無色透明な世界に、
 鮮烈な色を与えてくれたひと。
 そんな、ひとがいる。





 田辺夏生(たなべなつき)は八月生まれだ。
 そう言うと、解りやすい名前だね。と初対面の人に笑われる事が常で、夏生まれの癖してなまっちろくて、そのうえひょろひょろしているのとのギャップがおかしいのだろうと思う。
 現在の肩書きは文学部に通う大学生。
 特に頭が悪かったわけでもないが、確固とした目標も得意なもの無かったから、本を読むのが好きだという理由でなんとなくこの大学を受験した。人並みに一人暮らしというのにも憧れたから親元を離れこの春からはアパートで一人暮らしをしている。
 平凡を絵に描いたような人間なんだと、夏生は自分で自分をそう評価していた。その凡庸な体に型にはめられた既製品を巻きつけて、山も谷もないような毎日を過ごす。それが夏生の日常だった。
 彼との出会いがいつだとははっきりとは言えない。何が確固とした出会いの定義なのかはわからないが、四月の初めの講義では確かに同じ部屋には居たのだから”出会う”機会はあったのだろう。
 だけど、実際にその存在を認識したのは半年ほどたってからで、短い言葉を一言、それも一方的にぶつけられただけだった。――しかし、それは絶対的な力で夏生の心に消えない色を残したのだ。


「――夏生、今日飲み会あるんだけど、来ない?」
 そう声を掛けてきた曽根川由紀(そねかわゆき)はこの学校に入ってから出来た友達だ。
 明るくさばさばとした性格で、それでもって情には熱い人情派とくれば、嫌いになるほうが難しい。由紀はいろんなサークルを掛け持ちしているから、夏生と比べるまでも無く顔見知りも多いし、そんな由紀と仲良くなったのは、入学式で隣になったというなんてことのない偶然で。華やかな雰囲気を持つ彼女は平凡な毎日を過ごす夏生からしたらいまだに別次元の人なんじゃないかと本気で思ってしまうときもある。――そんな事を口に出せば、由紀に笑い飛ばされてしまうのだろうけど。

「――私?」
 その勢いに一瞬押されて、返事に戸惑っていると、由紀は呆れたような顔を向けた。
「あんた以外に夏生が居ますかっての。ねぇ? 田辺夏生さん?」
 区切るようにはっきりと名前を強調される。講義が終わったところだったから、教室にはたくさんの人が残っていて、夏生と由紀のやり取りを笑って見ていた。由紀は講義でもいい意味で目立っていたから、それは好意的な視線だったのだけれど、日頃、そんな視線にさらされる事のない夏生は顔に血が集まったような気がする。
「確かに私以外には夏生は居ないけど。行き成りだったから驚いたの」
 言い訳がましく夏生が言うと、短気な由紀はそんなことはどうでもい。とあっさりと切り捨てた。
「だから! イェスかノーかさくさく答える!」
「……今回はノーで」
「却下!」
 さくさく、とは言えないものの返した答えはすぐに却下されてしまった。それに夏生が驚いて目を剥くと、由紀はまるでなっちゃいない、とでも言いたげにやれやれと首を振った。その薄く瞑った目元にはけばけばしくない位のアイライナーがはっきりとひかれている。
「今回は、じゃなくて、あんた毎回断ってるでしょ」
「でも」
「でももだってもくそもないわけよ! 夏生!」
「曽根川、女がくそなんて言うなよ」
「外野は黙ってて。今夏生を必死で口説いてんだから!!」
 周りがからかってくるのに軽口を叩いて、くるりと由紀は夏生の方に向き直った。
「夏生がそういうの苦手だってことは知ってるけど、それも慣れだと思うよ? ……強制はする気ないけど、夏生が来てくんないと寂しいじゃん」
 夏生は由紀のそういう感情を素直に表現できる所も凄いと思っていた。押しは確かに強いけれど、人の気持ちもちゃんと考えられる。それは由紀の美点だ。
 アルコールは好きではないし、人が多いあの雰囲気もあまり得意ではなかったが、由紀が言うようにこれまで一度も参加したことはないし、由紀が寂しいといってくれ事も嬉しかったから、夏生は少し迷ってから頷いた。すると由紀の表情はまるでスイッチが切り替わったかのように明るくなる。
「ほんと? 田辺夏生に二言無しだよ?」
 由紀は変な諺を作って、夏生の肩をがっしりと掴んで念を押した。
「――私は男じゃないんだけど」
「勿論ですとも夏生様! ぴっちぴちの乙女だよね!」
 夏生がわざと拗ねたように言えば、由紀は慌てたように肩から手を離して、ご機嫌を取るように揉み手をする。その仕草は親父臭くて、由紀の折角の美人を台無しにしている。夏生は思わず笑ってしまった。
 そんな夏生の様子に気をよくしたのか、由紀はますます絶好調で、じゃあ今晩駅前の居酒屋八時集合ねと、言ってから勢いよく教室を飛び出していった。今日はスキーサークルの集まりがあるんだと言ってたような気がする。一度一緒に入らないかと誘われた事もあったが、寒いのが苦手だったから丁重に断ったのだ。

 ぼんやりと考えながらノートをしまっていたから、するりと手をすり抜けたノートが前の席に落ちてしまった。ばさりと床に着地したノートは体を開いて、丁度、通ろうとしていた誰かの歩みを止める。
夏生が焦って拾おうとする前に、その人物が軽く上体を曲げて拾い上げてくれた。乱暴ではないが、血管がうっすらと見える色白の手が、どこか無造作に机の上にノートを置く。
 つられる様に顔を上げると、夏生は一瞬言葉に詰まった。
 夏生がたった今受けていた講義は百人程度が受講している比較的大きなもので、総ての受講生の顔と名前は覚えてはいなかった。その中の多くは由紀の顔見知りだったが、記憶にすら引っ掛からないと言う事は、由紀の知り合いでもないのだろう。
 ぼさぼさで中途半端な長さの髪の毛と、小枝のように細くてひょろ長い体は重力の大きさに耐えられないかのように丸まっていて猫背だ。今時、どこで売っているのかもわからないぐらい厚い瓶ゾコ眼鏡はまるで顔を隠すかのごとくかけられている。
 ただ、その中で異様に鋭い眼だけが、射る様にこちらを見ていた。その視線に縫いとめられたように、夏生は息を詰めた。なぜかその瞳には、微かな敵意がこもっているような気もした。
 まるでメドューサに睨まれた状態の夏生は、唐突に逸らされた視線に呼吸を再開した。それはたった数秒のことだったはずなのに、夏生には何十倍にも長く感じられた。

「――礼も言えないのか」

 擦れ違った時に耳朶を掠めた声は透き通った海を思わせて、夏生は一瞬、耳を奪われた。―― しかし、それは確かに凍り付いていた。
 綺麗に尖った言葉は夏生の心をぐっさりと抉る。立ち竦む事しか出来なかった夏生を置き去りに、そのひとは教室を去っていった。