五十五話 / 類人猿、食物連鎖について憂う


 破壊神に引き摺られて、こんにゃく状態の私が辿りついたのは、とても見覚えのある場所だった。
 落ち着いた雰囲気を漂わせる入り口には、オープンという札がなんとも気安げに掛かっている。私は自分の目と、ついでに桂木の正気を疑った。
「すみません。ええと、会長、もしかしなくても、入る気じゃないですよね?」
 動揺していた私は愚にも付かない質問をする。桂木はそれを受けて、逞しい胸を膨らませた。
「まず敵を知るには、情報収集が基本だっ! 町に入ったら酒場! 冒険者の基本だろうが!」
「いや、倒すべき敵がいたことも初耳ですし、更にこちらは酒場じゃないし、そもそも、そういうゲーム的なノリですらないんですが――っていうかここ、結城さんの喫茶店じゃないですかっっ!!!」
 引き摺られている途中も、なんだか見慣れた風景が続くな、とグロッキーな眼で眺めていたが、連れてこられたのは、私が先だって失恋をした相手の喫茶店。
 常識的に考えて、気まず過ぎることこの上ないわ! いや、会いたくないってわけじゃないけど、まだ心の準備ができてない! 時期尚早であるからして!
 そんな繊細な人間心理など理解できないらしい地球外生命体カツラギタクミは、ワタシブヒブヒゴリカイシマセーン、と顎をしゃくる。そして道路に寝転がる勢いで入店拒否をする私を、しゃらくせぇとばかりに横抱き――つまり、お姫様抱っこしたのである。
 しかしそこには微塵の甘さも存在せず、肩から背中を支えつつ顔に巻きつく左手と、太ももから足をがっちりホールドする右手に絡め取られて、私はぴくりとも身動きがとれなくなっていた。
 私は漁獲されたマグロかなんかか! 最終手段はぴちぴち跳ねてやる! 覚悟しとけよ!
 半ばやけっぱちになっていた私を尻目に、軽やかな音をたてながら扉は開き、私は暖かな空気とコーヒーの香りに包まれた。そして、神に不在を願った人物からかけられた、嗚呼、無情な声。
「拓巳、白昼堂々と人攫いはやめときなさいね、って――君?」
 久しぶりに聞いたそれは、皮肉にも天上の音楽に限りなく似ていた。
 揶揄する様な声が驚いたように跳ねる。私はぎゅっと瞑っていた目をゆっくりと開いて、声を上げた人物に視線を移した。
 柔らかいチョコレートブラウンの髪の毛。そこから覗く優しそうな眼差しも、私の記憶のなかにある彼からまったく変わっていない。私の大好きな――だった結城さんのままだ。
 結城さんは意表をつかれたような顔をしていたが、それはすぐにふわりと甘やかなものへと変化する。その笑顔を目にした瞬間、私は危く号泣しそうになった。
 しかし無論のこと、そんな醜態をさらすのは真っ平ごめんである。
 私は込み上げてきそうな嗚咽をごくり飲み込むと、硬直した表情筋を微笑みの形に動かした。
「……結城さん。お久しぶりです。お元気でしたか?」
 私のぎこち無い態度に、結城さんはいらっしゃいと普段通りに微笑む。私は気づかない振りをしてくれたことに感謝した。
「拓巳、そんなところに突っ立ってないで早く入りなさい――ええと、何飲む? 折角だからとっておきの紅茶とってこようか」
 首を傾げた結城さんにお礼を言うと、彼は嬉しそうに顔を輝かせて背を向ける。結城さんの姿が奥に消えるのを確認してから、私はほっと全身の力を抜いた。
 まだ完璧に普通に振舞うのは無理そうだ。だからといって暗い顔をいつまでもしているわけにはいかない。
 なんとか気分を変えようと顔を上げると、不機嫌そうな桂木と目が合った。びくつきながらも、なんでしょうかと目で問いかけるとグリーンの瞳が苦々しげに歪む。端正な顔が異常に接近し、目の端をざらりとした感触が撫でていった。その生々しい感覚に、ひ、と喉が恐怖に引き攣れたが、真剣な光に射抜かれて私は言葉を失う。
 泣くな。
 そう囁かれて初めて、私は自分の目が濡れていることに気が付いた。ほっと気を抜いたら零れてしまったらしい。結城さんに決して気を遣わせてはならないと、私がごしごしと両手で目元を擦っていると、その様子を見ていた桂木がまじまじと顔を寄せてくる。
 形の良い唇から辛子明太子のような舌先がちらりと見えた。赤い。危険信号の色。
「――お前、鼻水が」
「っっ!!!! それはぜっっったいに舐めないで下さいっっっ!!!!」
 死に物狂いで目の前に迫る顎を反射的に両手で押し上げると、ごきんと鈍い音が聞こえた。
 GOKINN ――とな?
