五十話 / ラブラブモーニングデート


 耳障りな電子音が耳朶を打ち、私はゾンビそのものな辛気臭さで布団から這い出した。
 邪悪なものなど一瞬のうちに溶かしてしまいそうな陽光が脳髄に染みわたる。ひやりと冷えた空気に身体を震わせて、私は顎が外れるぐらい大きな欠伸をひとつ漏らした。
 それは、ごく当たり前な冬の朝の風景だ――眠気まなこを瞬かせながら見た時計がいつもより一時間は早い時刻を示している上に、枕元で振動しながら「魔王」を奏でる携帯電話さえなければ。
 それが指し示す意味に私は戦慄し、ゆるやかで心地の良い眠気など一瞬のうちに遁走する。
 効果的過ぎる不吉な調べを選んだ過去の自分を怨んだが、心の準備をしないままで電話を受けるなんて私のチキンハートがとまりかねない。
 意を決し、呪いのアイテムと化したブツに私は腕を伸ばした。魔王の甘やかな旋律を歌い上げている携帯電話を二本の指でつまみ上げると通話ボタンを押す。そして私は、そっとそれを耳に当て、息を潜めながら電波の向こう側に対峙している相手の気配を探った。

『――貴方は電話に出るのにどれだけ時間をかけて』

 ゾゾッ、と鳥肌が立つほどに底冷えする声が聞こえてきて、私は真剣にこれはあの世からのライフラインなのだと信じかけた。しかし、それは唐突に途切れ、はっと我に返れば私の指は自然に切るボタンに伸びているではないか! 嗚呼、なんて正直すぎるマイフィンガー!
 自分の指を半分は悔やみ、もう半分では讃えながら、私は本能に従うまま携帯電話を布団でぐるぐる巻きにする。すると暫くして、ぶぅん、ぶぅんと再び魔王からの呼び出しを知らせる振動音が微かに聞こえてきた。
 私はだんご虫状態で床の上にうずくまり、組んだ手を天に掲げ祈りをささげる。
 あらみたまにぎみたまさちみたまくしみたまきよめたまえはらいたまえ。
 そう一心不乱に唱えていれば、ようやく願いが聞き遂げられたのか簀巻き状態の携帯は動きを止めた。ほっと安堵の息をつき私は緊張を解く。
 ……まったく、朝っぱらから寿命が五年は削られた気がする。何が悲しくて訃報なみに不吉なモーニングコールを受けねばならないのだ。
 やれやれ、と首を振り立ち上がると私は窓際のカーテンへと手を掛けた。少しでも爽やかな朝を演出するべく、私は背伸びをしながらそれを開け放つ。そこで飛び込んできた光景は、私の心臓に深々と杭を打ち込んだ。
 二階の窓から見下ろした我が家の門前に佇むのは漆黒の人影。
 その黒さの所以は暗色のコートにあるのかもしれないが、それ以上に、纏う邪悪さの前には、降り注ぐ光までもがふしゅるしゅると蒸発していくようだ。その鋭い眼光は苛烈さを極め、鬱屈した怒りを容易に想像させる。そして極めつけに、奴が右手に装備するは、燦然(さんぜん)と黒光りする携帯電話。
 酸欠の鯉ばりに口をぱくぱくしながら卒倒しかけた私は鳴り響くインターホンの音を聞く。それは私にとっての事実上の死刑執行を告げる鐘だった。
 
 ――これってなんて恐怖のリカちゃん電話?

