夏生はリノリウムの廊下を走っていた。
 パタパタとパンプスが乾いた音を立てる。めったに走ることの無い夏生の息は微かに上がり、落ちそうになった彼のレポートを慌てて持ち直した。
 教授に別れの挨拶を述べて、廊下に飛び出したときには彼の背中は見当たらなくて、夏生の足は焦りからか早足になる。彼がどこに行ったかのかなんてまったく予想が付かなかったけど、夏生は玄関のほうへと走り出していた。
 ――帰ってしまったのだろうか。
 外に出てあたりに視線をめぐらせる。玄関から正面の校門へと続く青々とした緑の並木に彼の姿が見えた。かなり遠い所に見える気だるげな背中が早くも無く遅くも無い速度で遠ざかっていく。それを出来る限りのスピードで追いかけて、夏生は考えるより先にその背中に声をかけていた。
「睦月くん!」
 校門を歩いている生徒が何事かと走っている夏生を振り返ったが、夏生はそんな事にも気にしている余裕は無い。心臓は運動不足と緊張の所為で早鐘を打っていたし、走りながらではそんなに大きな声ではなかったが、絶対に彼の所までは届いたはずだった。
 案外小さい頭が乗っかった首が傾いて、ゆっくりと顔がこちらへと向けられる。冷たい瞳が怪訝そうに夏生を捕らえたかと思うと、不快さに歪んだ気がした。
 そして彼は何事も無かったように前を向いて歩き出す。あからさまな無視だった。それでも夏生は怯みそうになる気持ちを叱咤して声をかけるが、それは嘘を吐けず微かに震えていた。
「むつき、君。待って……あっ」
 パンプスが脱げてずるりと足が滑り、夏生はバランスを崩した。それでも全身で倒れこまずに両手を突くだけですんだのは夏生にしてみれば上出来だったが、自由になった両手の変わりに白いB4のレポート用紙は赤茶色の石畳の上にバラバラに広がった。ずきずきと痛む掌は皮が剥けているに違いないし、情けなさと恥ずかしさでいたたまれなくなりながらも夏生はしゃがみこんだままでレポートを拾い集めた。雨が降っていなかったのが不幸中の幸いだろう。レポートからざりざりした砂を払い落としながら、夏生は深いため息を吐いた。
 ――なにやってるんだろう、私。
 かなりの数があったらしいレポート用紙は地味に転んだ割には、広範囲に広がってしまっている。風に飛ばされそうになった用紙を拾おうと夏生は腕をあわてて伸ばした。しかしそれは飛び上がる前にほっそりした指に捕まえられる。
 なんでその指を見ただけで解ってしまったのだろう。
 息が詰まるような緊張感に襲われながらも、夏生はその人物が他のレポートも拾い始めたのを見て、自分も拾う事に集中している振りをした。
 総てレポート用紙が拾い上げられてしまうと、ずっとしゃがみこんでいるわけにもいかず、夏生は立ち上がった。レポートを渡すために追いかけていたのだから、言わなければならない事なんて決まりきっているはずなのに、いざ向かい合ってその瞳を見てしまうと舌は痺れて言いたい言葉は出てこない。朔は冷たい眼と不機嫌そうな表情で夏生を睨みつけているし、何も言わない夏生にイライラしているのは明らかだった。
 永遠に続くかと思った沈黙を破ったのは朔だった。

「用が」

 冷たくて心地よい――朔の声が夏生の耳朶をうった。鋭すぎる視線から避けるように俯き加減になっていた夏生はそれに顔を上げる。
「あったんじゃないのか」
「あ、の」
 引っ掛かるように出た夏生の声は笑えるくらい情け無かったが、朔はくすりともしない。
「睦月君の……レポートを渡そうと思って、中谷教授から」
 それだけ言うのに夏生は全精力を使い果たした気がする。
 朔は手元のレポート用紙に視線をめぐらせてから、夏生に無言でその骨ばった手を差し出した。それに夏生が少し戸惑っていると、朔の表情は益々不機嫌さを増す。
「俺のレポート。――言わなくても解るだろう」
「ごめんなさい。これ、落としちゃって……」
 焦り過ぎたのか渡そうとしたレポート用紙は掴んでいた指の間を滑り、再び赤茶色の上にいささか大きすぎる紙ふぶきを降らした。
 酷すぎる失態に血の気が引いた。
 急いでしゃがみこむと、深い溜息が頭の上から降ってきた。それにびくりと夏生は体を震わせる。
「俺が拾うから、手は出さなくていい」
「でも」
「また落とさないって保証は無いだろう」
 言葉から、態度から感じ取れる拒絶。
 夏生は一秒ごとに朔の機嫌が悪くなっていくような気がした。やろうとしたことが総て裏目に出ている。勢いで自分から朔にレポートを返す事を提案した時の高揚感はしゅるしゅるとしぼむ。惨めさに泣きそうになりながらも、やはり落としたレポートぐらいは自分で拾うべきだと思った。
 涙目で唇を噛みながらレポート拾う夏生に視線を落とし、朔は一瞬開きかけた口をつぐんだ。そうして二人は無言でレポート用紙を拾い集めた。

「はい――ほんとに、ごめんなさい」
 集めたレポート用紙には細かい砂がついていて、夏生の手もざりざりする。今の心境とぴったりまっちしている。皮肉なものだ。
 精一杯自分の普段の笑っている顔を思い出して真似てみたけれど、形状記憶式でもない自分の表情は今、多分、凄く情けないのだろうと夏生は思った。朔は何を考えているのかわからないような無表情で夏生の手からレポートを受け取ろうと手を伸ばした。
 ――それが離れた時が最後。
 そんな言葉が一瞬頭を過ぎって、気付いた時には朔の怪訝そうな視線を受けていた。
 夏生の手は確りとレポート用紙を握りしめていたのだ。
 言い逃れの出来ない状態に追い込まれた夏生は激しく狼狽しながらも、ぎゅっと拳を握り締めると口を開いた。ここまで嫌われてしまったのだったら、最後までとことんやってやろうではないか。――ちょっとやけくそになっていたのかもしれない。

