眼鏡の代わりに
“落ち着いてくださいね。ご両親とお兄さんが乗った自動車が事故に巻き込まれました――お気の毒ですが”
嫌だ。これは夢、夢なんだ。
仁美は上掛けを跳ね除けた。
「ああ」
頭を抱えて蹲った。
「お願いだよ。夢なら、お父さんとお母さんとお兄ちゃんだけでいいから。あの日を再現しなくていいから」
上掛けを抱き抱えてベッドの上に座り直した。
もう眠れない。ううん、眠りたくない。
ようやく日が昇ったところだ。
時間はたっぷりあるからお風呂に入ろう。大好きなバスソルト。お気に入りのタオル。なるべく気分を変えるように用意をした。
だが、そんなものは気休めでしかないのを仁美も充分判っていた。ただ、そうせずにはいられなかった。黙っていても涙は零れてきた。仁美は壁に頭をもたれると、そのまま動けなかった。
小一時間ほど湯舟の中にいるとようやく温まった気がした。
そしていつものように、髪を乾して洗濯機のスイッチを入れ帰宅時間に乾燥までを終えるようにセットする。そして花瓶の水を取り替え遺影の前で手を合わせた。
「おはよう。お父さん、お母さん、お兄ちゃん」
冷蔵庫を開けて牛乳を取り出した。朝食代わりのバナナを食べてから、お弁当を作った。
歯磨きをしながら、今日着ていく服を選んだ。口をすすいでから、服を着替えると申し訳程度に化粧をした。そして時代遅れの黒い縁の眼鏡をかけた。鏡の前で一呼吸付いてから独り言を呟いた。
「今日も頑張ろうね」
そして写真の前で言う。
「行ってきます。お父さん、お母さん、お兄ちゃん」
代わり映えのない毎日の生活。それをこなすだけで精一杯だった。
昨日の約束通り和紀は明日のスケジュール表をくれた。
「明日のスケジュールです」
よかった。明日は会議は入ってない。
仁美はほっと胸を撫で下ろすと自分の机に戻った。
「お見舞いに持っていく花を用意して欲しい」
和紀に依頼された。
「これから、ですか?」
仁美は壁の時計を見た。五時を回っていた。オフィス街の花屋は閉まるのが早い。
「五千円くらいで充分だから」
「お好きな花とかご存知ですか? 色でも構いませんけど」
「知らない。無難なところで纏めてくれればいい」
無難が一番難しいのに。
席に慌てて戻ると花屋に電話をかけた。花瓶がないことも考えてフラワーアレンジメントにしてくれるように頼んだ。
『お作りすることはできるんですけど、今日はもう配達の子が帰っちゃったんでお届けできないんです。申し訳ないですけど、取り来てもられますか?』
「はい、すぐ伺います。お店ってどちらでしたっけ? 駅、前、ですか……」
『ええ、ロータリーのすぐそばなので分かると思います』
駅前、ロータリー。単語を聞いただけで頭がズキッと痛んだ。
「分かりました」
仁美は電話を切るとPCの電源を落として荷物を持って席を立った。そして和紀に伝えた。
「二十分ほどお時間をください」
和紀は腕時計を見た。
「分かった。仕方ない。待つよ」
仁美は部屋を出てエレベータに乗った。エレベータから見える夕暮れ時は仁美を不安にさせた。
キライ。この時間はキライ。
駅前のロータリーに差し掛かると足取りが重くなった。
どうしよう。ここを通らないと花屋に行けないのに。
仁美は自分の気持ちを宥めすかして花屋の前に辿りついた。カバンの中の携帯が鳴っていた。会社の携帯。
「もしもし」
『佐藤さん、今どこ?』
樹の声だった。
「駅前の花屋です」
『そう。時間がないからそっちに寄る。そこで待ってて欲しい。いい?』
「はい。花屋の前にいればいいですか?」
