四十八話 / かくして幕は開けられる


 あれ、と見覚えのある姿を目の端に捕らえた気がして私は振り返る。
 その方向をじぃっと凝視したが、影は角を曲がりすぐに見えなくなってしまった。
 渋い色の着物を身に纏い、颯爽と風を切って歩いていたのは風変わりな私の友人だったような気がしたけれど。そんなことを思いながら突っ立っていると、隣から訝しげな声がかかる。
「ねぇ、ちょっとなにぼーっとしてるのよ。タイムイズマネーっていう宇宙の摂理を知らないとは言わせないわよ! ほらほらちゃっちゃか歩く!」
 人の腕を掴んでぐいぐいと力任せに引っ張る伊藤紀子に導かれるまま、私は本来の目的だったホテル内のレストランへと足を向けた。



 私は文化祭の夜、失恋した――らしい。
 ――結城さんのこと、ずっとずっと好きですから。
 最後にそう言った私に結城さんは寂しそうに笑った。
 それでも、彼は否定も肯定もせずただ頷いてくれたから、私は本当は悲しいはずなのに、同時に泣けてくるほど幸せだったのだ。
 客観的に見れば私は失恋というものをしたのだろう。だけれど私は結城さんに対する恋を失ったとは思えなかった。それはたぶん、心のどこかにすっと吸収されて、時々、思い出せば疼くだろうけど、これから私が誰を好きになったとしても、それは忘れられない"なにか"になったのだと思う――まぁ、しばらくは思う存分、ずっるずるに引きずる所存ですがね。
 結城さんに背をむけ、最初の曲がり角をまがった瞬間、私はあえなく滂沱の涙を流し、道行く通行人をどっぴかせるという失態を犯したが、それが功を奏し、家で待ち構えていた怒れる保護者たちをひるませることができた。そして自省のあまり号泣したという彼らの都合のいい勘違いは、無断外泊という大罪に情状酌量の余地を与えたというわけだ。
 ――で、今現在の私はというと、紀子に誘われて美味しいと評判の三ツ星ホテルのケーキバイキングに来ていた。
 高校生には少し贅沢なお値段だったが、なんと驚いたことに今日は紀子の驕りという大珍事。槍どころか、恐怖の大王が集団で和気藹々と修学旅行にきてもおかしくない。どういう風の吹き回しかと最初は訝しく紀子の真意を探っていたが「美味しいものでも食べないかと思って」と照れくさそうに言葉を濁していた紀子は傷心の私を心配してくれたのだろう。そんな親友の心遣いに私はいたく感動し、疑った自分自身の不誠実さを恥じた。



