五十八話 / こじらせたら専門家にご相談ください。


 もしも寿命が眼に見えるものだとしたら。
 今、私の命の蝋燭は鋭利な刃物でガスガスと削られているのだろうか。
 頭に金属の五徳を被った白装束の峰藤が五寸釘片手に「この恨み晴らさずにおくべきか」とか言いつつ鬼気迫る表情で藁人形を打ち付ける趣味があるとすれば、私は今夜のお誂え向きなランデブー相手になるだろう。そんなB級ホラー映画みたいな逢引き、これっぽっちも嬉しくない。全力でお断り申し上げるッ!
 そんな被害妄想が浮かんでしまうほど、私の胸は恐怖に浸食されていた。もう、怖いってレベルじゃない。いっそのこと中世の貴婦人のようにハンカチ噛みしめながら気絶できればどんなによかったことか。助けて! オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ!
 霧状になった毒がぷしぷしと空気上に散布され、私のチキン肌から染みこんでくる気がする。それは確実に私のヒットポイントを削り、私の心臓は現地の人も目を見張るぐらい激しいサンバを踊り狂っているのだろう。
 肌を突き刺すのは、殺気か怒気かはたまた冷気か、ようわからん、もう商売繁盛笹もってこい! と錯乱しそうな空気に、私の心臓は縮みあがったが、それでもきつく握り締められた手首だけは、冷たく頑丈な手錠に囚われている。骨を砕かんと、万力のような力で絞めつけらた手首。その力は緩まるどころか、徐々に強まっているのは気のせいではない。
「あの、あのっ、ふくっ、かいちょう! 峰藤、副会長っ! あのですね、少しですね。少しだけ、ゆっくり歩いて頂けると……ありがたくっ!」
 恐ろしいスピードで進む峰藤に掴まれた私は、こけつまろびつ、というか思い切りこけまくり、ズタ袋のように地面を引きずられていた。アスファルトで膝をすりむくわ、こすれた靴は今にも摩擦で穴が空いてもおかしくはない。昔の城内引廻しの刑ってこんな感じだったのかなぁ、ハハハハハ。
 手負いの獣と化した峰藤は、どれほど激していようと交通ルールを破るつもりはなかったらしい。赤信号の前に峰藤は高速で回転していた足をぴたりと止めた。顔にかかる漆黒の乱れ髪が更に恐怖を煽るが、それをあえてここで指摘するほど、私は勇気と親密な関係を築いていない。
 鈍くぎらつく眼光に射竦められながら、私はごきゅりと唾を飲み込んだ。それは緊張のあまり乾ききった喉を潤すには到底足りぬ水分量だ。
「何故、あそこに」
 端的な言葉は重量感を伴って、私にぶつけられた。物凄い勢いで怒鳴りつけられると思っていただけに、肩透しを食わされた気がしたが、それでもこの重々しい雰囲気が緩和されるわけではない。くっつきそうな唇をこじ開けて、私はぎしりと鳴る首を傾けた。
「あのぉ、実は桂木会長に連れられて、なぜかあそこに――って、いったぁぁぁあぁあああ!!!!!」
 みしり、と掴まれていた私の手首が不穏な音を立てる。電流のような痛みが脳髄を刺し、私は陸に上がったエビの如く体を反り、痛みを言葉と体全体で表現するしかなかった。しかし、怒りに我を忘れているらしい捕獲者は、噛みしめた唇の端からきりきりという幻聴が聞こえてきそうな勢いで、かの男に対する呪詛を吐きだしている。
 ぎぶぎぶぎぶぎぶ! と死に物狂いになりながら、私は峰藤の肩を叩きまくった。もちろん、私にもあの傍若無人男への恨み辛みはあったし、普段なら即効で追従して、この人災を桂木に向かわせる努力をしていたかもしれない。しかし、今、私の全神経は砕かれかかっている自分の手首にあった。神経にダイレクトに響く痛みに、私はもんどりをうつ。
 峰藤は涙声でタップアウトを訴える私がようやくエビでなく哺乳類だと思いだしたらしい。弾かれたように私を手首を解放すると、峰藤はさっと顔色を変え、表情を強張らせる。たじろいだ顔を隠すことも出来ないほど峰藤は動揺していた。私の左手首には鬱血の痕が刻まれ、そして猛犬にじゃれつかれたかと見まごうばかりの膝小僧。息は絶え絶えで、さらに強く掴まれた手首はまだ痺れているし、膝下は擦過傷でじんじんしていた。文句を言っても許される惨状であることは間違いなかった――が、なによりも私を震撼させたのは、ともすれば泣きだすのではないかというぐらい顔を歪める峰藤浩輝の姿だった。
 ちょちょちょちょっと……すんません。あの、ね。なんか鬼の目に涙、とかいう話じゃねぇですよ。これ。なんか、もう、私の本能がその瞬間を目撃してはまずい、と告げている! なんか全ての価値観が崩壊するぐらいまずい瞬間が訪れてしまいそうな気がする……!
