「くっそぉ。あの陰険ウサギめぇ!」
 アリスははたきをぱたぱたと動かしながら愚痴っています。峰藤の言葉の端々に感じる嫌味にアリスはいつも腹を立てていました。それは実は峰藤なりのコミュニュケーションだったのですが、アリスが知るはずもないのです。
 お掃除や洗濯に料理。
 アリスがするすべての作業にけちをつけてくる峰藤は小姑のようでした。
「メリーアン。買い物にいってきてくださいますか?」
 噂をすれば影。峰藤がやってきました。
 はぁ? 自分でいけばいいじゃん。とやさぐれアリスは返しそうになりましたが、ふと思い直してにっこりと笑顔を浮かべます。
「……いいですよ」
 いつもは一つ二つの文句を返してくるアリスが二つ返事で引き受けたことに、峰藤は気味が悪いといった顔をしました。正直な反応ですが、それはどこまでも失礼です。引き攣りそうになりながらも、アリスはあくまでも愛想良くします。
「では、卵一パックと、あわせ味噌を二百五十グラム。いいですか? この間のようにこうじ味噌と間違えないで下さい」
「……はぁい。ご主人様は仕事ですか?」
 峰藤の仕事は弁護士のようでした。どちらかというと検事のほうがおあつらえ向きじゃない? とアリスは思いましたが、どうやらそつなくこなしているようです。
 峰藤の背中を送り出すと、アリスはにやりと笑いました。
 今まで考えたこと無かったけど――逃げ出せばいいじゃない!

 もともと荷物もありませんでしたから、着の身着のままでアリスは家を飛び出しました。森のなかをアリスは軽い足取りで進みます。久しぶりのシャバの空気は格別でした。
 調子に乗ってずんどこずんどこ進んでいるうちに、アリスはとんでもないことに気がつきました。

「っていうか――ここどこ!?」

 その時、アリスの背後には漫画で言えば「ずーん」という効果音が表れていたことでしょう。そして、追い討ちをかけるようにだんだんとおなかまで空いてきました。
「こんなことなら食いもんかっぱらってこればよかった!」
 アリスは大いに悔しがりました。とぼとぼと肩を落としていたアリスが顔を上げると、大きな背をした草の間から煙が上がっているのが見えました。誰かいるかもしれない! アリスは樹を掻き分け進みました。大きな葉っぱをよけて覗いた先には、大きな大きなキノコがありました。その上では白髪を生やしたイモムシが煙管を銜え、白煙を吐き出しています。
「あのぉ、こんにちは。実は私、道に迷っちゃったんです。この森から出る方法ってご存知ですか?」
 ぷわぁ。
 ドーナツ型の煙を吐き出しながら、イモムシは無言でアリスに流し目を送りました。そして味わうように煙を深々と吸い込みます。
「あのぉ……おじいさん?」
 アリスはおそるおそるともう一度声をかけてみました。するとイモムシの目は悪戯っぽく細められ、目元には笑い皺が刻まれます。
「お嬢ちゃん。わりぃが”おじいさん”はよしてくれねぇか。俺にも『辰之進』ってぇ立派な名前があるからな」
「あっ、すいません!」
 アリスが慌てて謝ると、辰之進は苦笑しながらも、煙管をゆらゆらと揺らしました。
「まぁ、気にするこたぁねぇ。――で、お嬢ちゃん、迷子かい?」
「そうなんです! 実はこの森の先に住んでる意地悪ウサギにこき使われていたんですよ! それが嫌で家出してきたら、こうして道に迷ってしま……」
 ぐーきゅるるると、アリスのお腹の虫が一斉に鳴き出しました。辰之進は一瞬、目をまん丸にしてから、くくくと喉をならします。
「そのうえ、腹ぺこってぇわけだ」
「……ハイ、仰るとおりです」
 アリスが恥ずかしさの余り縮こまっていると、かかかと辰之進は豪快に笑いました。
「腹が減るってことは元気な証拠さ。今は持ち合わせがねぇから俺は何にもしてやれねぇが、この方向――」
 辰之進は煙管を持った手で、森のある方向を指し示しました。
「うまい茶を振舞ってくれるところがあるから、まっすぐ進むといい」
「はいっ! ありがとうございました!」
「いいってことよ。あぁ、一つ」
「はい?」
「チェシャ猫には気をつけな。わりぃ奴じゃねぇが、ちいとばかしおふざけが過ぎる場合があるからな」
 チェシャ猫って何だろう? 
 首を傾げつつもアリスはこっくりと頷きました。そして頭を下げると辰之進が教えてくれた森の向こうを目指します。

 そしてアリスはこの後、いやというほど辰之進の注意を実感することになるのですが、それはまた、次のお話。




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