五十六話 / セクハラまじりの、アイラブユー


 昨夜、結城さんの喫茶店から帰った後に、桂木から突然、電話がかかってきた。
 出ないという選択肢が目の前にチラついたが、確実に報復されそうだったので、私は身構えつつもフォーコールぐらいで通話ボタンを押す。
 そこから聞こえてきた調子っぱずれの声に直ぐに後悔し、それから延々と意味不明な話に付き合わされる羽目になったのだから、現在、私の脳みそは日光に溶けそうになっていた。ケンシロウの強さの秘密など、髪の毛ほどの興味も無いわ! お前なんぞ、死兆星でも見てしまえ!
 休日にも関わらず、惰眠を貪るわけでもなく、駅前で間抜けな案山子のように突っ立っているのも桂木のせいだ。
 曰く、根暗なオクラ男に無い頭を悩ませているお前に協力してやるからのこのこと出てこい! 鬼ヶ島にお伴させてやる! きび団子もあるからな! だそうですってよ奥さん。
 私は犬ポジションでしょうか、それとも猿? 個人的には雉がいいですけど……とでも言うと思ったか似非桃太郎め。貶し言葉をさりげなく挟むテクニックを駆使するから、地味に精神力を削られる。そこに愛はあるのか。

 そうして、たちっぱなしの足がほぼ棒になりかけた時、桂木拓巳は現れた。
 焦る様子も見せない、悠然たる足取りでこちらに向かってくる奴を見てぎょっとする。正確にいえば、その後ろに鈴なりになる女性達の群に。総理も真っ青のぶら下がり取材状態である。
 私の姿を確認すると、桂木は目が痛くなるほど輝かしい笑みをふりまいた。
 私は自分の本能を信じ、他人のふりをして踵を返す。私の第六感が遁走すべしと大声で警告している!
 しかし、死に物狂いで回転させた足も空しく、私は唐突に差し出された長い足に引っ掛かり、もんどりを打って転びかけた。かけた、というのは、まさに私をすっ転ばそうとした本人が、首根っこを捕まえて私を引き戻したからだ。
 私は心臓をばくばくさせながら桂木拓巳を凝視する。
 あのままでんぐり返しをかましていたら、私は右手から疾走してきたバイクに跳ねられて昇天していただろう。
「な、なななな、なにするんですか……会長! 今、鼻先をバイクが掠めて行きましたよ! 目の前でひゅんって! ひゅんって言いましたっ!」
「ひゅんひゅん煩いぞ! 俺から逃げられると思ったか! 愚か者めっ! 出会いがしらに鬼ごっこをするなんていう高等テクニックをどこで覚えたっ! ふむ……シャッツ、もしかして地獄の果てまで追っかけて欲しい、という意思表示か?」
「なんですか、その恐怖満載な自己解釈は! 私をどんなドMだと思ってるんですか! 普通に顔合わせたくなくて逃げたって考えてくださいよ!」
「――顔を合わせたくない、だと」
 声を低くして俯いた桂木に私は我に返る。流石に言い過ぎたかも知れないと思い、焦って取り繕った。
「あの、会長がどうのこうのじゃなくて、後ろになにか引き連れているというか、良からぬオーラが出ていたというか……」
 必死に釈明していると、それを遮るように、すべん、と生温かい何かが私の頬に触れる。
 気づけば鼻が触れ合うほど近くに桂木の緑色の瞳が迫り、私は瞬間的に土偶になった。桂木は挑発的に目を細めると鼻で笑う。そして、私の顔が変形するほど強く頬をすり合わせてくるではないか。すべらかな頬ががつんがつんと私の顎の骨を攻撃してきて、顎が外れかけた。ちなみに涎は余裕で出た。
「いだだだっだだだだだ!!! 会長、痛いし、恥ずかしいひっ!!!! 人の目がっ!」
「生意気な口を叩くからだっ! 思う存分、顔を合わせてやる! これでもかというほどになっ!」
 意味が違う、とは言えませんでした。主に物理的な理由で。