 私はぶわっととんこつスープを額から流しながら、顔には満面スマイルを張り付け、必死で峰藤に詰め寄った。
「あのっ、あのあのあのあの! 副会長! これ、ぜんっ、ぜん、痛くも痒くもなんともないですから! ほら、いうなれば! 私が副会長の用途に耐えられないほど貧弱すぎたから駄目だったというか! お怒りになられるのも当然っていうか! 私がもうちょっと気をつければよかったっていうか! ほら、見てください! ぜんぜん、元気でぴんぴんしてますから!」
 顔を引き攣らせながらもポパイさながらに力瘤を作ってみせたが、峰藤は強張りをとこうともしないし、口を貝のように閉ざしている。うわぁ、うわぁ、うわぁ、なんだろこの状態。うんとかすんとかいってくれ。わんでもにゃんでもいいから!
 無論、にゃんなんて地球が滅亡する日になったとしても言わなさそうな男は口を引き結び、沈黙ディフェンス継続中である。どうするわたし、どうするわたし、三択できるライフカードさえも出現しやしない。
 油汗でてんぱって硬直している私と、同じく黙りこくる眼鏡。いや、眼鏡をかけた妖怪。にみせかけた人間。あーもう、なんだもいいよ! とにかくなんとかなぁれ!
 空気読まない男の出現さえも願ってしまった私に、峰藤は漸く顔を向けたが、微妙に視線は逸らしたままだ。そして、そろりとした音が耳朶を打つ。
「――ここで、少し待っててくれますか」
 静かだがその言葉に懇願するような色が混じっている気がして、私は首を縦にフルスイングする。殊勝な峰藤はいつもとは違ったベクトルで恐ろしかった。峰藤は無言で踵を返し、何故かコンビニに入って行ったが、残された私には流石にこのまま帰るという選択肢はない。少し居たたまれない気持ちになりながらも突っ立っていると、予告通りに短時間でコンビニから出てきた峰藤がこっちに手を突き出した。
「な、なんですか、これ」
 たじろぎながら目の前のコンビニ袋を見つめていると、受け取ろうとしない私に焦れたのか、峰藤は袋を押しつけるようにして私の手に握らせた。ビニール袋を探れば、その中には絆創膏や消毒液などが入っている。問いかけるように見上げれば、峰藤の眉間にもゆるりと皺が寄った。
「それ使って下さい」
 囁くような声色で峰藤は背を向ける。その存在の不確かさに、私は急にどこからやってきたかも知れない不安を感じた。あ、行っちゃう。まるで今生の別れを告げた相手を見送るような寂しさ。このまま永遠に会えなくなるような。そんな漠然とした不安に私の胸はぎゅっとなる。
 しかし、何故かそのまま立ち去るはずだった峰藤は急に振り返り、私はまさか自分の心の声が聞こえてしまったのだろうか、と肩を震わせた。
 訝しげに見下ろされた視線の先には、しっかりと掴まれたコートの裾――いや、掴んでたの私かよ!!! なんたるちーや!!!
