四十七話 / さよならのキス


 拓巳――そして彼女との出会いは、彼が小学生のときだったかな。
 柔らかな声色に懐かしさを滲ませて、ふっと結城さんは空を仰ぐ。
「あの頃の拓巳は見た目も性格も今のあの子をそのままミニチュアサイズに縮めた感じで……僕が母親と一緒になるって聞いたときはその小さな肩をいからせながら仁王立ちになってさ、まるで親の敵を見るような目つきで睨み付けられたっけ――で、ね。拓巳、その時、なんて言ったと思う?」
 くすくすと喉を震わせながら結城さんは笑う。彼の脳裏にはその頃の光景が鮮やかに映し出されているのだろう。悪戯っぽい瞳で私に問題を出す結城さんに、私は首を傾げることで返答した。結城さんは咳払いをすると、まるでその当時の桂木が乗り移ったかの如くぴしりと私を指差す。
「『お前のような軟弱者にムッティはやらないぞっ! このへらへらふにゃふにゃ男!』――だってさ。この世のものとは思えないほど可愛いと思わない?」
 結城さんの独特の可愛い基準には素直に頷けなかった私は曖昧に言葉を濁したが、彼の気を殺ぐには至らなかったらしい。絶え間なく襲ってくる笑いを断ち切るように結城さんは深呼吸をして、そして空気と共に暗闇を吸い込む。私は一瞬、それが結城さんの双眸に宿ったように錯覚し、吸い寄せられるように彼を見つめた。
「――多分、あの頃、拓巳の世界には彼女しか存在していなかったんだろうね。だから拓巳にとっての彼女は絶対的な存在で、文字通り"すべて"だった」
 桂木拓巳にとっての絶対的な存在。
 ふと、桂木のさっきの様子が脳裏を過ぎった。愛しそうに――そしてどこか寂しそうに遺品を扱う彼の心に根ざしているのは亡くした母親への届かぬ思慕だったのだろうか。
 硬い声で続けた結城さんの表情には隠しようのない後悔と罪悪感が滲んでいた。
「そんな彼女をを僕は拓巳から二度も奪ったんだ―― 一度目は結婚した時」
 その言葉の持つ意味を図りかねながらも、不穏さの潜む声色に私の心はひやりと冷えた。結城さんの瞳は昏さを増し、私はそれに引き摺られ飲み込まれる。いつの間にかからからに乾いていた喉は、意味を持たない言葉がつっかえって酷く息苦しい。まるで結城さんの声が意思を持ち、私の心臓を握りつぶそうとでもしているみたいだ。その沈黙に耐え切れなくなる寸前、結城さんは厳かな声で言葉を紡いだ。

「二度目は彼女が死んだ時――僕が彼女を殺してしまった時だ」





 お前じゃない女と寝たし、2Cにキスした。だから好きなだけ殴れ。
 開口一番、そう言った拓巳を前に、美登里は怒りと憤りを遙かに超越した脱力感に襲われた。地に付く勢いで肩を落とし、美登里は恨めしい視線を拓巳へと向ける。
「……桂木君らしすぎて涙も出てこないわ」
 拓巳は美登里の反応に軽く喉を震わせると、長い足を組みながら渡り廊下の柱へと体を預けた。そうして追いかけてくる視線を横目で受け止めて、それを意識するように唇の端をついっと吊り上げる。それは多少、皮肉げな印象を与えるものだった。
「俺はどこかおかしいんだろうな」
 長い指先で米神を軽く叩きながら拓巳はさらりと言う。それは酷く感情の篭らないあっさりとした独白だった。
「お前は俺を好きだと言った――。俺はその感情がどういうものかずっと分からなかったし、俺の行動がお前を傷つけることがまったく理解できなかった。それどころか心の奥では"それ"を馬鹿にさえしていたんだろう」
 挫かれていた怒りが再び美登里の瞳に宿る。険のある声で美登里は拓巳へと噛み付いた。
「……じゃあ、なんで私の告白に頷いたの。ただ単に馬鹿な女を嘲笑いたかっただけ? それともただの暇つぶし?」
 初めて聞く辛辣な言葉に拓巳は驚いたように目を見張ると、はっきりと愉快そうな笑みを滲ませる。美登里は腹立ち紛れに鼻を鳴らした。もう今更、猫なんて被ってられる状況ではないのだ。
 拓巳はもたれかけていた体をおこすと、美登里のほうへと一歩近づく。反射的に引いてしまいそうになる体を美登里は精神力だけでその場にとどまらせた。
「そうだ――と思ってた。ついさっきまでは」
 組んでいた腕を解くと、拓巳は真っ直ぐに美登里を見返す。そして次に続く言葉は彼には珍しく僅かな逡巡を経てから発せられた。
「俺は羨んでいた」
 不可解そうに眉を顰める美登里に拓巳は、薄っすらと笑みを浮かべた。そして、胸に当てられた桂木の骨ばった手が己の心臓を掴むかの如く握り締められる。

