
もう何も感じないように、動揺しないようにと、心に言い聞かせてはいたものの、やはり講義の日が来ると夏生は自分が緊張していることを意識する。気後れてしているのが反映したのか、いつもより5分ぐらい遅れて講義室に入り、いつもの席に座った。由紀はまだ来ていなかった。
それからまもなくチャイムが鳴り、、由紀もそれと同時に飛び込んでくる。時間にきっちりしている彼女にしては珍しいことだ。少し寝不足なのか眠たそうな眼をしていながら、由紀はおはようと隣に腰掛けた。走ってきたのか、透は息を上げながら、滑り込みセーフ。その二人に夏生は顔を上げながら小さい声で挨拶をする。
「二人ともおはよう。由紀、なんだか眠そうだけど……大丈夫?」
「ん、ちょっとね。最近バイト始めたから」
「寝不足……なんだ曽根川。いかがわしいバイトか?」
いつもの調子で透は茶々を入れたが、本当に疲れているらしく由紀は少しはれぼったい眼で睨みつけ、馬鹿でしょアンタと一蹴した。その二人のやり取りを聞きながらも視線を落とした時計は開始時間より五分経過した所を指している。普段ならチャイムとともに教授は講義を始めるのが常なのに、教壇にその姿は見えない。他の学生も訝しげに思ったのか、ざわめきが大きくなり始めた時、一人の受講生が休講のニュースを運んできた。
「やった、ラッキー!」
「……これなら家で寝てたら良かったわ」
指を鳴らした透に反して、由紀は脱力し机の上にふせた。そして、体に鞭打って学校まで来たのに、と由紀はぶつぶついいながら、教材をバックの中にしまい始めた。
「珍しいね、中谷教授、風邪かな」
夏生が心配そうにそう呟くと、由紀はそーね。と首を傾げながら曖昧に同意した。
「教授も結構な歳だし、体調崩したのかもね」
「そういや、今年で定年だろ?」
「え、そうなの?」
ふと、透が思い出したように言った。中谷教授の講義を来年も取ろうと思っていた夏生は、知らなかった事実に落胆した。
「……教授の講義面白かったのに」
「まぁまぁ田辺さん。寂しい気持ちはわかるけど、最後はぱーっと盛大な宴会で送ってやろうぜ!」
「アンタはそれが目的でしょう?」
単純馬鹿。と付け足した由紀に、むっとして透は口を尖らせた。普通、成人間近の男子がやっても気持ち悪いだけだが、やや童顔の透の場合、その顔がもっと幼く見えるのみだ。
「煩ぇな! お前だって飲み会好きなくせに……って、あいつら」
由紀に負けじと言い返している途中で、透は不穏なものを目にして怪訝そうな表情になる。由紀と夏生も釣られる様に視線をやれば、そこには二、三人の受講生とそれに引き止められる様に立ち止まる朔がいた。朔は無表情だが、引き止めた側はにやにやと意地の悪い笑みが浮かべている。穏やかに話を、という雰囲気ではない。
嫌な予感を感じ透が動こうとした瞬間、悪意と好奇心に満ちた声が講義室に響く。殆ど人はいなかったが、それでも残っていた人は何事かと顔を向けた。
「なぁ睦月。風の噂で聞いたんだけどォ、お前高校のとき、人に大怪我負わせたってホント訳ぇ?」
「そんな面して、超不良だったとか? 人は見かけによらねぇよな」
微かに混じった笑い声も悪意を含んでいる。それは確かに人を傷つける事を目的としていた。
夏生の顔は瞬間的に強張ったし、由紀も透も不快そうに顔をしかめた。いつも無口で暗い朔が動揺するところでも見たかったのだろう。しかし朔は眉ひとつ動かす事もなく、まったく存在すら目に留めてもいないと言いたげに二人の脇を通り過ぎた。その態度が気に入らなかったらしい彼らは、ますます声を大きくして悪意を吐き出す。朔は背を向けていたが、その声は確実に彼にも届いているはずだ。
「何スカしてんだよ」
「馬鹿とはしゃべりたくねぇってサ」
「びびってんじゃねぇの?」
その嘲笑は、聴いていた生徒にも不快感を与え、眉を潜めたものもあれば、聞かなかった振りをしたものもいる。しかし誰も自分からは係わり合いにはなろうともしない。
下品な笑い方に怒りを覚えた由紀は拳を固めた。人の悪口にいちいち反応するほどお人よしではなかったが、ああいったあからさまなのは聞いてるほうも気分はよくない。
煩い、と怒鳴りつけようとした時、視界をすっと横切ったものに、由紀は目を奪われた。
「……そういうのは、止めてくれませんか」
一歩だけ踏み出し発した夏生の押し殺したような声が、彼らの笑い声を止めた。