 自然に伸びたマイハンドは、言い逃れを許さないぐらい強く、峰藤のコートを掴んでいる。どういうつもりか、と言いたげに歪められた眉に、私こそ知りたい、と逆切れしそうになった。しかし、このまま峰藤を見送ることはできないと、私自身が意識下で思っていたことは間違いなかった。
 私はごきゅりと喉を鳴らして、喧嘩を売る勢いで峰藤を睨みつける。しかし、出てきた声が卑屈っぽかったのは否めない。
「あのっ、副会長! その、もしご迷惑じゃなかったら、手当てしてくれませんか? ほら、あの、あそこでっ!」
 苦し紛れに私が指差したのは道路を挟んで向こう側には小さな公園があった。砂場があり、遊具がぽつんぽつんと設置されてあったが、休日の昼間にも関わらず、人気は無い。
 そして峰藤の答えを聞く前に、私はコートの裾を引っ張りながら歩きだしたのだ――ぶっちゃけノープランですがなにか!???



 私はベンチに腰掛けると、勢いのみで峰藤に応急処置用具を渡す。それを峰藤は持て余していたようだったがいたが、暫く経って踏ん切りがついたのか、傷だらけの私の脚にそっと触れた。言い出したのはもちろん自分だ。しかし、人体実験に望む被験者のような気持ちで私は峰藤に手足を預けた。染みる消毒液が膝小僧に当てられ、じわりと目尻に涙が溜まる。苦悶の表情は表に出さないようにしたが、恐らく事あるごとに体が震えているのには気づいているのだろう。峰藤は何も言わなかったが、手際のよい手付きで膝を消毒しカットバンを貼っていった。一向に破れない沈黙がその場を支配し、私の頭はめまぐるしく動いていたが、話題はそんなに容易く出てくるはずもない。
 その時、鼻をすっと通っていくアルコールの匂いにデジャブを感じた。
「……そう言えば、手当てしてもらうのって二回目ですよね。私も一回、峰藤副会長を手当てした時ありましたけど」
 思わず滑り落ちた言葉に、峰藤は少し動きを止めたが、何も反応はなし。急に口を噤むのも気まずく、私はへらりと笑って誤魔化した。
「体育祭の時は、副会長が怪我をして、私が手当てをしましたけど、文化祭の時には私がお世話になりましたし、どんだけお互い怪我してるのかって感じですね。あの時に貸していただいていた手ぬぐい。しっかりと手で洗ったんですけど、血があまりとれなくて、とりあえず似たようなものを買ったんですけど。申し訳ないんですが、そんなにいいものではないんです」
 沈黙の隙間を埋めるように言葉が流れ出てくる。馬鹿みたいに明るいトーンなのは多少は緊張しているせいだろう。
「必要ありません」
 ようやく喋ったかと思えば、ぴしゃりと扉を閉めるような言い方に私は鼻白む。にべもない峰藤の態度は理解し難く、私は少し腹が立ってきた。もちろん嫌味炸裂な峰藤は苦手だが、若輩者の私が必死に空気を盛り上げてるのに、相手は愛想をとことん出し惜しみするつもりらしい。
 峰藤は延々と視線を落っことしているが、無論、私の膝小僧に人面瘡があるわけでもない。私は少しすさんだ気持ちになったが、これでも伊達に修羅場は潜っていないのだ。
「そんな風に言うことないじゃないですか。確かに、峰藤副会長が貸して下さったようなものとは質が違うかもしれませんが。気は心って言うじゃないですか!」
「私は真実を述べただけです。それにあれは母の着物ですから、気にする必要はありません」
「峰藤副会長のお母さんのですかっ!? 余計に気を使います……!」
「あれは私が勝手にやったことです。貴方が気に病む道理がありますか?」
 青ざめた私に峰藤は言い聞かせるように強く言った。皮肉っぽく唇を釣り上げるお馴染みの表情にも今日はどこか覇気がなく、声に潜むひたむきさに私ははっとする。
 峰藤が血も涙もない人間ではないことは今ではよく解っていた。そう気づけるぐらいには近くに居たし、たとえそれが三歩進んで二歩下がる間柄であっても、歩み寄る時間もあった。威圧的な態度や脅迫並みの恫喝、殺意交じりの眼光を取っ払ってしまえれば、峰藤は一貫して私の事を気遣っている。出来ればもうちょっと物腰柔らかにやって欲しかったが、それを普段の峰藤に求めるのは酷だろう。
 もちろん峰藤の心遣いを感じることはあった。だけど、びびりの私は表面の刺々しさに気を取られて、この人なりの精一杯の気遣いに、何度砂をかけるような真似をしてきたのか。これまでの諸々の峰藤に関する黒歴史を掘り起こせば、赤面ものの羞恥心が襲ってきた。結構な勢いでお世話になってたくせに、なんという恩知らず! お天道様に顔見せて歩けない!