 腕を突っ張りながらその不吉な感触に固まっていると、刹那、指先にぬるりと生暖かいものが絡みつく。ぎょっとして手を引っ込めようとすると、大きな手が私の手首を拘束し、自由を奪った。そして更に執拗に指の間を舐め上げられ、私は全身がチキンスキンになった。
 どうやら、私は恐ろしい肉食獣の変なスイッチを入れてしまったらしい……口に出すのも恐ろしいが、いろんな意味で身の危険を感じる!
 桂木は、不愉快そうに首をごきごきと鳴らしながら半眼で私を捕らえる。そして唇の端をセクシャルに吊り上げて笑ったが、翡翠色の瞳は燻る怒りで燃えていた。
 リアルに捕食されそうな恐怖で歯はすでにカスタネット状態である。全身冷や汗でびっしょりになりながら、私は最後の足掻きと無い脳味噌を振り絞った。
「あの、会長……私、実はさっきトイレ行ってから手を洗っていない、とか、いっちゃったらどうします? うわぁあああ、ぎゃあああぁああ!!!」
 巧妙と思われた作戦は何の抑制力ともならなかった。桂木は何を考えたのか、くわっと口を大きく開くと、私の手を半分まで丸飲みにしたではないか! なにこの一発芸!!! 恐怖すぎるわ!!!
 頬をハムスターのように膨らませている桂木の美形顔は台無しだったが、本人の目は鬼気迫っており、私の手がアンパンでできているかようにかじりついている。私は慈善事業で顔を提供できるような、愛と勇気の戦士ではない。その手のスペアも存在しないし、私の親類に丸顔のパン屋はいないのだ。
 私はそのような事をとつとつと諭してみたが、桂木は一笑に伏せた。
「ごひゃごひゃうるはいぞ。かみなりなってほ、はあさないからな」
 スッポンか。目の前の男は爬虫綱カメ目スッポン科キョクトウスッポン属の魂をその胸に抱いているのか。手に唐辛子かわさびといった刺激物類を練り込んでおかなかったことを、私は今ほど後悔したときはない。そもそもイチゴヤドクガエル的な自衛能力が必要な瞬間がくるなんて予想もしなかったのだ――してたまるか!
 そして、その恐ろしい捕食劇は、結城さんが無言で桂木を鉄拳制裁するまで続いたのであった。エイメン。



 目の前に湯気を立てるロイヤルミルクティーとふわふわのシフォンケーキが並んでいる。
 指定席で頬杖を付きながら、ふてくされている桂木を横目に、私はカウンターに座っていた。心なしか涎でふやけた気がする手を握りしめると、それを目に留めた結城さんが申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんね……拓巳が相変わらず迷惑かけてるみたいで」
「きっ、気にしないでくださいっ! 逆にけっこう慣れたので、精神的に鍛えられたというかっ! ある程度は開き直れてますのでっ!」
 気に病んで欲しくなくて、私は立ち上がりながら力説する。すると、結城さんは目をくるりと瞬かせ、次の瞬間、ぱっと花が咲くように破顔した。しゅっと穏やかな弧を描く瞳や、震える喉仏に私が見惚れていると、なんとか笑いをひっこめようと結城さんが咳をする。それでも、押さえきれないのか、形のいい肩は揺れていた。
「開き直っちゃったんだ。君らしいっていったら怒るかもしれないけど……元気そうで少し安心した」
 囁くように聞こえた言葉に、私はそっと顔を上げる。注がれるのは私の事を案じる優しい眼差し。
 その柔らかい視線の意味を、私はもう取り違えたりはしないけど、それでも幸せだと思うぐらいは許されるだろう。私は少しだけ軽くなった胸を抑えながら、へらりと笑顔で頷いた。
 すると、ぐき、と首が九十度に曲がるくらいの負荷が頭の上にかけられる。犯人の心当たりなんてありすぎる。ムチウチになったらどうしてくれるのだ。
「……会長、重たいです。私、肘置きになった覚えないんですけど」
 私の頭の上で頬杖をついてくつろいでいる桂木は、私の文句なんて聞く耳を持たず、結城さんをねめつけたようだった。しかし、その鋭い視線は結城さんの優しげな笑顔にはひびすら入れることはなく、愛息子を見守る慈愛あふれる表情は保たれたままだ。
 桂木はおもしろくなさそうに鼻を鳴らして、私の首に腕を巻き付けた。頭の上に尖った顎が乗せられた気配がする。桂木が喋るたびに刺さってとても痛いのだが、訴えは完璧に却下された。