『ロータリーの方がいいかな? じゃあ後で』
「あ、あの!」
既に電話は切れていた。
無理だよ。
可愛くラッピングされ、手提げ袋に入れられた花を受け取ると花屋を出た。駅前のロータリーには一般車用の送迎ゾーンがあった。そこに向かって歩こうとするが、足は動かなかった。涙が零れ落ちた。落ちるたびに、動悸が激しくなって息が詰まった。
「佐藤さん?」
目の前に現れた樹に仁美は搾り出すような声を上げた。
「どうして? ここには来たくなかったのに――」
花の入った手提げ袋を樹に押し付けると、仁美は駅に向かって走っていた。だが幾らもいかないうちに樹に追いつかれていた。
「佐藤さん」
仁美は腕を掴んでいる樹を振り払うように叫んだ。
「離して! ずっと待ってた。迎えにくるって約束してたのに――半年振りに会えるはずだった。でも会えなかった。お兄ちゃんに。もう少し早ければ、最期に声が聞けたのに……」
「ごめん。悪かった」
仁美は樹から顔を背けた。
悪かったって、社長は何も悪くないのに。
「許してくれる?」
樹の言葉に仁美は力なく頷き俯いた。樹はハンカチを差し出した。
「これで涙を拭いて。ちょっとそのまま電車に乗るのは止めた方がいい。送ってくから、おいで」
仁美は首を振った。
「いや、あそこはいや。行かない」
「分かったから。ちょっと持ってて」
樹は花の袋を仁美に渡し、仁美の空いた手を繋いだ。それから携帯電話を取り出した。
「あのさ、車移動させて。そうだな、ロータリー出てすぐ左手コンビニの前がいい」
樹は仁美に預けた花の袋を受け取ると、手を繋いだまま歩き始めた。コンビニの前に着くと同時に目の前に車が止まった。後部座席のドアを開けた樹は「乗って」と言った。仁美が言われるままに乗るとドアが閉められた。そして反対側に樹は回り乗り込んだ。
「出していいのか?」
和紀が不機嫌そうにルームミラーを覗いていた。
「ああ、出して」
なんか変じゃない?
仁美は隣の樹をそっと伺った。
「ん? ああ、和紀とは高校からの腐れ縁でね。二人の時はほとんどこんな感じだから。どっちが社長か分からないだろう?」
樹は笑った。
「で、見舞いに行くはずだよな。佐藤さんも連れてくのか?」
「連れてくわけじゃないけど。お前一人で行ってくれるわけ?」
「は? 冗談だろう? やだよ」
「じゃあ、大人しく運転しててよ」
「ったく。なんで俺が」
「僕は構わないよ。来なくても。お前のことを考えて提案したつもりだけど」
「分かってる。言うな」
樹は意味深な笑みを浮かべていた。
「着いたぞ」
和紀が駐車場に車を止めた。樹は動く気配を見せなかった。
「行ってらっしゃい」
「は? お前、俺一人に行けっていうのか? まさか」
「当たり」
「冗談じゃない!」
「だから、お前のことを一番に考えて言ってるんだよ。いいか、一人で見舞いに来たってだけで好印象だろう?」
「からかってるだろう?」
「心外だな」
「わーったよ、行きゃいいんだろうが。覚えてろよ」
和紀は運転席から出ると思いっきり音を立ててドアを閉めて出て行った。樹は窓を開けた。
「和紀、忘れ物」
「あ?」
「花、忘れるなよ」
和紀は不機嫌な顔で花の袋を受け取った。
「お前こそ、帰るなよ」
仁美は隣にいる樹を不思議そうに見ていた。
「なに?」
「いえ、見慣れない光景だったので不思議な感じがして」
「そうだね、社内じゃ見せないように気は遣ってるからね」
樹の手が仁美の眼鏡に伸びてきた。両手で蔓を摘まむとスルリと抜き、仁美の前髪を指ですい髪を耳にかけた。仁美は急にクリアになった視界に不安な顔をした。