 そうして、私は絶望に打ちひしがれながら、容赦など一切ない魔貫光殺砲にさらされる羽目になったのだ。



 
 すれ違う人が強張った顔でことごとく目を逸らすのは、私と隣を歩く人物の間を流れる空気が、壊滅的に悪いからに違いない。
 緊張感のあまり軋んでいる空気に窒息しそうになりながら、私はひっそりと溜息をついた。
 斜め前を歩く峰藤の足取りに隙はなく、そんじょそこらのチンピラなら、ひと睨みで追っ払えるぐらいの殺気が背中から立ち上っている。その警戒振りを見ていると、私はヒットマンに狙われる大統領にでもなった気分だが、これまでの登下校でずっとこんな調子だから、着々と擦り切れていく神経はもうすでに限界ぎりぎりへと近づいていた。峰藤との和気藹々とした歓談を期待したわけではないが、一言も喋らないとなると逆に気が滅入る上に、先の見えないマラソンを永遠に走らされているようでしんどい。私はもうひとつ深い息を吐きながら地面を見つめた。
 唐突に腕を後ろに引っ張られ、私はバランスを崩す。背中はしっかりと支えられていたから転倒することはなかったが、驚きに顔を上げると、不機嫌そうな峰藤と至近距離で目があった。
「びっ、くりしたぁ。な、なんですか?」
 私の腑抜けた言葉が気に入らなかったのか、峰藤は形のいい眉を更に吊り上げる。
「『なんですか』はこっちの台詞です。自殺願望でもあるというのなら止めませんが」
 峰藤の顎が指す方向をたどってみれば信号は赤。そのまま進もうとしていた私を止めてくれたらしい。ありがとうございます、と素直に頭を下げると峰藤は鼻を鳴らしてから私の腕を開放した。隣に並ぶ峰藤の横顔を見上げると、引き結ばれた口元とか皺のよった眉間が、彼の鎮まらない怒りを表している……荒御霊だ。これが噂の荒御霊。
 しかし、怒りつつも面倒見がいいんだな、と私が半ば感心しながら峰藤を見つめていると、その横顔がぐるりとこちらを向いた。
「――なにか」
 硬質で刺々しい声に私は目線を泳がせる。
「……いや、別に」
「三秒以内に言うか、一生口が利けなくなるか、どちらがいいですか」
「言います! 言います! 言いますってば!」
 峰藤ならやりかねないと普通に思えてしまうところが怖すぎる。
 仁王立ちで見下ろす暴君の顔色を伺いながら私は、おそるおそると口を開いた。
「ただ、面倒見がいいんだなぁ、と思ってただけですけど」
 客観的にみれば褒める類の言葉のはずだが、一般人の反応からは逸脱している峰藤は心底嫌そうに顔を歪める。
「――面倒をみさせているのは何処の誰ですか」
「桂木かいちょ……ハイ、当然のことながらこの私ですね。すみません。ごめんなさい。私が悪かったです」
 間髪いれず浴びせられた絶対零度の視線に、私は前言を撤回した。峰藤を前では冗談にさえ命を賭さねばならないらしい。
 平謝りする私に睨みを利かせ峰藤は機敏な動作で歩き出した。ぴんと伸びた背筋を恨めしげにみながら私も、それに釣られるように足を踏み出す。
 ……ちょっとボケただけじゃないですか。それにあながち間違いじゃないし。
 背中を追いかけながらも、ぶつくさこぼしていたら、振り返った峰藤に睨まれた。どうやら心の声がだだ漏れだったらしい。
「私は昨日の下校時に、明朝、少し早めに迎えに行くと言いませんでしたか? その耳はただの飾りですか、それともそのお気の毒な頭では僅かの間、記憶をとどめておくことも不可能というわけなのですか。それはそれは、心より御同情さしあげます――通常よりも早い時間に登校することにしたのは、貴方の目立ちたくないという意思を尊重した結果だった筈です」
「目立ちたくないから、朝だけは勘弁して下さいっていう意味だったんです、けど」
 思わず口を挟んだ私を峰藤は、ばかばかしいとばかりに鼻で笑う。
「本来ならば人目が多く、危険が及びにくい時間帯に登校するのが一番安全だということは自明の理でしょう――なによりも業腹なのは今朝の貴方の態度です」
 ぎくり、と体を強張らせながら愛想笑いをする私を、峰藤は冷たい声で切り捨てた。
「声を聴いた瞬間に電話を切るなどという無礼千万な行為が出来る人間は、一体、何を考えて生きているんでしょうかね。尤も、少しも理解したいと思いませんし、そもそも私なら良心が咎めて出来ませんが」
 確かに失礼なことをしてしまった自覚はあるが、そこまでボロカスに言われてしまったら、素直に謝ることさえ出来なくなる。それに峰藤の電話をぶっちしようなんていう猛者、そうそういてたまるか――そんな素敵な輩とは魂の盟友になりたくなるじゃあないか。ところで魔王に良心ってあるの? それって人間にはない魔族の第二の臓器的なアレ? それとも鬼の目に涙的なソレ? どっちに転んでも怖いのにかわりはないのだから、一生、秘すれば花でいて欲しいところである。
 言いたいことは腐るほどあったが、私の唇はつっこみの奔流をとどめることに成功したようだ。ぷるぷると震えるそれを噛み締めて、反骨精神を素数を数えることでコントロールすると、私は表情が隠れるようにぐっと下を向く。峰藤の位置から見れば恐らく、深く沈みこんでいると誤解したに違いない。猿の進化系である私も自衛の為に反省のフリくらいは出来るのである。
 私の沈黙が伝染したように峰藤も口をつぐみ、一呼吸後、行きますよ、と私を促した。
「――貴方も珍しく反省しているようですし、これ以上は咎めないことにします」
 なんとか峰藤の怒りを逸らそうと私は精一杯しおらしい態度で頷く。そうすれば自然と峰藤の声も柔和さを帯びてきたように感じられるのだから不思議だ。
「しかし、二度目は当然のことながら情状酌量の余地はありませんし、貴方にもそれ相応の覚悟を決めてもらいます」
 これまでの会話の流れのどこら辺に情状酌量の余地があったのかが疑問だが、私は再び首振り人形になりきることで、峰藤の言葉を鮮やかにスルーした。
「つまり結論として、明日はワンコール以内に出て下さい。さもなくば――どうなるかは解っていますね」
 ――あざやかにする、う? でき、て、なくなくない?
 はっと顔を上げて顔色を伺えば、峰藤の眉間にくっきりと刻まれているのは怒りの四つ辻。
 猛禽類のごとく光る眼は、据わっている上にまったく笑っていないではないか。
「あああ、あのう、峰藤副会長」
「なんですか?」
 自分が安全だと思いこんでいたら、実は地雷の上に立っていたことに気づいてしまった私は、ガチガチと歯をかちあわせながら必死で微笑んだ。それは必死の友好的アピールだったが、鉄面皮、冷血漢の峰藤に通用するわけがない。峰藤は、一見、声色だけは無感情で怒っているようには見えないが、油断していると縊り殺されそうな威圧感を伴っている。
 その緊張感は到底、耐えられるものではなかった。
 黙っていることが出来なくて私はついに聞いてしまったのだ。
 その呪文は禁断の『開けゴマー』。