 はぐはぐ、とピタゴラスのケーキを咀嚼しながら、私はさっきから余所見をしている紀子を訝しげに見やる。それでも流石はドケチ、紀子のケーキを口に運ぶ手だけは疎かになってはいなかった。
「紀子? なにか気になるものでもあるの?」
「ん? いや。ただ単に綺麗なホテルだと思って、さ」
 紀子に建物の美しさを愛でる趣味があったっけ、と首を傾げるが、同じように視線をやってみればなるほど紀子が言うとおり美麗で、普段、こんな時でなければ足を踏み入れないような場所であることは確かだ。白を基調とした広いロビーでは優雅な雰囲気を身にまとった人々が悠々とした足取りで歩いている。ホテルの中に水が流れており、小さな噴水が涼しげな印象を演出していた。
 無駄にお金かかってそうだし、ここにいるみんな絶対にお金持ちなんだろうなぁ、とぼんやりと通行人をみながら紅茶を口に含む。あの人なんて若いのに、仕立てのよさそうなスーツ着てるし、背筋がぴんと伸びていてまさに凛々しいという言葉がぴったりだ――まぁ、ちょっとばかし、っていうか壊滅的に人相が悪いけど……って。
 とんでもないものを目にしてしまった私はマーライオン並みに景気よく紅茶を噴出した。テーブルの上のピタゴラスはちょっとした惨状になったが、ちゃっかりと自分の取り分けたケーキを避難させていた紀子は私の視線の先をたどり顔を輝かせる。
「ふふふ、ようやくホシが現れわれたわね」
「ホシ?」
「そうよ。さぁ! 疑惑のホシ――峰藤浩輝と接触を図るのよ!」
 そう、その人物は私の天敵、峰藤浩輝だったのである。
 見るものすべてに恐怖を与えずにはいられないような凶相といい、彼が不機嫌だということは火を見るよりも明らか。接触を図るどころか視界にも入れただけでも呪われそうだ。嫌な予感はさっきからぎゅんぎゅんしているし、誠に遺憾ながらこの種類の勘だけは最近外れる事がない。
「ちょちょちょ、ごめん。話が見えないんだけど」
 混乱しながらも紀子に説明を求めれば、短気な紀子はいらいらと歯を噛み合わせた。
「だーかーら、解らない? 今日、ここで峰藤浩輝が誰かと会うっていう情報を手に入れてたわけ! いっつもガード固くてミステリアスな副会長よ? このチャンスを利用しない手はないって話でしょ!」
「あの、ひとつだけいい? 今日、ここに来たのは私を慰めるためだって聞いてたんだけど」
 じとりと恨めしげな声をあげれば、紀子は取り繕うような笑顔を貼り付ける。
「峰藤浩輝の秘密を入手できる、ついでに傷心の親友も慰められる―― ねぇ、一石二鳥って素晴らしい言葉だと思わない?」
 ついでなのは私っスか。私の心の声は紀子には皆目届く気がしない。
「敵を騙すには味方から。うまい話には裏がある。無料より高いものはないっていう格言を実感できたでしょ! 世間はあんたが思っている以上に世知辛いのよ! さぁ、ひとつ賢くなった私のボンドガール! さっさといってらっしゃい!」
 世知辛いのは世間じゃなくて紀子じゃね?
 急き立てる紀子を半眼でにらみつけて、私はへっと頬を吊り上げた。
「……私は行かないから。絶対に嫌です。いってたまるもんですか。行きたいなら自分で行けば」
 私はそう一刀両断して、やさぐれぎみで再び紅茶を煽った。
 フォーマルな格好をしている峰藤が会う相手にミジンコほどにも興味がなかったわけではないが、紀子の口車にのせられるのは非常に癪だったし、峰藤のプライバシーを侵害した結果こうむる被害を予想できないぐらい愚かではない。ことさらに不機嫌なときの峰藤に話しかけるなんてそれってどんな自殺志願者ってことだ。
 私の態度は予測できていたのか、やれやれと聞き分けのない子供に対する母親のように紀子は肩をすくめた。そしてにやりと人の悪い笑顔を浮かべる。
「――カメラ」
 堂に入った悪役顔で一言ボソリと呟かれた単語に、私の肩はびくりと震えた。その反応に気を良くしたのか、紀子は手の中でフォークをもてあそびながら唇の端を歪める。
「文化祭の時、部のカメラを修繕できないほどに完璧に壊したのはどこのどなたさんでしたかねぇ。しかも中に入ってたフィルムも水浸し。まったくもってひとつもネタになりゃしなかったわ」
「あ、あああ、あれは確かにきっかけは私だったかもしれないけど、修復不可能になるほどカメラを踏んづけたのは峰藤副会長……」
「だまらっしゃい! そんな人の所為にするような子に育てた覚えはないわよ!」
 奇遇なことに、私も紀子に育てられた覚えはない。
 なかなか落ちない私を前に作戦を変えたのか、今度は愛想笑いを貼り付けた紀子が気持ちが悪いほどの猫なで声を出した。
「まぁ、私も鬼じゃないから、親友が不幸な事故でカメラを壊してしまったことを水に流すのもやぶさかではないわ……だけど、文化祭の朝帰りの件を記事にせず黙っているのも、親友を思っての行動だってこと理解してくれてるわよ、ねっ!」

 ――語尾に小憎らしいハートをつけながらのたまった人でなしが、頭といわずそこらじゅうを豆腐の角にでもぶつければいいと思いました。



 一身に紀子の期待を背負いながら、私はホテルのロビーへと足を向けた。しかし、峰藤の姿は当に見えなくなっている。そのことに安堵しながらも私は紀子を振り返り肩を竦めて見せれば、視界に入るのは、腕を振り回して目を血走らせる紀子……探してこいって意味だろうな絶対。
 胃の中からため息を搾り出し、私は重たい足取りで踏み出した。五十メートル後には尾行状態の紀子がくっついてきている。見つかりませんように、と何度も祈ったけれど、それが神様に届いたためしなんてありゃしない。
 そうこうしているうちに峰藤浩輝を発見してしまった私は、運の悪さを改善するためにいっそのこと幸運の壺でも購入してみようかと真剣に検討しかけた。
 峰藤はホテル内を流れる流水が注ぎ込む幾何学模様のプールの傍に悠然と佇んでいた。ダークグレーのストライプスーツは見るからに生地が高価そうだったけれど、峰藤の持つ重厚な雰囲気は決してそれに負けていない。普段は下ろしている髪をオールバックにあげている峰藤はまるで知らない人間のようで、背中にびしばしと紀子の視線を感じつつも、私は一向に動けなかった。硬質で冷たい氷のような表情は、周りのすべてのものを拒絶しているようにも見える。それをじっと注視していたからだろうか、峰藤は戦闘民族並みの勘のよさで顔をあげ、こちらを向く――視線と視線がどうもこんにちはしてしまってますんですけどどうしたらよいのでしょうか。