夏生の声は微かに震えていたが、しっかりとした意思を感じさせるものだった。突然の参入者に彼らの不機嫌な視線が夏生に向けられる。夏生はぎゅっと指の関節が白くなるほど拳を握り締め唇を噛んだ。そうしなければ、それは震えてしまっただろうから。
「睦月君にも失礼だし、聞いてるこっちも不快なんです」
はっきりと言った夏生の瞳は彼らに据えられている。彼らも一瞬気圧されたらしいが、それくらいで黙るような愁傷な性格ではなかった。幾つもの悪意の視線は生意気な口を利いた夏生をとらえた。
「はぁ? 何、正義漢ぶってんの? 今時はやんねぇよソレ」
「ワルクチ言うのは止めてください! って学級委員ノリかよ。くっだらねぇ」
自分に向かってくる悪意は予想以上に深く夏生の心を付き刺した。――痛い。
頭の中が真っ白になり、血が冷やりと凍りつく。縮み上がる心臓はどくどくと血を流して、できれば夏生はその場から消えてしまいたくなった。
それでも。
それでも夏生は、朔を傷つけて欲しくはなかった。こんな痛みを朔が感じたのだという思いが、夏生をそこに留まらせた。あの冷たい瞳をこれ以上は凍りつかせたくは無かったのだ。
震えてしまう夏生の肩に気付き、相手はにやりと加虐的な笑みを浮かべた。
「それとも、まさかあの根暗に惚れてるとか?」
「ぎゃはは、マジかよ。悪趣味っ!」
「アンタ達、それ以上言ったら……」
我慢が出来なくなった由紀が、飛び出そうとした所を後ろから透が腕を掴んで引き止めた。それに文句を言おうと振り向いた由紀は透の厳しい表情に口をつぐむ。
「――お前ら声でかいんだよ。うるせぇ」
怒りを押し殺した低い声で透は唸った。そこからはいつもの陽気な様子など微塵にも感じられない。
「な、何だよ……田巻までいい子ぶってんの?」
顔見知りらしい透の豹変振りから強い怒気を感じ取った彼らは明らかに戸惑った。
「ごちゃごちゃ噂話するなら、人のいねぇ所でやれっつってんだよ」
へらへらしている透を見慣れている彼らからすれば、別人のようだったのだろう。彼らははっきりと怯み罵り言葉を呟きながらも講義室を出て行った。透はそれを鋭い視線で見送ってから、彼らの背中に中指を立てている由紀に呆れたように表情を崩した。
「……曽根川、お前ってほんっとに」
「何よ! 私だってね、あいつ等、めったんめったんにしてやりたかったのに。睦月は正直どうでもよかったけど夏生まで侮辱したのよ!」
ムカツク、をエンドレスで叫んでいる由紀は放って置いて、透はどこか呆然としている夏生の肩にゆっくりと触れる。それに夏生は、ガクンと膝から力を抜いた。透が慌てて支えると、それに縋り付くようにしながらも、講義室の椅子に腰を下ろした。
「……夏生?」
「田辺さん? 気分でも悪くなった?」
俯いている夏生を二人は心配そうに覗き込む。どこか呆然とした表情で夏生は弱々しく呟いた。
「……腰、抜けた」
一瞬顔を見合わせてから噴出した二人は散々わらったあと、口々に夏生を冷やかした。
「夏生、あんなにかっこよかったのに。最後はそういうオチなのね」
からかう様に言った由紀に同意しながらも透は少し感心したように息を吐いた。
「それにしても、田辺さんつぇえのな! 俺はてっきり曽根川がいの一番に喧嘩売ると思ってひやひやしてたからさ」
「――それ、どういう意味かしら?」
「血の気が多いんだよ、お前って」
「……結局、阻止したじゃない」
「あのなぁ、いくらなんでも、女が殴り合いの喧嘩はまずいべ?」
まだ不満そうな由紀を嗜めるように「お前も一応、女なんだし」と言った透は、一応という言葉に引っ掛かった由紀にエルボーを喰らわされていた。
「でも――田巻君もかっこよかったよ?」
夏生がそう素直に言うと、不意を付かれた透は恥ずかしそうに頭をかいた。由紀も渋々といった様子で認めた。
「まぁね」
「オイオイ、二人とも当然のこと言ってくれるなよ? 俺に惚れたら火傷するぜ?」
「――どうせホッカイロ程度の低音火傷が関の山ね」
由紀に切り捨てられていたが、その軽口は照れ隠しのものだと解っていたから、由紀も透を見直していたはずだ。ようやく夏生も強張っていた表情を緩め、穏やかに微笑む事が出来たのだった。
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