「俺の知らない感情を知っているお前たちを――そして、それを知りさえすればこの空虚を満たすことができると思ったんだろうな」





 それは、どういう意味ですか。
 飲み込んだ唾液が砂漠のように枯渇した喉をわずかに湿らせる。
 結城さんがの言葉は、ようやく脳に到達はしたものの、私の口は中途半端に開いたままで掠れたような言葉が零れただけだった。そうしてそれはまるで独り言のようにゆるりと宙を彷徨う。呆然と木偶の坊のように固まったままの私に、結城さんは思わず漏らしてしまったことを恥じるように、ふっと目を伏せ、短い言葉で謝罪した。
「喫茶店を経営する前、僕は敵を作りやすい職業についていた。まるで映画のような話だけど、そんな僕を彼女は庇って亡くなった――僕が殺したようなものだ。恐らく拓巳はそう思っているだろうね」
 咄嗟に否定しようと口を開いたが、そんな私を結城さんは静かな声で制して何も言えなくしてしまう。
「絶対に守るという約束を破ったのは僕だから、一生償っても償いきれない罪であることには間違いはないよ。それに拓巳に注ぐ愛情は、彼女と拓巳への罪悪感からくるものだとあの子に指摘されても、僕は即座に否定できなかった」
「結城さんは、桂木先輩のこと、奥さんのことだってちゃんと愛してるじゃないですか! 結城さんは……結城、さんは、絶対に悪くなんてないんです!」
 結城さんの疲れたような諦めたような瞳が悲しくて切なくて、私は根拠のない言葉を馬鹿みたいに叫ぶことしかできなかった。その場凌ぎの慰めの言葉が頭の中に次々と浮かんでは消滅してゆく。もどかしくて、自分が情けなくて胸が張り裂けそうだった。なぜ気の利いた言葉ひとつも出てこないのだ。好きな人が傷つき、苦しんでいるのにそれを元気付けてあげることさえできないなんて――私はなんて無力なんだろう。
 気づいたときには頬は濡れていて、それにさらに惨めな気分になる。
 私が泣いてどうする。これ以上、結城さんを困らせるなんてまっぴらごめんだ。
 顔を伏せぎゅっと唇を噛み締めて嗚咽を堪えるも、聡い結城さんが気づかない筈がなかった。
 次の瞬間、私は全身をふわりと暖かいものに包まれる。驚きのあまり、一瞬、涙も声も息さえも止まりかけた。しかし、それは少しでも力を入れれば解けてしまいそうな、酷く優しい抱擁だった。
「――有難う。君はいつも温かい言葉をくれる」
 結城さんの低く、あまやかな声が私の耳朶を打つ。私は弾かれるように顔を上げ、首を横に振った。
「そ、そんな。私は、いつも結城さんにもらってばかりで、結城、さんに何ひとつかえすことができません」
「君はそのままでいいんだよ。そのままの君に、言葉に、きっと誰かが救われるから」
 僕だってその一人だ、と囁いた声。そのあまりの柔らかさに私の目には再び涙が滲んだ。私がどれほど結城さんに救われてきたのか、幸せをもらったのか――泣きたくなるほど大好きかなんてこの人は少しもわかっちゃいない。この気持ちが少しでも伝わればいいと、私はなけなしの勇気をふりしぼって結城さんの背中へと手を回す。結城さんは僅かの間、沈黙していたが真剣な声で私の名前を呼ぶ。