「何を楽しそうにくっちゃべっている。お前は悩み事があったんじゃないのか。とっとと喋れ」
「わっと、そうでした」
 ぶっきらぼうな言い方をする桂木に私が恐縮すると、結城さんがからかう様に喉を鳴らす。
「こら、やきもちやいてるからって、彼女に当たらない」
「結城は黙ってろ。むかつくからこいつと口きくな」
「喋らないと相談にものれないと思うけどね」
「うるさい。くだらない屁理屈こねるな、ばか!」
 頭の上で口喧嘩されて、私はだらだらと脂汗をかきながら固まる。それでも結城さんは桂木と戯れるのが楽しいのだろう。にこにことしているし、確実に上機嫌なことは見ていてわかるが、それに反して桂木のまとう空気は歪んでいく。私は恐慌状態になりながらも、私がここに来るきっかけになった出来事を説明したのだった。



「浩輝君の家へ行ったの?」
 私の話を聞いていた結城さんは段々と険しい表情になっていき、低空飛行の声がそう聞き返す。
「大丈夫だった? 怖い思いをしたりとか……浩輝君も一緒だったみたいだし、瀧川さんのことだから、悪いようにはしていないとは思うけど、万が一のこともあるからね」
 強面の方に恫喝された上に、今現在も指がちょんぎられる危険にさらされています、とは口が裂けても言えなかった。結城さんに余計な心労を掛けるのも忍びなくて、私は、峰藤が家の問題に悩んでいるらしいことをかいつまんで話すのに留めておき、後は曖昧な笑みで誤魔化す。
「だけど、結城さん……やっぱり峰藤副会長の家のことは知ってらっしゃったんですね」
 そういえば文化祭の時に二人は顔見知りだった。私がその時のことを思い出していると、結城さんは少し言いにくそうに言葉を濁す。
「知ってるどころか、前はそこで働いていただろう」
 すると、隣でつまらなさそうにコーヒーカップを齧っていた桂木がさらりと口を挟んだ。咎めるように名前を呼んだ結城さんに向けて、桂木は皮肉っぽく唇を歪める。
「余計な事を言うなって顔だな――ざまあみろ」
「あっ、あの! もしも言い難いことなら、無理に話していただかなくても」
 漂う不穏な空気に萎縮して、おずおずと私が口を挟むと、結城さんはふっと力を抜きながら苦笑する。
「いいんだ。別に隠すようなことでもないから。僕は以前、浩輝君のお爺様――つまり瀧川辰之進さんの組の専属弁護士をやってたんだ」
「結城さん、弁護士さんだったんですかっ!?」
 驚きの声を上げた私をなだめるように、結城さんは軽く頷く。
「あまり胸を張って誇れるような事はしてなかったし、今は弁護士免許を持ってないから、ただの人だけどね。浩輝君の家とはこの喫茶店を始めるまで長い間付き合ってたから、浩輝君のことはちっちゃい頃から知ってるんだ」
 峰藤がどうしてあれほどまでに結城さんに弱いのか、私は深く納得した。そりゃあオムツまで替えられていたらグウの根も出なくなる筈である。
 結城さんは遠い目をしながら、峰藤の幼少時を思い出しているみたいだった。それを裏づけする様に、蜂蜜をかけたようなにやけ顔になっている。
「浩輝君、ちっちゃいころから自制心が強い子でね。凄く負けず嫌いだし、意地っ張りな割りに感情が駄々漏れだったから可愛かったなぁ。そういうところはぜんぜん変わってなくて愛らしいよね」
 とろけるような笑顔で聞かれても、残念ながら同意しかねます。
 峰藤や赤司といった、本籍が地獄みたいな輩を捕まえて、可愛いと称する価値観ブレイカーが、一同に会しすぎだ。辰さんや結城さんは、女子高生レベルで可愛いの許容量が広いのではないかと私は疑い始めていた。人食いザメ相手でも、あの犬歯の尖り具合がラブリーとか言って愛でてそうだこの人たち――というか結城さん、峰藤のオムツ離れした年齢やそれにまつわるエピソードなんて心の底から聞きたくないです。切り札的な意味合いでも興味が無いわけではないですが、口にした時点で死亡フラグ立ちまくりじゃないですか。そんな赤裸々でディープな峰藤浩輝の個人情報、私が知っているとバレた時点で、奴に捨て置かれるはずがない。確実に殺される。
 私は控えめに、しかし確固たる意思を持って峰藤とのスゥートメモリーを語っている結城さんを遮った。
