像し、私は怖気を奮った。
「さぁ会長――って二度寝禁止っっ!」
「んー?」
いつのまにか後ろにいたはずの桂木はベッドの上にもそもそと登り始めていた。それを阻むために私は必死にマントを引っ張るが、ウェイトの差は歴然で、桂
木は至福の笑みを浮かべながら枕に頬を寄せている。そしてあくまでも睡眠妨害をしようとする私を桂木は鬱陶しそうな目でねめつけた。
「なんだ2C。夢の中でお前を助けてやったのは誰だと思っている」
「勝手に人を夢の中で惨殺してたの誰だと思ってんですかぁぁぁぁ!!!」
「サイバイマンだろ?」
「私はヤムチャかっ!!」
突っ込み疲れがっくりと肩を落とした私に、まったくお前は喧しいなぁと桂木は呟いた。そして、ふっと視界が陰ったかと思えば、ベッドについていた私の手
首は大きな暖かいものに包まれる。はっと顔を上げれば、桂木は私の腕を軽く引き、これ以上無い名案を思いついたかのようにあっさりと言った。
「お前も寝ればいい――それならフェアだろう?」
「フェアとかそういう問題じゃないんですけどーーー!???」
「遠慮しなくていいんだぞ。なんなら俺の枕にしてやってもいい。光栄に思えよ」
「イヤァァァァァァァ―――! 謹んで辞退させていただきますっっ!」
ずるずると引き摺られながらも私は巻きついてくる腕を必死に押し返した。自分の完璧な妥協案をなぜ拒むのか、と桂木は不満そうに唇を歪ませる。
がらりとその時、保健室の扉が何者かによって開かれた。それに一瞬気をとられれば、油断を見逃さず桂木は私を一気に引き寄せる。ガツン、と私はベッドに
突っ込み、鼻をしこたま打ち付けた。
涙を滲ませながら、痛みに鼻を押さえている私の耳にカシャリという音が届く――いやぁな、デジャブを感じて私は振り返った。
唇の端は頬まで避けているかと錯覚するほどにやりと釣りあがり、そこに居たのはカメラを構える口裂け女――などではなく新聞部部長、三度の飯より特ダネ
がお好きな伊藤紀子さん。
紀子はぶるぶると固めた拳を震わせると、それを天井へと突き上げた。
「今学期最大の特ダネゲットォォォォォ!!!!!」
保健室を飛び出し鬼気迫る表情で走り出した紀子を、私は死ぬ気で追いかけた。廊下を血走った目で疾走する二人組みが悪目立ちすることは確実だったけれ
ど、なりふりなどかまっていられない。私の未来がかかっているのだ。そんな私を桂木は手をひらひらと振りながら見送った――確実にヤツが二度寝する気が
ぎゅんぎゅんします! というか半分は誰の所為だと思ってんだチクショウ! 嗚呼、涙が滲んで前が見えません!
それからが地獄だった。
なんとか捕まえて事実無根な捏造記事を防ぐまではよかった。しかし、逆に紀子は羊を前にした狼のごとく舌なめずりをしながら、私を追い詰め、情報を引き
出す作戦を展開。そして私が必死に言葉を濁し、はぐらかし、誤魔化し、矛先をかえて逃げまくっていれば、あっという間に時間は過ぎていってしまった――結
局はヌーにたかるピラニアの如くの凶暴さを見せた紀子に、私は記事にしないという条件で一部始終を白状してしまったのだが。
裏門近くの植え込みで私と紀子は人を避けるようにしゃがみこんでいた。
「ほうほう――やっぱり私の鼻は確かだったわ」
らんらんと瞳孔開きっぱなしの目で、紀子は頬に右手を当てて、さもありなんと言いたげに頷いた。昨晩の出来事は、紀子の好奇心を満足させるぐらいには波
乱万丈だったらしい。
「そうして屋上から心中を図ったあんたたちは、奇跡的に愛の絆で九死に一生を得て、真夜中に校内デートと洒落こんだあげく、結果、保健室で一線を超えてし
まった……と」
「ってかとんでもない話、捏造してるーーー!??」
――心中とか愛の絆とか、どこぞのメロドラマの見過ぎじゃなかろうかこの女。
私がじとりとした目で紀子をねめつけると、流石にその込められた怨念に気づいたのか、紀子は誤魔化すような作り笑いをした。
「いやぁね。ちょっとしたスパイスで味付けしただけじゃない――ってそんなことより、あんた家に電話した?」