 まるで腫れ物に触れるように丁寧に施された治療を思い出して、地面にめり込んでいくような気もした。私は罪悪感でべこべこになっていたが、不幸中の幸いか、当の本人は目の前に立っている。言うべきことを言えるのは今だけだと、私は本能的に悟った。
「あの、峰藤副会長! これまで多大なるご迷惑、並びにご心配をおかけしまして、まことにまことにすみませんでした……それと、今日も、本当にありがとうございました」
 身体をくの字に折り曲げ、勢いだけで頭を下げた私に、峰藤は驚いたように目を見張ったが、すぐに眉を寄せる。
「私は何もしていません」
「だって、峰藤副会長は、私を心配して家まで迎えに来て下さったんですよ、ね? 違ってたらごめんなさい。でも、峰藤副会長は、今だって手当して下さったじゃないですか。本当にどうでもよかったら放っておくことも出来たはずです。その気持ちに対して、きちんとお礼を言えてなかっかたの、今、深く反省したんです」
 自分で吐いた言葉はすとんと私の胸に落ちる。どうやら峰藤に避けられていたという事実も、下手をすれば指を詰めなければならない未来が待っていることさえも私は忘れていた。
 すると、油断していた私の手を峰藤が引く。冷たい手に握られて私は盛大にびくついたが、その黒々とした瞳には微かな脅えが映っているような気がして、動きはとまる。しかし、それを感じさせない声で峰藤は私に問うた。
「貴方は――私が怖くないのですか」
 え、なんですかその出来レース的なクエスチョン。私に本気で真剣に心から答えろと仰る?
 その場に漂う空気の深刻さに答えたくなかったが、その逃げを許さない雰囲気に私は生唾を飲み込む。のろのろと言葉を濁しながら言うが、峰藤の視線は数ミリもぶれない。
「怖くないか怖いかで言ったら……微妙なところなんですが」
「はっきり言いなさい」
「超怖かったです」
 自分の望む答えを得た峰藤は短く息を吐く。それは傷ついたようでもあったし、誰かを嘲っていたような雰囲気でもあった。峰藤は帰ってくる答えが予想できていたのだろうか、氷のような手が離れてゆく。青白い手が不健康なほど冷たいのが気になって私は両手でそれを捕まえた。峰藤の手はゾンビかと思うほど温度が低く、私はぶるりと背筋を震わせる。
「けど! それは別に峰藤副会長んちの家業が理由ではありませんから! 副会長が怖いのは最初からですし、むしろ今は元気がなくて怖いよりは不気味って感じですし――ってこれは関係ありませんでしたすみません」
 正直に言い過ぎて峰藤に睨まれた。暴言を吐いたのに、鉄拳制裁抜きで済むのがあるまじきことなのだ。それこそが峰藤が普段通りでない証で、もちろん私にとっては今の峰藤の方が人畜無害でいいとちょっと助かる……とか言ったら紗優ちゃんにしめられるんだろうな。確実に指詰めげんまんコースまっしぐらです。ありがとうございました。
「でも、峰藤副会長には面倒見もいいところ、それに、心配性で優しいところもあるって十分身を持って知ってますから」
 私は笑って峰藤が手当てしてくれた膝小僧を軽く持ち上げて見せた。
 あの時、結城さんの喫茶店で出会わなかったら、私は桂木や峰藤を一生関わりたくない先輩としてしか認識していなかったし、その状態で峰藤の家庭の事情を知ったとすれば、更に偏ったレッテルを貼っていたに違いない。
 たら。れば。それがすべてが仮定の話だとしても、私は彼らと会ってしまったし、これまで発生してしまった忘れ難い過去を無かったことにすることはできない。それに彼らと出会ったからこそ救われた時も確かにあったのだ。本人達にはまだそこまで正直に言えないだろうけど。
 だから。
「だから、超怖かっ"た"ですけど、出会った時よりも怖くないのは本当です」