「今のうちに化粧直したら?」
樹に言われて仁美は慌てて鏡を取り出した。
「うわっ」
仁美は真っ赤になって俯いた。樹の視線を避けるように化粧を直した。樹は外を見ている素振りを見せながら視界の端で仁美を捉えていた。
「落ち着いた?」
「はい。大丈夫です」
「よかった。さて、そろそろ可哀想な和紀を救い出して来るか」
樹は取り上げた眼鏡の蔓を両手で持つと仁美の顔にかけた。さっき耳に掛けた前髪を指で解き元に戻す。
「すぐ戻るから、ここで待ってて。いいね」
「はい」
仁美が頷くと樹は満足そうに微笑んだ。
樹は公言通りすぐ戻ってきた。
「お前な面白がっただろう?」
「いや? 理由がないだろう? 上手くやってもらわないと。僕の二年が無駄になる」
「そうだけど」
「信用されてないとはね。僕が運転するからお前助手席」
「なんで?」
「送ってやる」
「は?」
唖然としている和紀を尻目に樹は運転席に乗り込んだ。和紀は溜息をつくと仏長面で助手席に座った。
発進した車内は無言だった。閑静な住宅街のある家の前で車は停まった。
「お疲れ。後で探り入れとくから」
「お疲れ」
和紀は車を降りると後部座席の窓ガラスをノックした。仁美は慌てて窓を開けた。
「佐藤さん、見てくれは紳士だけど樹も男だから気をつけて」
仁美が驚いて目を見張った。
「おい。本人目の前で何言うんだ」
和紀はにっと笑った。電子メロディが響いた。和紀は慌てて携帯を取り出して背を向け「もしもし」と言いながら門の中に入って行った。
「佐藤さん、そのまま後ろに座っててもいいけど、どうする?」
助手席っていうのは気が引ける。このままだとお抱え運転手みたいだよね。
「えっと」
仁美が言葉を探すと樹はくすりと笑った。
「嫌じゃなければ前に座って」
「はい」
仁美は助手席に座った。樹は横目で仁美を見ながら、
「眼鏡外して。前髪留めるか、耳にかけておいて」
と言った。
「どうして、ですか?」
「嬉しいのか悲しいのか困っているのか、怒ってるのか、分からないから。ところで家どこ? 送ってく」
「いいです。どこかその辺の駅で降ろしてください」
「素直に送られればいいんだ」
仁美が躊躇いがちに駅名を言うと驚いた顔をした。
「うちと近い」
「そうですか」
特に何も話すことなく車窓からの景色を眺めていた。
「ここでいいです。この奥なんで」
仁美が指差すと樹はウインカーを出して曲がった。
「で、ここからは?」
「もういいです。本当にすぐですから」
「すぐなら、なおさら構わないだろう」
有無を言わさない樹の物言いに仁美は観念した。
「そこのポストを右に曲がってください。白いアパートが見えますよね。そこです」
樹はアパートの前で車を停めた。
「ありがとうございました」
仁美が頭を下げた。樹はスーツの内ポケットから名刺を出すと何かを書いた。
「お疲れ様。僕のプライベートの携帯の番号。何かあったら電話して」
仁美は渡された名刺を見て首をかしげた。樹は噴出すように笑った。
「分かんなきゃいい。だけど失くさないでね」
仁美は頭を下げた。車は動き出す気配がなかった。アパートの階段を登って玄関を開けた。ドアを閉めるとき覗いてみたが、まだ車は停まったままだった。
電話でもしているのかな。
ドアを閉めた。
樹は仁美が家の入るのを確かめてから車を発進させた。
送ってもらったせいで食材の買い物はできなかった。冷蔵庫を覗いて何ができるか考えていた。
そういえば携帯の番号を渡されたけど。なんで?