 ようやく解放される頃には、私の頬は羞恥と摩擦で熱を放っていた。涙目になって謝った私に溜飲を下げた桂木は晴れやかな顔で、唖然としていた女性たちを振り返る。
「なんだお前たち。まだいたのか。このちんちくりんが俺のシャッツだ。これで嘘じゃないってことが解かっただろう。木偶の坊みたいにつったってないで、とっとと散ったらどうだ――ん、シャッツ、お前、目の下にクマが出来てるぞ」
 桂木が手をしっしと振りながら暴言を吐くたびに、女性たちの目がメドゥーサみたいに吊りあがっていく。桂木の見たいものだけ見る目の節穴さかげんが羨ましくて恨めしい。私の貧弱な心臓は縮みあがり、上機嫌な桂木に肩を抱かれようと、地蔵のように動くことができなかった。そして、私の目元を覗きこんだ桂木は、親指でクマをなぞりながら、にっこりと微笑むと思い出したように呟く。

「あぁ、昨夜、俺が寝かせなかったからだな」

 残念! そこは電話でとお答えしていただきたかったっっ!
 腕を取り、悠々と歩きだした桂木に引き摺られながら私は、あの、誤解です! 誤解なんです! 誤解ですから! と三段活用で叫ぶことしか出来なかったのだ。



 靴底が一センチほどすり減った時、私は漸く桂木の手を振り払うことができた。
 ぜいぜいと荒い息を吐く私を眺めながら、桂木は首を傾げる。私が叫んでたのなんぞ、まったく耳に入ってなかったらしい。傍若無人にも程がある。
 桂木は拗ねた幼稚園児に付き合うようなノリで私を覗き込んだ。
「なんだ、シャッツ」
「なんだ、シャッツ、じゃ、ないですよ! あのですね。ああいう、誤解を招くような言い方は……どうかと思いますけど」
 曇りなき童子のような眼で見つめられ、気恥ずかしさから語尾を濁せば、桂木は訳が解からないといった風に眉を跳ね上げた。
「誤解? なにがだ?」
 自意識過剰な自分が恥ずかしくなり、顔から火が出そうになる。
「……わかんないならいいです」
「あぁ、俺とお前がセッ」
「口に出すなセクハラ男! 完璧に解かっててやってますよね? 事実無根なこと言うのやめてください!」
 顔を真っ赤にした私の怒りは、桂木にまったく伝わってはいない。桂木は愉快そうに喉を鳴らすと、私の頭を強い力で小突いた。そうかと思えば腕をぐいと引っ張り、起き上がり小法師のようにリターンしてきた額を、掌で軽く受け止める。
 私で遊ばないでくださいますか、と訴えれば桂木は音が聞こえそうなほど幸せそうに笑った。
「ただの冗談だ。シャッツ。そもそも、お前の反応が面白すぎるのが悪い! よって自業自得だ! 諦めろ!」
 出たぁああああ、お得意のカツラギニズム! ジャイアンも真っ青のいじめっ子理論で、私はぐうの音も出ない。口答えをするだけ無駄だと思い知ってますからね! これは涙だから! 心の汗じゃないから!
 私は横綱級に重たい溜息を吐いて後ろを振り返った。
「――あの、つかぬことをお聞きしますが、彼女さんたちは、桂木会長のお知り合いじゃなかったんですか?」
 桂木が引き連れていたのは女王蜂系美女もといフェロモン増量中というテロップが付きそうなぐらい、ゴージャスな女性たちだった。
 過ぎるデジャブに嫌な予感を覚えて問いただせば、桂木は肩をすくめながらさらりと言う。
「記憶に無いな。向こうは知ってるみたいだったが」
 お前はどこぞの政治家だ。私の予想が間違ってないのであれば、桂木とそういう関係のあった女性なのだろう。双方合意の上だとしてもさいていだ!
 さいてい、と私が呟くと、桂木は皮肉げに唇を釣り上げたが、その顔が一瞬、傷ついているようにも見えて、私は怯む。
「何とでも言え。お前からの非難は甘んじて受けてやる」
「……ほうひひながら、ほっへ、つねるのやめてもらえまへんか」
 甘んじて受けてなくね?
 そう思ったが、桂木の矢のように強い視線に何も言えなくなる。ぶにぶにと私の頬を弄びながらも、桂木は耳たぶを舐めるぐらい近くに顔を寄せた。
 鼓膜に注ぎ込まれる掠れたテノールは毒のように甘ったるい。