 熊とあったときは目を逸らさずに自然にフェードアウトしていくのが効果的だと聞いたことがあったけれど、そんな無駄知識が浮かんできてしまうほど私にとって峰藤は迫りくる恐怖そのものだった。
 最初に峰藤の瞳に移ったのは驚きとか狼狽だとかその類の感情だったが、最終的に彼はそれを効率よく怒りに変換したようだ。
 その荒ぶるエネルギーをむしろ地球平和とかのために役立てたほうがいいんじゃね? よっ! 憎いね! 東西一の地球に優しいメガネ! ただし人には厳しいメガネ! ――私の切羽詰りぶりは押して知るべしってください。
 つっかつかと高級感溢れる靴を高らかに鳴らしながら近づいてきた峰藤は、私の恐れおののく様とあまりにも酷い挙動不審ぶりに怒りを挫かれたようだった。呆れを滲ませた溜息を尽き、ガラス越しの不機嫌そうな目が私をねめつける。
「それで――貴方はここで何をしているんですか?」
 なけなしの反骨精神が『息してます』とでも答えよと私を唆したが、その誘惑を撥ね退けることに辛くも成功し、私は萎縮した胸いっぱいに息を吸う。
「ぐっ、偶然ですね。副会長! 私、本日はそこのレストランにケーキバイキングに来てまして! 綺麗なホテルだったんでちょっとそこらへんを見て回ろうかなぁ、と思ったところに、偶然、峰藤副会長を見つけたんですよ。いやぁ、偶然って怖いですね!」
 峰藤はそうですね、とさらりと肯定し、とりあえず誤魔化せたらしいと私は胸を撫で下ろした。そして峰藤はひやりと冷えた声で言う。

「尾行付でホテルを見て回るなんて、貴方がそんな素晴らしい趣味をお持ちだとは知りませんでした」


 ばれてーら! ばしるーら! にふらむにふらむ!
 心の中で必死に呪文を唱えてみたが、いくらアンデッド系の陰気臭さを兼ね備えていようとも、魔王級に不吉な峰藤を光の彼方に消し去ってくれるわけはなかった。
 冴え冴えとした態度で峰藤は私を凍りつかせたが、それ以上は追い討ちをかけることはせず、腕を組みながらもちらりと後方へ視線を投げる。ささっ、と物陰に身を潜ませる紀子に峰藤ははっきりと疲れたような顔をした。
「どうせあなたの事ですから、口車に乗せられるかしたんでしょうけど、人選ミスにも程がありますね」
「……それについては反論しませんけど」
 峰藤の周りを嗅ぎまわってプライバシーを侵害したのは事実だ。素直に頭を下げた私に峰藤は少し驚いたようだった。一瞬の沈黙の後、少し決まり悪そうに咳払いをすると峰藤は口を開く。
「――手の傷は」
 一瞬、何を言われているのか解らなかったが、端的な言葉とその目線をたどることで、私は峰藤が文化祭のときの怪我のことを聞いていることに気づいた。まさか心配してくれるとは思っても見なかった……とかいうとまた怒るんだろうかこの人。自分の目の前で怪我をしたからこそ気にしてくれているのだろうが、こんなに律儀で世話焼きなところが傍若無人大魔神桂木と付き合っていける秘密なんだろうなぁ、たぶん。
 そんな事を思いながらも、怪我をしていた掌を差し出せば、峰藤もそれを確認するようにさっと視線を滑らせる。
「お蔭様でぜんぜん痛くも痒くもないです。その節は、あの、ありがとうございました」
「それは重畳ですね」
 するっと出てきたお礼の言葉に峰藤はふっと頬を緩ませる。皮肉っぽさを含まないその自然な微笑みからは、身に纏っていた服と相まってどこか艶っぽい色気さえも感じられた。態度も大幅にいつもの刺々しさを欠いているし、まるで峰藤の皮を被った別人と話をしているみたいである。なんか調子狂うんですけど。妙に落ち着かない気分にさせられながらも、私は峰藤に問いかけた。
「あの、副会長は用事あるんじゃないですか?」
 明らかに一張羅着てるし、私なんかと話してていいんだろうか、という意味もこめると、峰藤の纏う雰囲気がぴしりと音が聞こえるかと思うほど張り詰めた。不機嫌さの混じった空気が肌の下の神経をざくざくと突き刺す。
「それを聞き出してどうするつもりですか」
 挑発的に片頬を吊り上げる峰藤を私は恐れおののきながら見返した。何が、そしてどこが峰藤の逆鱗に触れたのか、私にはさっぱり解らない。理不尽さを感じながらも、私は猛獣を刺激しないようにおそるおそると言葉を選んだ。
「べ、べつに聞き出そうとしているわけじゃなかったんですけど」
「そうですか。どちらにしろ私が貴方の質問に答えなければならないという義務はありません。諦めて貴方の"お友達"の元へ戻ったら如何ですか」
 さっさとうせろ、と言外にいわれた気がして、私も流石にむっとした。何か言い返そうと私は拳を握り締め口を開いたが、肝心の打ち負かすべき敵、峰藤浩輝は私などまるで存在しないかの如く視線を遙か遠くへと飛ばしている。
「副会長! 確かに詮索したことは謝りますけど――それにしたって酷い態度じゃ……」
「浩輝様!」