「へ?」
「ほら、無断外泊しちゃったんでしょ。おじさん、おばさん心配してると思うけどなぁ」
「あ……あああああああぁぁぁ!!!」
――すっかりさっぱり忘れてますた。
天を仰いでみれば、もう夕日が沈みかけている。昨日の夜から奪われたままの携帯はたぶん桂木が持ったままなのだろう――エマージェンシー、エマージェン
シー、緊急指令発令。直ちに携帯を奪還せよ。
据わった目をしながらロケットダッシュで走り出す。私はまだかろうじて運命の神様に見捨てられていなかったらしい。なぜなら渡り廊下に差し掛かったとき
丁度、大欠伸をしながら歩いてくる桂木が私の視界に飛び込んできたのである。どこかで絶対に寝てたらしい彼は、だるだると足を前に出しながら、柔らかい髪
をかきあげていた。
「かいちょ……私の!」
私が声をかけようとした時、桂木がぴたりと体の動きを止めた。そして何かに気づいたのか、ズボンの後ろポケットを探り、そして手にしていたのは私の携
帯。
しかもあるまじきことに、NO躊躇で人にかかってきた電話をとりやがったのだ。
「2Cの携帯だ――お前は誰だだと? お前こそ名を名乗れ! 娘とどういう関係? ……娘って誰のことだ? ――あぁ、おまえが2Cの父親か。うん?
2Cは昨日、俺と一緒だったが」
ん? と首をかしげると桂木は携帯から耳を離した。そしてつまらなさそうに舌打ちをする。
「――なんだ切れたぞ。無礼者め」
「無礼者はアンタだーーー!!!」
脱いだチャイナ靴を放り投げると、桂木はこちらに振り返りながらそれを避けた。そして私の姿を確認すると、嬉しそうに顔を輝かせたから、私は本能的に距
離をとった。それが不満だったのか桂木は頬を膨らませる。
「なんだ2C、遊んで欲しかったんだろう?」
「――全然違うっ! ってか人の携帯勝手に出ないで下さいよ!!」
「あぁ、俺が寝てるときから何回もかかってきてたぞ。返す」
まったく悪びれず桂木は、私に携帯を差し出した。その手から素早くもぎ取った携帯電話には家からの着信履歴が続けざまに十八回。留守番電話メッセージも
たんまりと入っている。この瞬間、私は穴を掘って埋まりたい衝動と戦った。そして辛くも勝利した罪悪感が、おそるおそると通話ボタンを押させる。ツーコー
ルですぐに繋がった。
「あっ、お父さん? あの、私なんだけど」
『…………』
「えっとぉ、お父さん?」
『……失礼ですが、『私』なんて名前の知り合いは居ません』
そうして一方的にぶちきられたコール音を聞きながら、私は携帯を片手に途方に暮れた。
――とてつもなくご立腹の様子。しかも最悪なことに、桂木とのことを完璧に誤解しているようだ。どうにかしなければ、これからお説教と針のムシロな毎日
が確定してしまう。
萎えそうになる勇気を振り絞ってもう一度コールしようとすれば、急に携帯が震え始めた。家からの電話。躊躇いながらも通話ボタンを押し、耳をくっつける
と、聞き覚えのある声が耳朶を打つ。
『こら不良娘。お前、男と無断外泊したんだって?』
父よりも低いが柔らかい声。私は安堵から頬の筋肉を緩めた。
「……お兄ちゃん、帰ってたの?」
『ああ、今日ね』
電話をかけてきたのは、家を出ているはずの兄だった。少し咎めるような色を含み兄は続ける。
『お前が昨晩から帰ってないって父さんと母さん、大変だったんだぞ。もうちょっとで警察に連絡行くところだったんだからな。そして死ぬほど心配してかけた
電話に出たのが男だったと――いくら文化祭だからって男と無断外泊は不味いだろう妹よ。と、いうわけで今日は俺が迎えに行くから。その後は家に連行な』
「ちょっと、お兄ちゃん、実はそれとてつもなく大きな誤解なんですけど」
『情状酌量の有無は家で判断する。返事は?』
「……イエッサー。あのさ、お父さん怒って、た?」
恐る恐る聞けば、ふぅと心底呆れたようなため息が電話越しに聞こえてきた。