「今はお前だけだ――恐らくこれからもな」

 さいですか。さいでりあ。ほんじゅらす。じゃまいか。みなみあふりかきょうわこく。
 私は動揺のあまり、暖かい国の名前を羅列してしまった。何の意味も無く、さほど効果も無い。
 ああ、はい、どうも、なんか、もう、あいとぅいまてんでした……と赤面しながら、死んだ魚の目で頷くなんて、私は器用な真似をして見せた。桂木は私が言葉を濁してるなんてなんのそので、解かればいいんだ! と嬉しそうに声を弾ませる。煌びやかな頬笑みを前にして、桂木は他人様から生気を吸い取ってるから、こんなに無駄に美形なんじゃないかと私は疑い始めていた。
「あぁ、そうだ。シャッツ。お前にお土産があるぞ!」
 桂木は赤いダウンジャケットの胸元に手を突っ込み、何か包み紙を取り出した。そして、好奇心を剥きだしにした瞳で、私の鼻先に団子のようなものを突き付ける。

「ほれ、シャッツ、きび団子だぞ! 三回まわってワンと言ってから、タークミ様! タクミ様! お腰につっけたきび団子! ひとつー私にめぐんでくださいな! って歌ったら、俺が手ずから食わしてやる!」

 はい、ここで公衆の面前での桃太郎プレイの強要。これは俗に言ういじめという名の公開処刑ですね。つまり、先刻の台詞は、今はお前だけを、そしてこれからもお前をだけを、ぐっずぐずに苛めぬいてやるから! 覚悟しとけニャン! 宣言だったんだよ! ななな、なんだってー! 猫語尾つけてもちっとも癒されないよ!
 ――なんだか僕、疲れたよパトラッシュ。
 いらないです、という言葉さえ出てこなくて、私は目の前のきび団子をげっそりと見つめる。
「これ、わざわざ買ってきたんですか?」
 私の問いに桂木は首を横に振った。そして振り下ろされる鉄槌。駄目押しの一言。
「お前と鬼ヶ島に行くと言ったら、結城が嬉しそうに作ってくれたぞ!」
 それにしてもあの三十五歳ノリノリである。
 桂木の言動に疑問に持たずに乗っかるのが桂木家スタンダードなんだろうな。ついてけない。問答無用でひきずられることは確定していたが。
 容易に鼻歌交じりにきび団子を作る結城さんが想像できて、ちょっとめげた。しかし、結城さんが丹精込めて作ってくれたきび団子だと思えば、人間としてのプライドをちょっと犠牲にしても食べる価値はある。
 食欲をそそる、黄白色の丸みを帯びたフォルムをじいと見ていた私は、唇を噛みしめながら決然と顔を上げた。そして、くるくるくると三回ほど回ると、勢い込んで桂木に手を差し出す。
「わん。たくみさまたくみさまおこしにつけたきびだんごひとつわたしにめぐんでくださいな!!! 会長、言われる通りにやったんで結城さんのきび団子を下さい!!!」
 桂木の希望に沿う行動をしたのだから、高笑いでもするかと思った。しかし、私の予想を大きく裏切り、上機嫌だった筈の桂木の眉間には次第に皺が寄り、面白くなさそうに口がひん曲がりはじめている。私は桂木の怪しい雲行きに脂汗をかいたが、何がそんなに彼の気に障ったのか理解ができなかった。
 とりあえず土下座? レッツジャパニーズドゲザ? オーハラキリ! ラストサムライ! という選択肢も無くも無かったが、それを実行に移す前に、桂木は手に持っていた包みにかぶり付き、きび団子を総て丸飲みにしたではないか! アッチョンブリケってレベルではない!
「かかか、会長っ! 散々、泳がせておいてその仕打ちっ! 酷過ぎるじゃないですかっ!」
「うるはいぞっ! あからさまにぷかぷかと浮かれやがって! ――この前だってそうだ。なんの為に俺が結城のところに連れてやったと思ってる」
