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 講義室は壇上で講義をする人物を見下ろすような造りになっている。そして講義を受ける生徒達の正面には講義で使われる大きめなホワイトボードがあった。
 講義室に足を踏み入れた夏生は無意識に視線を彷徨わせた。
 まるで幽霊を見ようとしているような好奇心と緊張がとくとくと夏生の鼓動を小動物に似せる。
 しかし結局その幽霊は夏生の眼に映ることはなく、彼女はようやく詰めていた息を吐いた。それは安堵と落胆とが半分づつブレンドされた奇妙な生ぬるさだった。胃の中が空っぽになるぐらいたっぷりと息を吐き出す。

「夏生? なにやってんの」
 軽くだが唐突に肩に置かれた手。それに夏生はびくっと体を不自然なほどに震わせた。
 しかし聞き覚えのある朗らかな声に、夏生は振り返りながら強張った顔を緩ませる。
 由紀の訝しげな表情がこちらを見返していて、夏生は誤魔化すかのように「おはよう」と笑顔を向けた。
「……まぁいいや。おはよ。座らないの?」
 それ以上は詮索せずに、由紀は椅子を顎で軽く指し、夏生は頷いて何時もの席に腰掛けると、講義の準備を始めた。
 ペンケースにノート、講義に使う教科書を取り出した所で、ドスンと隣に誰かが勢いよく腰掛け、夏生は反射的に顔を上げた。
「ギリギリセーフっと。――おはよ田辺さん。元気になった?」
 透が息を乱しながら、にかっと音が出そうな人懐っこい笑顔を浮かべている。
 夏生は一瞬気圧されながらも頷くと「お世話になりました」とどこか他人行儀に礼を述べた。それに気にした様子も見せず、やはり透は満足そうによかったと笑った。
 いつものことではあるが始業ベルとともに数人が慌しく教室に駆け込んできている。――その中に、あのひとの姿を見つけて、夏生はひゅっと息を呑んだ。

 視線が彼を追いかける。
 彼の頬の辺りにぴたりとくっついた視線は、はがれる事はない。
 ゆっくりと世界がスローモーションで動き彼は夏生を通り過ぎていく。そして夏生より三つほど前の列に席を取った。前回は夏生の前の列だったから、いつも決まった席に座るわけではないらしい。
 ぼんやりと彼を見つめていた夏生の目の前を、突然ひらひらと何かが舞った。それは透の掌で、夏生が気付いてこっちを向いたのを見てから、透はようやくそれを引っ込めた。
「何ぼっとしてんの? なんか面白いものでもあった?」
 透が夏生の視線を辿ろうとしたから、夏生は透の意識を逸らす言葉を探る。
「――もう、教授来てるよ」
「あ、ああ、そう」
 気の逸らし方としては下手としか言いようがなかったが、実際、中谷教授が出席を取り始めていたので、透も従って口をつぐみ大人しくなった。
 ほっと胸をなでおろし、こっそり夏生は彼を盗み見た。
 あの鋭い眼は黒板のほうを向いている。そうでなければ夏生は緊張してしまって、目を背けてしまっていただろう。
 彼は暗い色の服を纏い、背中を丸めて座っていた。
 あの不恰好なフォルムから、あんなに綺麗な声が聞こえたなんて信じられなかった。
 酷く冷たくて綺麗なあの声。
 
 ――もう一度聞いてみたい。

 やはり幽霊に憑かれてしまったように、夏生はそう願う。
 そして、それは先生の彼を呼ぶ声によって叶えられた。

「――はい」
 
 たったそれだけ。
 それだけの言葉に、夏生は頭が痺れるような感覚を覚えた。
 皆、何故、気付かないのだろうか? 平然としている受講生たちを信じられない思いで見回しながら、夏生は奇妙な高揚感に酔っていた。それはまるで秘密の宝物を見つけたような――。

 その日初めて、睦月朔(むつきさく)、それが彼の名前だと知った。
 彼の事を話題に出した時、由紀は少しだけ驚いた表情をしてから「見事に名前負けしてるよねあの人」と笑っていたけど、夏生はそうは思わなかった。それどころか由紀が朔に対して何の感情も抱いてなかった事に少しほっとした。そんな、自分自身に戸惑う。

 ―― 一月の冷たくて綺麗な、みえない月。

 夏生はまた無性に朔の声が聞きたくなった。