 微妙に褒めているのか、貶しているのか、自分でも解らなかったが、峰藤の質問に正直に答えられて私は満足していた。もしかしたら笑みさえ浮かべていたかもしれない。
 峰藤はじ、と身動ぎもせず私の言葉を聞いていたが、ゆっくりとこちらに瞳を合わせる。怒られるかも、と身構えた私の予想を裏切り、少し潤んだ黒い瞳は彩光を放ち、ゆるりと眦が困ったように下がった。青白かった頬、そして耳たぶが何故かほんのりと色づいているのを目にして時はとまる――きさま、新手のスタンド使いかァーーーー!!!
「……ありがとう、ございます」
 恥じらうように目線を下げ、消えるように囁かれた声は少し掠れていた。
 恐らく、とても失礼だとは自覚しつつ、だけど至極自然な感情が噴出するのは止めようがない。
 こ、こえええええええええ!!!! きも……かわっ…!!!!! キモカワこわいぃぃぃ!!!!!!
 思わず口にしていたらしく、ほっぺと傷跡にガッと爪をたてられました。やっぱり峰藤は元気が無いぐらいが一番いいと思われます。



 送っていきます。遠慮します。人の好意を拒否する輩は万死に値します、とりあえず吊るしときましょうか? 的な一連の流れの後、私と峰藤は肩を並べて歩いていた。峰藤の親切は高圧的なのが最大の難点である。素直にお礼も言えやしない。
 隣を歩いていた峰藤は、貴方は巻き込まれないように断固とした態度で臨むべきだ、とか小言を並べ立てているが、いまいち意味がわかわらないので馬の耳に向かって呟いたほうが有意義だと思う。しかし、怪我をしている私を気遣ってか、揃えられた足並みは緩やかなペースで住宅街を進んでいた。
 太陽が落ちかけて赤くなった空を見上げ、最近では大分、日が短くなってきたなぁと独りごちる。
「私は」
 口を開けてぼんやりしていた私を、峰藤の静かな声が引き戻した。聞き返せば、少し逡巡したような表情を見せた後、峰藤は再び口を開く。
「私は祖父を憎んでるわけではありませんし、祖父の家業を蔑むつもりもありません」
 唐突な話題に戸惑ったが、峰藤に先を促すように頷いてみせる。それを認めて峰藤は、緊張を交えながらも前を向いた。
「――私は将来、弁護士になりたいと思っています」
「弁護士、っていうと結城さんと同じ?」
「ええ、組の専任弁護士を目指しているわけではありませんが。幼い頃から近くで見ていて、颯爽と祖父を弁護する姿に憧れていたんでしょう。我ながら単純な理由ですが」
「ヒーローに憧れる感じですか」
 馬鹿っぽいたとえだとは思ったが、峰藤は少し苦笑して頷いてみせた。
「子どもっぽいと思われるでしょうが」
「いや、別に子どもっぽいとは思わないですけど……正直、意外だとは思いました」
「これまで誰にも告げたことは無いですし、何故、貴方に話したのかも自分自身が理解出来ませんが」
 意味不明だと首を傾げられても、それはこっちの台詞である。
 とりあえず指詰めげんまん回避できそうだとか、紗優ちゃんの人間サンドバック説の可能性について考えていたら家に辿り着いた。そのまま直で家に引っ込むのは無礼極まりないと、私は峰藤の方に身体を向ける。
「峰藤副会長、送ってくださってありがとうございました」
「別に礼を言われる筋合いは有りません」
 即効で返されたのは素気無い言葉。テニスだったらリターンエース決まっているぐらい切れ味は鋭い。
 ほんっとにこの眼鏡野郎は……といつもなら青筋立ててた所だが、今日という日を経て峰藤浩輝という種族に多少の理解を得ていた私はそんなに腹を立てることも無くなっていた。ちょっとムッとしたぐらいだから遙かなる進歩だろう。寛大って言い換えてもかまわないぜ!