「もしかしなくても、怒って、ます?」

 刹那、瞬間最大風速を記録するような突風が吹き荒れた気がしたが、それはただの幻覚だったようだ。目の前の峰藤にさしたる変化はないし私もいたって五体満足である。すると、峰藤は妙に乾いた声を出した。
「怒ってるか――ですか? 貴方という方は本当に面白いことを仰いますね」
 きゅうと唇の端を吊り上げながら峰藤は柔らかく微笑んだ。
 その陰気なモナリザのようなアルカイックスマイルは絵になると言えなくもなかったが、近来まれに見るその不気味な穏やかさに私は心の底から震え上がる。伊達に峰藤浩輝の恐怖体験を味わってきたわけではない。そのわりに回避率はスズメも同情してくれるほどではあるのだが。
 彫像のように固まっている私の首周りから滑り落ちたマフラーを峰藤は丁寧に整えてくれた。しかし、その両手はマフラーの両端から放される気配はせず、なぜか徐々に私の体から遠ざかっていっているのは気のせいだろうか。気のせいだと思いたい。なんだか微妙に息苦しくなってきたのも絶対に気のせいに違いない――気のせいだと思わないと今すぐに泣いてしまいそうだ。

「取り敢えず、私が怒っていないと貴方が思った、その理由を述べてみてください――その御目出度い楽観主義を完膚無きほどに叩き潰してあげますから」

 歯切れのいい言葉で断言した魔王と、首絞められた状態の生贄の羊。
 物理的に叩き潰される(スプラッター的な意味で)自分のビジョンが浮かんできて、やっぱり、ちょっと泣いてしまいました。



戻る / 進む