「君に言わなきゃいけないことがあるんだ」
 そうやって改められると、何を言われるのかと私は急に緊張してしまった。はっと身構えた私の様子が伝わったのか結城さんは苦笑する。くっつけた胸からは鼓動と一緒にさざめくような振動が伝わってきた。
「拓巳は君を含め周りの人を沢山傷つけたんだと思う――それなのに拓巳に真正面から接してくれて本当にありがとう」
 かっちりと合わせた瞳からは純粋な感謝の気持ちが伝わってきて、私は盛大に照れてしまった。
 結城さんは格好よくて、可愛くて、大人で、優しくて、温かくて、笑顔が素敵な私の大好きな人だ。その想いが胸の中をいっぱいに満たして、溢れ出してくる感情に今にもぱちんと破裂してしまいそうだ。ここで言わなかったら言葉が喉に詰まって死んでしまうかもしれない。恋による窒息死か心臓破裂なんて笑えない。
 ――告白してしまおうか。私の気持ちを伝えてしまおうか。
 そんな言葉が頭を掠めた。加速する心臓の音が聞えてしまったらどうしよう、と心配してしていると、結城さんはゆったりとした動作で腕の戒めを解く。離れていく温度が寂しくて、私は少し助かったような残念そうな顔をしていたのだろう。そんな私の感情は筒抜けだったのか結城さんは微笑む。それは少しだけ寂しさを感じさせる淡い笑みだった。
「拓巳は君のおかげで少しだけ変わった。本人も気づいてるかもしれないけど、今、拓巳にとって君の存在は凄く大きいんだと思う――彼は誰よりも強いようでいて、誰よりも不器用で寂しい子だから」
 結城さんはそこで言葉を切る。不自然なほどに自然な笑顔を浮かべていると私が思ったのは、次の台詞を聞いてしまったからなのかもしれない。
「もしできるなら、これからも彼の傍に居てやってくれるかい?」
 ズキンと心臓が鈍い音で軋んだ。
 私が好きなのは結城さんなのに、彼は笑顔で桂木の傍に居ろという。それが唯の知人としてという意味であったとしても、お前は対象外だとはっきり宣言されてしまったようで、私は衝撃を受けていた。何を期待していたんだろう。はじめからわかっていたことなのに。
 鼓動を刻んでいた心臓は失速し血の気を失った指先が冷たくなる。強張る表情を隠そうと下を向いた私の目には、ぎゅっと握り締められた自分の拳が目に入った。結城さんはそんな私に気づいていないのかさらに残酷な言葉を吐く。
「僕も君のこと、娘みたいに思っているから」
 いつもなら喜んだであろう台詞も今は私の心臓をこっぴどく痛めつけただけだった。それ以上は聞きたくない。張り裂けそうな胸が痛くて、悲しくて限界だった。
「私は結城さんの娘なんかじゃないです」
「え?」
「桂木会長の傍にも私、居たくないです」
 低い声で紡がれた言葉に、結城さんは戸惑いながらも私の名前を呼ぶ。その癇癪を起こした子供をあやすような声色が気に食わなくて、私は泣きながら叫んだ。