 峰藤は何か言いたげな顔をしていたが、その言葉を自分でも見つけられないようだった。私は少しだけ不機嫌そうに唇を尖らせて、峰藤が湿布を貼ってくれた手首を目の前に掲げる。
「私がお礼を言いたいから言ったんです! それに手当してもらったし、峰藤副会長は素直にどういたしましてって言えばいえばいいんです!」
「そういう、ものですか」
 戸惑ったように言葉を濁し、眉根を寄せた峰藤に、私はなんだか腑に落ちてしまった。恐らく峰藤にとってこの態度がいたく普通のコミュニュケーションの形だったのかもしれない。それって……なんだか不憫だというか、すごく損してきた部分もあっただろうな。周りには結城さんや辰さんみたいな大人ばかりじゃないだろうから、可愛げがある子だとは思われなかっただろうし、周りにいた一番近い友達が桂木って……私だったらすぐにへこたれてる。そんな幼い峰藤少年がいじらしく思えた。俗に言うツンデレをこじらせた完成形があれだ。たぶん。
 そんな同情とも取れる気持ちを抱いてるとバレでもしたら、猛り狂うだろう男を目の前にして、私は意を決して両手を峰藤の右手へと伸ばした。驚いたように峰藤は目を見開いたが、その手を放すつもりはなかった。捉えた目から、手から、この気持ちが僅かでも伝わればいいと両手に力を込める。
「ありがとうございます」
 ひとことひとことを区切るようにはっきりと言えば、峰藤は困惑しながらも私を見つめ返す。その無防備な表情に戦慄が走ったがここは忍の一字。感情のまま奇声を発してしまえば、雰囲気はぶち壊しである。野生動物を手懐けるような緊張感に満ちていたが、そうして、おずおずと握り返された手には人間らしい熱が戻っていた。
「どういた、し、まして」
 いつもあれだけ流暢に日本語を駆使している峰藤がなんだかカタコト。
 そのギャップが面白くて私は思わず噴きだしてしまったが、それが気に食わなかったのか峰藤は衝動的に私の手を振り払った。ぽかんとている私に峰藤は片手で顔を隠しながら言いよどむ。別に気に触ったわけじゃない、とか何やら言っているが、咳払いを何度か繰り返し、必死に何かを取り繕おうと努力しているのだけは解った。
「それでは、私はこれで失礼します」
「は、はい、お気をつけて?」
 私がお見送りの定例文を口にすれば、峰藤は変なスイッチが入ったかのように怖い顔をした。
「それはこっちの台詞です――今後、桂木を含め、挙動が怪しい人間には付いていかないように。他人に物を貰うのもお勧めしません。それと祖父の事もけして全面的には信用しないでください」
 えぇ、桂木も含めるのか。挙動が怪しい人間イコール桂木拓巳ってそんなに間違ってないけど、曲がりなりにも自分の友人をそこまで断言しちゃいますか。更に自分の祖父まで信用ならないと申されますか。
 いろいろと言いたいことはあったが、峰藤の鬼気迫る説得に私は頭を縦にふるしかなかった。
「月が無い夜には特に注意してください。背後から不意に襲われる場合もあります。出来ることならば、護身用に何か武器を携帯できれば良いのですが。それから――また月曜から、朝、貴方を迎えに参ります」
 どこまでこの注意事項が続くのだろうとうんざりしていたが、最後に飛び出した宣言に私は意表をつかれる。とっくに登下校は有耶無耶になっていたと思っていた。峰藤はすっと柳眉を寄せる。
「付き添わせて欲しいのですが……迷惑ですか」
「いや、迷惑って訳ではありませんけど……えーと、あの、それじゃあ、峰藤副会長がお手数でなければ、よろしくお願いします」
 下手に出てくる峰藤、正直とてもやりにくい!