 桂木は美しい造作を歪め、不機嫌さを隠そうともしない。私は食べ物の恨みをひっこめ、まじまじと桂木を見返した。
「ええと、峰藤副会長を元気にするための情報収集? でしたっけ?」
 冷静になって回想すれば、そういう話だったはずだ。しかし、桂木はそれを全否定するように眦を釣り上げた。
「俺があの陰険眼鏡のために動くと思うのか! 阿呆! 来いっ!」
 声を荒げて、桂木は大きな手で私の手首を掴んだ。怒りを露わにする美形の迫力に圧倒されながらも、私は桂木の不愉快の種に思いを馳せていた。
 握られた手首が熱を放っているように痛い。その痛みに導かれるように、私は漸く一つの結論にたどり着いた――もしかして会長は嫉妬、というのをしているのだろうか。
 その推測に行き着いてみても、優越感や嬉しいという感情は沸いてきそうもなかった。私はすごく人の気持ちに対して無神経なのかもしれない。謝るのはお門違いで、桂木の怒りは理不尽だとしても罪悪感は否応なしに鉛のように沈殿する。
 会長の気持ちも考えずに――すみません。
 引き摺られるように歩いていた私が小声で零せば、それは怒り心頭だった桂木の耳にも届いていたらしい。ぴたりと歩みを止め、桂木はこちらを振り返った。その表情には憮然としたものが浮かんでいる。桂木はじい、と私の顔を無言で見つめ続けていたが、かと思うと、物凄い勢いで抱き竦められ、私はその拘束の強さに口から内臓が飛び出しかけた。
「――こんの阿呆っ! 救いのようのない阿呆めっ! 簡単に謝るな! あっさりと自分の非を認めるなっ! 卑屈な顔でぶひぶひ泣くなっ! そんなんだから、簡単に結城のような腹黒イタチ男につけこまれるんだ!」
 耳元でガンガン怒鳴られて、私はますます身を竦ませる。それでも、ぶひぶひなんて言っていないし、結城さんは腹黒イタチでもないと訂正しておくことは忘れなかった。結城さんがつけこむ? 浅漬け作っている姿しか浮かんでこない。
 唐突に怒ってみたり、かと思えば謝るなと言ったり、桂木の感情の起伏の激しさに目が回りそうになったが、それでも言いたい言葉はするっと出てきた。
「あの、会長。なんというか……本当に、いろいろとお付き合い頂いてありがとうございます」
 桂木は私の為に喫茶店に連れて行ってくれたんだろう。恐らく今日だって。
 その意図ははっきりとは解からないが自惚れが許されるのならば、手段はどうであれ、対する気持ちにお礼ぐらいは言っても罰は当たらないと思った。すると、桂木は急に私を開放し、罰が悪そうに唇を尖らせる。その苦虫を噛み潰したような幼い表情に私は何故か少しだけほっとした。
「――当たって悪かったな」
 桂木は囁くような声で言ったが、当たられていたとはとんと気づかず、私は逆に萎縮する。いえ、こちらこそ、と口ごもったが、実は素直に謝る桂木の態度が薄気味悪かったとは口が裂けても言えませんとも。
 気詰まりな沈黙が落ちたが、何か言葉を発しようと四苦八苦していた私を嘲笑うように、桂木は唐突に笑い出す。しかし、その爽やかな哄笑に私は呆気にとられた。
「自分がこれほどまでにeifersuchtigだったとはな! それも、お前のようなへちゃむくれ相手にだ! これが笑わずにいられるか!」
 数秒前までの憂いなど感じさせないほど晴れやかな、面白がるような表情で私を見つめている。
「お前といると、初めての感情ばかりで味わえて本当に飽きないな――今、俺が思っていることが解るか?」
 肩を握り締める手に力がこもり、私は蛇に睨まれた蛙のように、翡翠色の双眸を見つめ返していた。宇宙人級に理解しがたい桂木の脳内なんて読めるはずが無い。私がぶんぶんと首を横に振ると、桂木は熱っぽい目で私を見返して呟いた。