「あの時は、有難う」

 何の事だと、ぎゅっと朔の眉間に皺がよった。鋭い瞳は苛立ちで満ちている。萎みそうになる勇気を振り絞り、夏生は喉につっかえそうになる言葉を紡いだ。
「前にノートを拾ってくれて……お礼も、言ってなかったから」
 少しだけ鋭い瞳が揺らいだような気がしたが、それはすぐに変わらない冷たさを纏っていたから夏生の気のせいだったのかもしれない。

「そんな下らない事、忘れた」

 薄い唇が動いて、そこからは素っ気無く短い言葉が返ってくる。
 自分が忘れられなかったから相手も覚えているなんて勝手な思い込みだ。しかしそれに酷くショックを受けてしまうのは何故なんだろう。
 今度こそレポート用紙は手から離れて、朔の手元へと収まった。枚数をざっと確認するとすぐに行ってしまうだろうと思っていた夏生の予想に反して、朔は地面ばかりを見つめている夏生に向かい合っているようだった。
何か不都合があったのだろうか、と恐る恐る顔を上げると、やはり感情が見えない表情で朔はこちらをみつめている。
「あの」
「アンタ、いつも俺を観察してるだろう」
 唐突に指摘されたことに夏生は失語した。
 普通なら自意識過剰ですよと、一蹴できる類の台詞だったりもするのだが、それが事実であったし、まさか気付かれているとも思いもしなかった。青くなっている夏生の顔色に確証を得たのか、朔は不快さを含んだ声で夏生をばっさりと切り捨てた。

「俺は動物園のパンダじゃない。じろじろ見られて不快なんだよ、――気持ちが悪い」

 夏生は家に着き靴を脱ぐと上着をハンガーにかける。妙に疲れを感じ、ベッドに倒れこみそうになるのを我慢して、先にネックレスを外す為に首に手をやる。銀色のバレリーナが踊っているネックレスを小物入れに収めると、高校時代に使っていた髪留めピンが白熱灯の光を反射した。それはあの頃友達と一緒に買ったものだ。
 高校生の時、夏生は恋愛には興味が薄いタイプだった。もちろんカッコいい先輩に憧れてみたりとかはしたけれど、それはブラウン管を通してのアイドルを見ていることと同じだ。本当の恋愛ではない。だからこそ安心してそういった話に興じる事が出来たのかもしれない。
 そんな時、友達の頼みを断りきれなくて、同じ委員会だった相手の男の子に趣味は何だとか好きな子のタイプとか、とりとめもない情報を聞きだした時があった。夏生はそういう事に興味を示すタイプでは無い様にみえたから、彼は少し照れたような吃驚した様な表情をしていたのを夏生は覚えている。
 それから妙に近づいた彼との距離に夏生は戸惑ったのだが、三人で帰ったりする事を友達は凄く喜んでいたから、夏生も気にしないようにした。
 段々と増えていく三人での時間に次第に慣れ、ふと、いつか彼と友達は付き合うようになるのだろう。という漠然とした寂しさを夏生は感じ、それに気付かない振りを続けた。自分がどちらに対して嫉妬しているのか解らなかった。

 その頃、夏生はよくお化けの夢を見た。
 夢の中ではいつも夏生は薄い膜を通して世界を見ていた。それは無色透明で穏やかで永遠に浸かっていたいと思う退屈な世界。でもそこに居る限り、夏生は悲しんだり、怒ったりしなくてもすむのだ。総ての感情が曖昧で緩慢な世界。それを夏生の臆病な部分はとても愛していた。
 それなのにそのお化けは薄い膜に包まれ眠っている夏生を力ずくで引きずり出そうとする。そしてその腕で夏生を捕まえるとそっと目隠しをする。――それはいつもそうっと、気付かないように忍び寄ってくるのだ。

 葉が色を変え始める季節に、彼に好きだといわれた。
 嬉しいと思うより何かが変わってしまうことに恐怖した。
 首を横に振った夏生に彼は友達の所為かと聞き、それに答えられなかった夏生に彼は痛そうに顔を歪めて「田辺は卑怯だな」と言った。
 ずっと彼を見続けていた友達がその変化に気付かないはずが無く、彼女は泣きながら夏生を詰った。
「――私を理由に彼を振るの? そんなの卑怯なだけじゃない!」
 それでも夏生は首を縦に振らなかった。――でもそれは彼女のためなんかじゃなかった。
 錆び付いていくような関係に気付いていた。でも夏生にはどうする事もできなくて、周りから見ても不自然な夏生たちの態度は憶測を呼び、周りは無責任に噂をする。友達が彼を好きだったという事は、傍目から見てもはっきりしていたし、夏生を悪し様に言う彼女たちは正しかったのかもしれない。でも夏生は最後まで彼とは付き合わなかったし、避けられ話さなくなっていった友達を責めたりもしなかった。

 鮮やかに蘇りそうになる感傷を閉じ込めるように、夏生は髪留めを入れ物中にしまい、ベッドに腰掛けた。ゆっくりと体を倒せば、肉体的にも精神的にも疲れていたみたいで、一気に襲ってきた睡魔が夏生の思考力を奪う。ちゃんと服着替えなくちゃしわになる。と思いつつも、その抗えない欲求に夏生は次第にまどろんでいった。――夏生は久しぶりにお化けの夢を見た。