 私が肯けば、峰藤は肩から力を抜き、ふ、と笑みを浮かべる。そのふわふっわのマショマロを思わせる柔らかさに私は目を疑った。しかしそれは幻覚でもびっくりイリュージョンでもなんでもない。穏やかな笑みを浮かべた峰藤浩輝は凛としていてまるで知らない人のようだった。つまりすごく格好良いと思えてしまったのだ。非常に悔しいことに。
「今日は貴方と話ができてよかったと思います――傷、お大事にして下さい」
 ぴんと伸びた背中が段々と遠ざかってゆく。それを見送りながら私は自分反省会を行っていた。峰藤を格好良いだなんて大丈夫か私の視力……。桂木も造形的には整ってるが残念な性格で、峰藤だってそれとどっこいどっこいだったのに。まぁ、二人とも根本的な部分で悪い人ではないってことは解ってるが。もう今日はいろんな意味で疲れたから休んだほうがいいだろう。
 ひとつため息を吐けば、ぶるる、と携帯電話が震えた。噂をすれば影。ディスプレイに表示された名前に私は渋い顔になった。あまり気が進まなかったが、出ないことによって生じる不利益のほうが大きい相手である。私は覚悟を決め、通話ボタンを押した。
『こら、シャッツ!!!! 迷子か!!!! いまどこにいる!!!!!』
 脳天を突き刺す音量に電話を遠ざける。荒い息、焦った声から察するに怒ってるのと心配しているのが半々ってところだろうか。距離を隔てて本当に良かった。出会い頭に何らかの形で報復を受けかねない勢いだ。
「……実は今、家の前です」
『お前、勝手に帰るな!!! 誘拐されたかと思って心配するだろうがっ!!!』
「会長、私、何歳だと思ってるんですか。それに、会長だって私ほったらかして、遊びに行ってたじゃないですか!」
 むっとして言い返せば、少し頭を冷やしたらしい桂木はトーンを落とした。そして案の定、斜め上の言葉が返ってくる。
『なんだシャッツ……俺にかまって欲しかったのなら素直にそういえばいいものを、可愛くないぞ!』
「休日の子供に対する親みたいな事言うのやめてください! ――でも、心配をおかけしたのは申し訳なかったと思います。すみませんでした」
 素直にその言語が出てきたのは、さっきの教訓があってのことだ。あっさりと謝った私に桂木がはた、と黙り込んだ。
『素直すぎるシャッツも張り合いがないな。つまらんぞ』
「あんたは駄々っ子か!!!!!」
『そういえば、声のトーンが変わったな。何かいい事でもあったか? ふむ……藤のことが、片付いたとかそんなところか』
 げに恐ろしきは野生動物の勘である。容易く言い当てられて私は絶句したが、それに気づいた桂木は、お前のことだ、声を聞けばすぐに解る、と得意そうに笑った。
『根暗な眼鏡が路頭に迷おうが知ったこっちゃ無いが、お前が元気になったのは喜ばしいな――よし! 顔が見たくなった。そこを動くなよ!」
「は?」
 聞き返した時既に電話は切れていた。自由すぎる言動に私は唖然と携帯を見たが、それが答えをくれることは無い。ほんとうにあのひとじゆうすぎてどうにかしてほしい。
 桂木が今どこにいるかは解らないし、このまま外で待っているのは現実的ではなかった。とりあえず家の中に入っています、と一言メールを打とうと携帯に視線を落とした時だった。
 背後から伸びてきた黒い腕に私は口を塞がれる。身体と口を抑えつけられた恐怖感で私は腕を振り回したが、その腕はぴくりとも揺るがない。布から漂う強く甘い芳香を吸込み、意識が遠のく私が最後に目にしたのは、落下する携帯電話の明滅する光だったのだ。



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