パタンと冷蔵庫を閉めて名刺を取り出した。印刷された文字の下に、手書きで書かれた番号とメールアドレス。首をかしげながら俊一の携帯の番号を選んだ。
『どうした?』
最近の第一声はいつもこれ。
「ちょっと聞いていい? あのね。携帯の番号を教えるってどういう時?」
『何それ。仁美ちゃん、ナンパされた?』
「え……? ち、違う」
『ホントに? 怪しいな。いい? 絶対掛けんなよ』
「違うから。変なこと聞いてゴメン」
『別に構わないよ。いつでも電話して』
「うん、ありがと」
携帯を閉じた。ナンパ? 社長が? 仁美は首をブンブン振った。
でも――最近、なんか構われてるかもしれない。どうして?
ベッドに寄りかかって座ると無意識にぬいぐるみを撫でていた。少し灰色になったシロクマ。ぐーっとお腹が鳴った。
ご飯、食べよう。
目覚まし時計の音で目が覚めた。
「夢見なかった……昨日泣いたのに」
変わり映えのない一日が終わろうとしていた。
「お先に。昨日の花、助かった。ありがとう」
すれ違いざまに和紀が言った礼の言葉に驚いて、仁美は振り返った。
「素敵な花で嬉しかったと伝言があったんだ」
「どなたのお見舞いだったんですか?」
「え? なんだ知らなかったのか。そこまで言う必要はなかったな」
和紀は一人で納得して会話を切ってしまった。
変なの。
「お疲れ様です」
仁美は頭を下げた。
帰ったんだ。まだ定時前なのに珍しい。明日、嵐だよ。片付けちゃおう。
トレイと布巾を持って社長室をノックした。
「失礼します」
と言いいドアを開けたと同時に「どうぞ」という声がした。驚いて声が裏返った。
「すいません。私勘違いして。てっきりお帰りになったと」
「西山さんが帰ったから?」
「はい」
あ、西山さんって言った。会社だからか。
「片付けていいよ」
「はい。何かお持ちしましょうか?」
「まだ当分帰れないから、お願いしようかな」
「はい。甘いものの方がよろしいですか?」
「そうだね。コーヒー以外にしてくれると嬉しい」
「はい」
部屋にあったカップを回収して給湯室へ行くと冷蔵庫から牛乳を取り出した。
ギリギリ足りるかな。
洗い桶の中に熱湯を溜めるとその中に牛乳パックを入れた。その間にポットにアールグレイとお湯を注ぎ砂時計をセットした。回収したカップを洗い終えると図ったように砂がなくなっていた。
温めたティーカップの中に温めた牛乳と紅茶を注いだ。スプーンと砂糖を添えて樹に持っていった。
「ありがとう。ロイヤルミルクティーか。ああ、ほっとする」
静かにドアを開けた仁美の背に樹が言った。
「佐藤さん、明日時間ある?」
振り返った仁美の顔は、なんでと言いたげだった。樹は苦笑した。
「デートしない?」
瞬きを繰り返しているだけで言葉は返ってこない。
「迷惑?」
樹の真剣な顔に仁美は首を振った。
「良かった。遠出したいから朝六時に迎えにいく。起きててよ」
「はい」
「念のため電話番号教えて。後でいいからメール頂戴」
「はい」
「警戒してる?」
「いえ、そんなことはないです」
「ならいい。少し早いけど、今日はもう帰っていいよ。お疲れ様」
「お先に失礼します」
仁美はぺこっと頭を下げてドアを閉めた。
夕食後、仁美は携帯電話を手に苦戦していた。樹にメールを書こうと思うのだが文章が浮かばなかった。書いては消し書いては消し、その繰り返しだった。
しまいには、『お疲れ様です。電話番号は080-xxxx-xxxx です』とだけ書いて送信ボタンを押してしまっていた。
脱力してベッドに倒れこむと『You've Got Mail』と音がした。
『忘れられたかと思った。動きやすい服で来て』
動きやすいってどんな? 海とか山とか? 社長のイメージから全然想像できない。少し考えて、
『どこに行くつもりですか?』
とメールを送った。
『伊豆の方。後は内緒。お休み』
内緒って……
『お休みなさい』
《続》
表紙 / 次項
作者 / 音和 奏
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