「お前を窒息死させるほどキスしたい。鼻から脳味噌飛び出すほど抱きつぶしたいと思っている」

 おおい! どちらに転んでも殺す気か! 脳味噌BURNしている自分の姿が脳裏によぎる。確実に十八禁だろう。グロテスク的な意味で。どうかその殺意まじりの欲求は、永遠に胸にしまっておいて頂きたい!



 殺人衝動を赤裸々に告白した危険人物に手を引かれながら私は歩いていた。
 つんのめりながら進む私などお構いなしで、桂木は先ほどから延々と小言をこぼしている。
「それにしても、お前は無防備すぎるぞ! うっとりと結城のハゲにみとれやがって! 俺が肉食獣だったら、お前の喉笛噛みちぎって、むしゃむしゃごくんしてたところだ! 何度、真剣にやってやろうと思ったことか!」
 そういう殺人衝動の報告、心の底からぞっとするのでやめて下さい。嫉妬が殺意に繋がるタイプなのだろうか――今まで言ってたことはすべからく冗談だプー、蜂蜜食べたいなって言って! お願いだから人畜無害な国民的肉食獣を見習って欲しい。
 私はこれ以上、桂木を刺激しないように口をつぐんだまま、桂木の言い分に相づちを打った。桂木は淀みなく口を動かしながらも、手を挙げタクシーを一台止める。そして黄色いタクシーに私をぶん投げるように押し込み、ちぎった紙を運転手に渡すと、腕を組みむっつりと前を見据えた。
「俺がどれだけお前と結城にムカついてたのか、お前のちっさい脳味噌じゃ推量できないもの無理はないがな! その中につまってるのはなんだ? 赤味噌か? 八丁味噌か? ほうば味噌か? 白味噌か?」
「すみません……あの、脳味噌つっても味噌汁の味噌とは関係ないかと……というか会長、いったいどこに向かっているのでしょうか?」
「お前は俺の話も黙って聞けないのか! 或いは聞く価値はないとでも言いたいのか? 良い度胸だな! シャッツ! いつから、お前の態度はそんなにでかくなったんだ! これが飼い犬に手を噛まれるという奴か! ははは! 楽しくなってきたぞ!」
 もうやだ。このひと。
 怒っていたかと思えば、急に笑い出す。人の話を聞かないのは何時ものことであるにしても、まともにとりあえば消耗するだけだ。ハイテンションで喋り続ける桂木に閉口して、私は窓の外の景色に意識を集中することにした。寒々とした空気が硝子を隔てて向こう側に広がっている。そろそろ初雪が降り始めてもおかしくない寒さだ。
「だからなシャッツ。おい、聞いているのか」
「そーですね」
「お前の考えなしな行動はすべからく俺を不機嫌にさせる」
「そーですね」
「よって、お前は俺の監視下に置かれるべきだと判断した」
「そーですね」
「俺と一緒になるか?」
「いいともー」
「――とりあえず誓いのキュッセンと既成事実だな」
「って会長っ! 何、諸肌脱いでるんですかっ! 遠山の金さんごっこは自宅だけでやってください!」
「ふははは! 往生際の悪い! とっくの昔に誓いは為されたぞ! 話半分で聞いてるからこんな羽目になるのだ! 阿呆めっ!」
 はなしをきいていないのが、ぜんりょくでばれていた。しかもいつの間に私は桂木と誓いを交わしていたというのか。詐欺だ。いかさまだ。ペテンだ。
 そう訴えた私の首根っこを押さえつけ桂木は、額、まぶた、鼻筋を通って、顔のラインをなぞるように口づけを降らす。憤死寸前の私はぐいぐいと桂木の侵攻を阻むが、それは無駄な足掻きに過ぎなかった。フェロモンを垂れ流しにしながら、眩暈がするほど赤い唇を舐めた桂木が、私の頬を挟みこんで宣告する――イッヒリーベディッヒ、マイシャッツ。
 いっそのこと殺せ! どうかこのまま死なせてくれ! 耐えられない、こんな羞恥プレイ!
 私の断末魔が聞こえたのか、さっきから完璧に職務を全うしていた運転手は、些か乱暴にブレーキをかけた。
 お客さんつきましたよ、の声を合図に、私はタクシーの外へと転がり出る。頬に感じる冷たいコンクリートの感触がこんなに愛しく思えたことなんて無いだろう。顔じゅうの穴という穴から水を垂らしながら、私はぎりぎりのところで貞操の危機を乗り越えたことに安堵した。
「おい、シャッツ。そろそろ立て。そんなところに転がっていると、野良人間だと思って拾われるぞ。下手すると保健所に連れて行かれるからな!」
「……野良人間ってなんですか。それに連れて行かれるとしても、保健所っていうかどっちかというと病院じゃ」
 桂木の斜め四十五度の忠告に取りあえずは突っ込みを入れながら、よろよろと立ち上がる。
 桂木は呆れたように手を差し出したが拒否した。さっきまでどぎつ過ぎるセクハラかましていた男の手なんて借りる気はさらさら無いのである。それに桂木は不満そうに声を上げたが、私はそれどころじゃなくなっていた。
 あれぇ、このお屋敷――なぁんか見たことあるっていうか、忘れようがないんですが。
 目の前にそびえ立つ堂々たる門構えに、私は頭がくらくらした。

 立派な看板に達筆に彫られた文字――瀧川組。
 リアルに鬼ヶ島に来るなんて聞いて、ないよ……。
 そんな呟きは冬の冷たい風に吸い込まれて消えていった。



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