「私が傍に居たいのはあなたです! 私は、結城さんの事が好きなんです!」





 私が桂木君を好きになったのいつだったと思う?
 そう唐突に問いかけた美登里に拓巳はぐるりと瞳を回転させる。はじめから期待してなかったのか美登里は答えを待つことなく続けた。
「実はね。私、桂木君のこと大嫌いだった。『ちょっとばかしっていうか、かなり飛びぬけて顔がいいからって調子こいてんなよゲルマン野郎』って思ってたわ。私、自分より美形で優秀な人間に対して闘争心を燃やす性質だから」
 自分が貶されているのに腹を抱えて笑いだした拓巳を横目に美登里は深いため息をつく。嗚呼、なんでこんな人好きになっちゃったんだろう、という自分自身への呆れがそれには沈殿しているようだった。笑いすぎたあまり呼吸困難になっている拓巳を美登里は無視することに決めた。
「だけど私、偶然に桂木君とあの女の人を街中で見かけた時があったの。腕を絡めて親密な様子で顔を寄せてて、嫌なとこ見てしまったって思った――でもその時、一瞬だけ桂木君、凄く冷たい目をしてたから」
 その鮮烈な眼差しに私は一撃で殺されてしまったの。
 夢を見ているような表情で美登里は歌うように言った。
「桂木君が私を好きでないことも知っていたし、それが体だけの関係だとしても、ただの暇つぶしでも良かった。ただ、私はあなたに凍りつくような視線を向けられたかっただけかもしれない。だけどその強さも脆さも冷たさも独り占めできたらって――そう思ったのよ」
 拓巳はしばらく沈黙していたが、そうか、と感慨も感情さえも感じさせない声で相槌を打った。美登里は拓巳に向き直ると、薄っすらとした笑みを浮かべる。
「まぁ、私には捕まえておけない相手だったって事は解ったし、潔く認めます。完敗です」
 ふざけたようにくるりとお辞儀をすると美登里は拗ねたような声を出した。
 ――だけど桂木君、変わったわ。
 美登里の台詞に拓巳は眉を跳ね上げることで聞き咎める。気づいていないの? という美登里の思わせぶりな表情に拓巳は落ち着かないような苛立つような気分になった。
「少しだけ雰囲気が優しくなってる。私と一緒のときはそんなこと一度もなかったのに」
「それは……お前がしゃちこばって喋らないし詰まらなかったからだ」
 ぶっきらぼうに返事をした拓巳に美登里はすっと目を細める。
「喋る隙を与えなかったの桂木君でしょうが! 挙句は自分の好きな話題の時にしか喋らなかったくせに……っていいのよこんな話は」
 ゴホン、と咳払いをすると美登里は直立不動で拓巳を睨み付けた。
「――私が好きだったのはナイフのように尖ってる冷たい視線を持つ桂木君よ」
 拓巳は美登里の真意が見えず、首を傾げることで先を促す。
「暗い影がないヒーローなんて何の魅力もないわ。よって今の腑抜けた桂木君には用なし! お払い箱なの! バイバイ! 野垂れ死にしない程度に達者に暮らしてね!」
 ノンブレスで言い切った美登里は拓巳に背を向け歩き出す。拓巳は珍しく呆気に取られた表情をしていたが、ふっと唇の端に柔らかな笑みをのぼらせる。そのまま遠ざかってゆく背中をぼんやりと見送っていたが何を思ったのか拓巳は大声で美登里を呼び止めた。
 美登里はぎしぎしと不自然なほどに体を軋ませてそれでも立ち止まり拓巳を振り向いた。その表情は迷惑そうに歪められている。拓巳は再び笑い出しそうになってしまったが、寸でのところでそれを飲み込むことに成功した。
「――朝倉、俺は2Cのことがどうやら好きになったらしいぞ」
 爽やかにそう宣言した桂木に、美登里は、知るか! という叫びが聞えてくるような、殺意さえも滲ませた憤怒の表情をしていた。拓巳が性懲りも無く爆笑していると、怒りに震える拳を握り締めながら美登里がこちらにやってくるのが見える。
 ん? と首を傾げて拓巳がそれを眺めていれば、大地を割る勢いで接近してきた美登里がぐい、と拓巳のシャツの襟を鷲掴んだ。いったいどうするつもりなのかと、わくわくしながらされるがままになっている拓巳の耳に美登里のぶつぶつ呟いている呪詛のようなものが届く。
「あーもー我慢ならないわ。デリカシー無さすぎよ。アホ過ぎて泣けてくる。っていうかこんな空気読め男好きだった自分が! あー悔しい――ってことで桂木君、思う存分気が済むまでぼこぼこにさせてね」
 胸倉掴みながら凄みながら微笑む美登里に、拓巳は了承を伝える麗しい笑顔で答えた。美しい顔ながらにど迫力のメンチを切ってぐい、と拓巳の顔を力強く引き寄せる。美登里は愛の言葉を吐き捨てた。