「あの! 結城さんは、峰藤副会長の悩みにはのってあげられないんですか?」
 結城さんは、ふ、と一瞬考え込むように言葉を止めて、緩やかに眉を下げる。
「僕としては乗りたいのはやまやまなんだけど、彼自身が僕に頼るのをよしとしないだろうね。それに浩輝君、人に弱みを見せることを極端に嫌うから。特に大きくなってからの男同士ってなかなか複雑なんだよ」
 峰藤の性格は経験を通して否が応にも掴みかけていたから、結城さんが言った言葉も素直に頷けた。しかし、峰藤が敬愛する結城さんにとっても難しいことが、私に出来るとは到底思わない。
 余計なお世話です。貴方に心配されるなんて私も堕ちたものですね。一昨日どころか輪廻転生からやり直してきてください――的に蜂の巣にされるイメージしか浮かんでこなかった。なんというリアリティ。
 私が前途を想像して土気色になっていると、結城さんは安心させるように私の頭に手を置いた。
「でもね――君なら浩輝君の力になれるかもしれない。誰でもない、君の声なら浩輝君に届くと思うんだ」
「その根拠は一体どこから沸いてくるんでしょうか? 私、まったく自信ないのですけど」
「だって、現に、君に元気付けられた人間がここにいるんだから」
 それがなによりの根拠じゃない?
 結城さんはそう言って、片方の目をぱちりと瞑る。
 それに私がうっとりしていると脳味噌が沈むような衝撃を感じた。赤くなった手の甲を押さえながら微苦笑している結城さんを見るに、どうやら桂木が私の頭ごと叩いたらしい――私の脳細胞を何個潰したら気が済むんだろうかこの人。
 私の恨めしげな視線を受けた桂木は、逆に責めるような渋面をつくり、勢い良く立ち上がると私を思いっきり引っ張った。がしりとアイアンメイデンに閉じ込められたような圧迫感で、私は桂木の腕の中に捉えられる。交差された筋肉質な腕のせいで鶏のような声が喉から漏れた。
「いい加減、こいつにべたべた触るな、セクハラ親父め! それにお前もいちいちにやけるな! 噛み付かれたいのか!」
「そっ、そもそも、どうして会長が直ぐに噛み付くとか、舐めるとかいう理性的な人間にあるまじき行動に繋がるのかまったく解せないんですけど。それにセクハラは会長のほうが酷い――」
 ぐわっと歯を剥いた桂木に私は即効で詫びを入れた。理性的な言葉なんて粉々に噛み砕いてぺってされそうだ。ペレットか。猛禽類なのか。
 入ってきたときと同じぐらいずるずると喫茶店から退場しようとする私たちに、軽やかな笑い声が掛けられる。結城さんは本当に面白そうに、なにか眩しいものをみるように、目尻を下げた。
 結城さんはひらひらと手を振りながら、忠告めいた口ぶりで笑う。
「拓巳、あんまり束縛する男は嫌われるよ? 余裕がないんだってばればれだから」
「うるさい。こいつに関してのことで余裕なんかあってたまるか」
「おやおや、青いなぁ――なんだか羨ましいけど」
「そこで指でも銜えてみてろ年寄り。お前の出る幕は永遠に来ないからな」
 挑戦的に叩きつけられた桂木の言葉に、ふっと結城さんは嬌笑する。
 その艶っぽさに、私は心臓をぎゅっと搾り取られた気分になった。しかし、息を吐いた結城さんは、いつもと変わらない穏やかな笑みを唇の端に乗せる。またおいで、という言葉に頷きながらも私は桂木に背を押され、追い立てられるように喫茶店の扉をくぐった。





 ドアを通り抜けようとした瞬間、声を掛けられた拓巳は、振り返って嫌そうに顔を顰めた。
「拓巳――彼女を連れてきてくれて、ありがとう」
「気持ち悪い勘違いをするな。お前のためじゃない」
 息子の態度の悪さに苦笑しながらも、結城は軽く頷いた。
「わかってるよ。だけどくれぐれも気をつけて。暫くは彼女から目を離さないように」
「お前に言われるまでもない」
 拓巳は鋭く言葉を返すと、今度こそ結城に背を向ける。背の高い拓巳と、並ぶ華奢な彼女の背中が遠ざかっていくのを見守りながら結城は深く息をついた――自分の懸念が取り越し苦労になればいいけど。血の気が多いからなぁ。あの人。



 しかし、その心配が見事に的中してしまうのはもう少し後のお話なのである。




戻る / 進む