『父さんだけじゃなくて、母さんも俺だって怒ってるよ。今日はこってり絞られて海より深く反省しろ』
兄の洒落にならない台詞の余韻を残しながら私は携帯をたたむ。憂鬱を滲ませた息を吐き出せば、ふっと桂木と目が合った。桂木は唇の端に微笑をたたえなが
ら、なにか懐かしいものを見るような表情で私を見つめていた。それに戸惑いながらも首を傾げれば、桂木の表情はくしゃりと屈託の無いものへと変化する。
「……? えっと、なんですか」
「別になんでもない」
「ああ、はい……そうですか」
なんとなく続ける言葉が見つからず会話が終わってしまった。いつもは頼まれなくても喋っている人が黙っていると落ち着かない。
二人の間に横たわっていたその沈黙を破ったのは私だった。
「あの――会長は結城さんに昨日帰れなかったって電話されましたか?」
なんとなく話題に出しにくい話だったが、気になっていたことだ。遠慮がちに問い掛けた私を見下ろすと、桂木は馬鹿らしいとばかりに鼻で笑う。
「いいや? 別に結城も気にしてないだろう」
「駄目ですッ! 絶対に心配されてますよッ!」
「……お前なぁ、いちいち首を突っ込むなよ」
うんざりと呆れた目で桂木に見返されて、私はぐっと言葉に詰まる。
「たっ、確かに会長のプライベートにずかずかと土足で踏み込んでるかもしれませんけど……だけど!」
「あーあー、わかったわかった」
桂木はひらひらと掌を振り、私を宥めるように気の抜けた返事をした。そして手を私の頭に上に置き、くしゃくしゃと髪をかきまぜる。嫌がる私の訴えはあっ
さりとスルーしながらも、少しだけ腰を落として私と目線を合わせた。
「それにしてもお前ってやつは、なんでそこまで馬鹿みたいに人のことに一生懸命になれるんだ?」
無駄に疲れないか? と桂木はぽつりと零した。
それには気遣うような色が混じっていたような気がして私は驚いた。傍若無人の代名詞だった桂木が人のことを心配するだなんて、天変地異の前触れかなん
か? と失礼なことを思いながらも私は桂木の緑色の瞳を見返した。
「別に私はただ単に……少しでも好きな人たちが笑ってくれてたらなって思うんです。それってなんだか嬉しいじゃないですか」
まぁ、結局はただの自己満足なんですけどね、と笑えば「まったくその通りだな」と桂木にあっさりと頷かれた……そんなにあっさりと同意されても逆に落ち
込むんですけど。
――本当に、お前は馬鹿みたいに愚かだなぁ。
へこんでいた私に届いた消えるような声は、言葉の意味とは裏腹に柔らかく響いて、私の胸をどぎまぎさせた。こちらを見つめる陽だまりのような眼差しも暖
かで、昨日からそんな仕草や態度に調子を崩されまくってる気がしないでもない。なぁんだか私の第六感がピピピと桂木に反応して「君子危うきに近づかず」と
の判断を下している――とはいっても、危うきが自分から近づいて来たらどうしたらいんでしょうかね?
「おい2C」
その"危うき"が愉快そうな笑みを浮かべて、ずずいと顔を近づけてきたから、私は思わずのけぞった。そしてとんでもない爆弾発言を剛速球で投げつけてき
たのである。
「ところで、その"好きな人たち"ってのは俺も入っているのか?」
「ハァ?」
素っ頓狂な声で訊き返してみれば、桂木はじれったそうに頬を吊り上げた。
「だから、2Cは俺にも笑っていて欲しいんだろう? つまり俺のことが好きってことだ」
「なんなんですか、その強引な理論展開……」
じりじりと近づいてくる桂木に私はたじろぎっぱなしだった。段々と腕を広げる様はファイティングポーズをとったレスラーのようで、私は身の危険をひしひ
しと感じ始めていた。
言葉を濁しまくってる私に対して、桂木はついに最終奥義を繰り出してくる。
桂木はその美貌に憂いをたたえ、寂しさを滲ませた瞳でこちらを見つめると、今にも消えそうな切ない声で囁いた。
「――じゃあ嫌いか?」
――どうする、アイフル?
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