「歯ぁ食い縛りやがれ、このゲルマン野郎」





 ありがとう。君の気持ちは嬉しい。
 結城さんは困ったような表情でそう言った。その優しいながらも頑なな態度に私は息が止まりそうになる。
「僕も君のことは好きだけれど、それは君とは違った種類の"好き"だ――そして僕は今でも妻を愛している。だから君の気持ちには永遠に答えられることは出来無い」
 何度も想像した通りの返答だった。だけどいくら予想していたとしてもその答えは私の胸に突き刺さり深い絶望を運んでくる。ぼたぼたと堰が決壊した涙腺からは止まることの無い涙が溢れ、私の両手を濡らした。結城さんが困っていることは解っている、でも諦め切れなかった。どうしてもどうしても捨て切れなかったのだ。
「……私はあなたを好きでいたいだけなんです」
「僕は君に好きでいてもらえるほど立派な人間じゃないよ」
 そう言って結城さんは自分を嘲るように笑う。
「それに、君は恋愛感情と憧れを混同しているだけだ。大人の男に少し親切にされて、恋をしていると思い込んでいるだけなんだよ」
 酷く、悲しくなった。
 その恋は幻想だと、好きになった人に言われるなんてあんまりだ。崩れ落ちるように泣き出せばいいのか、狂ったように笑えばよかったのか、それとも火がついたみたいに怒ればよかったのか、激しすぎる感情の波に飲み込まれ私は溺れた様に息が出来ない。それをぶつけるように私は結城さんの胸を拳で叩いた。
「勝手に決め付けないでください! 私はちゃんと結城さんのことが好きなのに! なんでそれを嘘だって言うんですか! 人の恋を否定する権利なんて、誰にもないんですからっ!」
 長い間、無言でいた結城さんがふっと笑う。絡めとられた腕がみし、と鳴ったような気がした。そして、強くきつく抱きしめられた腕は逞しい大人のもので、視界は反転し夜空を背景に、皮肉な色を宿らせた結城さんの顔が目の前に写った。結城さんの匂いが香る。
 押し倒されている――そう意識すれば、密着する体とゆるやかに這う掌を強烈に意識する。私は初めて結城さんを怖いと思った。
「僕は男だから、君の事、好きじゃなくても抱くことはできる――それでも僕を好きだって言えるの?」
 首筋に埋められた唇がゆるやかに耳たぶを食む。ぞくぞくと背筋を走る悪寒から逃げようと私は体を捩った。それにくすくすと喉を鳴らしながら、結城さんは残酷そうな笑みを浮かべる。
 逃げても無駄だよと呟いて、結城さんは私の唇に己のそれを重ねようとする――ところで強烈な頭突きを私にかまされ結城さんは額を押さえて悶絶する。稲妻が目の前にビカビカと走るほどの痛みだったのはやった私も同じことだ。じんじんする額をそのままに私は鼻を鳴らした。
「……悪い男のフリしても無駄なんですから」
 結城さんに押さえ込まれたまま、私は涙を滲ませながらも、精一杯ふてぶてしく笑う。困惑したように聞き返した結城さんの顔から悪い男成分は抜けきっていた。その呆気にとられた結城さんの顔を私は精一杯をにらみつける。
「やりたけりゃあやればいいじゃないんですか。別に死ぬわけでもないし、結城さんにいたして頂けるなら本望です私。むしろ光栄すぎて涙出てくるくらいです」
 この滝のようなものは断然、嬉し涙です、と投げやりに言った私に結城さんは明らかにドン引きしている。
「だけど何をされようが私、絶対に結城さんのこと嫌いになりませんから――しつこさに定評のあるなめくじ女の恋心、あんまり舐めないでくださいよね」
 いまいち格好よさに欠ける捨て台詞を吐けば、結城さんはばっと口元を押さえて天を仰いだ。そして小刻みに震え始める肩に私は彼が笑っていることを知る――えぇ、なんか激しくデジャヴ感じちゃうんですけど。
 ずっと笑い続けている結城さんの名前を呼んでみたものの、愉悦の波が引くことはない。
 親子そろってこの反応ってどうよ。もしかして二人とも笑い上戸? 
 放置プレイかまされている私はそう首を傾げていたが、急に覆いかぶさってきた結城さんに度肝を抜かれ凍りついた。
 まさか本気で『やろうZE☆』とか言い出したらどどどどどどど、どうしよう! さっきの言葉に嘘は無いけれど、こっちにも腹をくくる準備ってものが……必要じゃけぇ! えらいこっちゃでぇ!
 ぐるぐると脳内パニック状態でいれば、私の体の上でもまだ笑っていた結城さんが動く気配がした。強張った表情で見つめる私に結城さんは視線を合わせてくる。そしてぶはっと耐え切れずに噴出した……ちょっと唾かかったんですけど結城さん。
 恨めしそうに睨んでいたら結城さんは少しだけすまなさそうな表情をして私の耳元に唇を寄せる。条件反射で固まったが、それ以上は近づいてこない熱に体の力は抜けた。
 その唇がひっそりと開かれれば、温かい声が私の鼓膜を、そして心を震わせる。
 ごめん。ごめん。君の気持ちを馬鹿にしてごめん。好きでいてくれてありがとう。ごめん。ありがとう――答えてあげられなくてごめん。
 その声がまるで泣いているように聞こえて、私は感情が赴くまま結城さんの頭を思いきり抱きしめた。その抱擁を結城さんはじっと受けていたが、漸く腕が解けるとおそるそるといった表情で私を見つめる。
 絶対に許さない、って私が言うとでも思ったのだろうかこの人は。それがどうしようもなくおかしく思えて、私は笑ってしまった。私は一世一代の勇気を奮って、結城さんの頬に手を当て引き寄せる。

「これで許してあげます――だって私、結城さんのことが大好きですから」





 彼女は彼とキスをする。
 それはもてあます感情のすべてを込めたかのようなもので。
 愛しさと、切なさと――残念ながら心強さは欠乏してたかもしれないけれど。
 それは自分の恋とお別れをする、さよならのキスだった。




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