 こうき、さまぁ?
 どなたか今、峰藤のことを『峰藤浩輝! 貴様!』的な意味以外で、様付けで呼ばれました?
 反射的に見上げた峰藤の表情は苦渋に満ちていた。そして忘れ去っていた私という存在を漸く思い出したらしい彼の視線はとたんに激しい殺気を帯びる。
 アイルキルユー。
 私は峰藤の瞳にそうはっきりくっきりと刻まれていたのを確認してしまった。出来れば脱兎の如く逃げ出したかったが、ぴくりとも動けば心臓食いちぎられそうな緊張感の中、どうやったら逃れることが出来ようか。SOSを送るべく視界の端で確認した紀子の姿はいつのまにかなくなっていた――あんの業突く張りの薄情者!
 恐怖のあまり足が生まれたての小鹿のようにぷるぷると震えている。しかし、峰藤が近づいてくる人物に気をとられているうちに私は少しずつ距離をとることにした。峰藤の動向を逐一気にしながらも、一歩、二歩、三歩後ずさったところで、私はお約束のように置いてあった観葉植物に足をとられて後ろ向きにけっ躓く。溺れるものは藁をも掴む。迫りくる痛みに反射的に目を瞑り、その最後の瞬間伸ばされた誰かの手に我武者羅に縋り付いたが、その救いもろとも私はプールに突っ込んでしまったのだ。
 ばっしゃん、と激しい音を立てながら水しぶきが上がり、目からも鼻からも水が侵入してきた。げっほごっほと涙を流しながら私は咳き込んでいたが、ふと霞んだ視界の向こう側に誰かがいる。ひょっとしなくても私が巻き込んでしまったどなたかさんだろう。
 目を擦りながらも、すみません、大丈夫ですか、と声を掛けようとして、一瞬のうちに私の魂は肉体を離れ六道輪廻を駆け巡った。
 目の前にはこの瞬間、世界で一番居て欲しくない人が――峰藤浩輝が存在してしまったのである。
 高そうな服も靴もしっとりと濡れ、綺麗に固められていた筈のオールバックも崩れまくって、その間から覗く峰藤の出刃包丁のような視線といったら! 口から手を突っ込んで奥歯ガタガタいわされそうな殺気を前にして、私は震えながらも何とか声を振り絞った。
「みっ、みみみ峰藤副会長……水も滴るいい男です、ね!」
「――沈められるのと、腹部が裂けるほど水を飲まされるの、どっちがいいですか」
 貝のようにぴたりと口を噤んだ上に私はしっかりと両手で蓋をする。これ以上一言もしゃべりません、と精一杯アピールをしている私を前に峰藤は鋭く舌打ちをすると、乱れていた髪を煩わしそうにかきあげた。
「怪我はありませんか」
 ぶるぶると首を振れば峰藤はそれを一瞥し立ち上がる。閻魔様さえ焼き土下座しそうな憤怒のオーラを立ち上らせている峰藤の向こう側に立ち尽くしていた人物に私はようやく気づいた。華やかかつ艶やかな着物姿をまとった妙齢の女性が肩をわななかせながらこちらを見ている。さっき峰藤を様付けで読んだのは恐らく視線やら雰囲気からいくと彼女なんだろうか。
 私はふと、デジャヴを感じた。それは自分が体験したことではないけれど、高級ホテル、スーツ姿の男、そして着物姿の女。どこかでよく見たような光景である――ああ、そうかドラマの中のワンシーンだ。あれは確か……お見合いの。

 …………。
 まさか、ねぇ?
 あははは。嘘でしょう。
 だってさ、普通ありえないっしょ?
 ―――マジかいな。
 どうかお願いですから嘘だって言って!! 誰か!!


 さてはて、不幸な少女の祈りは天に届くのか。
 かくも波乱万丈な一幕のはじまり、はじまり。



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