行く先の彼の哀しみの




「で、その彼女さんってどんな子なんスか? 顔がわかんないと話の聞きようがないッス」
 紫香楽が尋ねると、和田は腕を組んでうーんと考え込んだ。趣味なのか特技なのか知らないが、いつもパントマイムなんてやっているせいだろうか。一つ一つの動作が大袈裟な気がする。
「どんな、と言われても、ごく普通の子だからなぁ……。いや、俺から見ればすごく可愛いんだけど」
 へへっと照れたように和田が笑う。
 まさか幽霊にノロケを聞かされるとは思わなかった。でもそれがとても人間くさく、僕は初めて幽霊に親近感というものを覚えた。体がなくなったことを除けば、きっと和田は、性格も話し方も、生前から変わったところは何一つないのだろう。こうしていると、ごく普通に友人と会話している気分になってしまうくらいだ。
「例えば芸能人でいうと誰に似てるとか、二人が出会ったきっかけとか、知り合ってどれくらいとか、いろいろあるじゃないスか」
「……紫香楽、質問の意図が変わってる。そうじゃなくて、一目見てその子だってわかる特徴はないのかってことだろ? 髪型とか、服装とか」
「そうそう。和田さん、毎朝その子のこと見てるんでしょ? 今日はどんな格好だったんスか?」
「今日の格好は……」
 和田は再び腕を組み、思い出そうと頭を捻る。
 毎朝電車に乗るのを見送り、毎晩電車を降りて帰っていくのを見届ける。
 それだけ聞くと、ともすればストーカーとして訴えられてもおかしくない。けれど、そんな和田に嫌悪感を抱くことはなかった。もちろん幽霊だからというのもあるが、彼の場合、守護霊に近いものがあるように思えた。そして同時に切なさも感じた。
 好きな彼女をただ見ているだけの日々。彼女はやがて、和田のことも忘れてしまうだろう。和田はそうして幸せになって欲しいと言っていたが――
 僕が和田の立場になった時、果たしてそう願うことはできるだろうか。彼女の中から自分の存在が徐々に消えていくことに耐えられるだろうか。彼女だけではない。自分と関わりのあった人々、かつて自分のいた場所、そのすべてから『僕』という存在が失われていくのだ。
 やがて僕がいた証はどこにもなくなるだろう。幽霊になった身ではどうすることもできず、ただそれを見ているだけ……。

「……い? 先輩? ちょっと、大槻先輩!」
「うわっ! え、な、何?」
「どうしたんスか? ぼーっとして。話ちゃんと聞いてました?」
「……ごめん、聞いてなかった」
 いつの間にか深く考え込んでいたようだ。紫香楽の呼び声も、和田の話もまったく耳に届いていなかった。一度思考モードに入るとなかなか抜け出せないのが僕の悪い癖だ。
 しっかりしてくださいよ〜、と紫香楽が呆れた顔をする。
「彼女さんは、白い膝丈スカートにグレーの花柄パーカー、プラス青いキャミソール。髪型はセミロングでちょっとウェーブがかかってる。ちなみに茶髪。といっても控えめ。美大生でいつも大きな画材道具を抱えてるので、それが一番の特徴。……で、オッケーッスよね?」
 紫香楽が早口言葉のように復唱すると、和田が頷いた。その記憶力に驚きだ。紫香楽ではなく、和田の。
「そこまで詳しく覚えているとは……」
「まぁあれだ、日課ってやつだ。道行く人の服装チェックが癖になっちまってな。それくらいしかすることねーし。俺、今ならファッション評論家になれるかもな」
 冗談めかしてそう言った和田は、この状態を本当に楽しんでいるように見えた。僕が一瞬でも捕らわれた哀しみなど、微塵も感じていないかのように。
 彼は強い。けれど、そんな彼を現世に留まらせている何かがある。ならばそれを突き止め、そのしがらみから解放してあげたい。
 僕は改めてそう思った。
「それで、その彼女はいつやって来るんだ?」
「帰りの時間はまちまちだからなぁ。今日はまだ来てないけど、大体七時くらいには帰ってくるはずだ。いつも東口から出てくから、そっちで待ってるのが一番だと思うぜ」
「七時ね……」
 ホームの時計を見ると、六時を回ったところだった。和田の言うとおりなら、彼女が戻ってくるまでまだ時間がある。
「どうする?」
「んー、じゃあ夕食でも食べながら時間つぶしますか? 先輩のおごりで」
「そうだな。おごらないけど」
「えー? いいじゃないスか。年配者がごちそうするのは当然のことッスよ」
「年配者じゃなくて年長者だろ! 僕はまだ二十代だ」
「ああ、下手すると俺より年下に見えますもんね、大槻先輩」
「そうじゃなくて!」
 つい声を荒げた時、背後でぷっと息を吹き出す音が聞こえた。振り返ると、和田が小刻みに肩を震わせている。しばらくそうして俯いていたが、やがてこらえきれずに笑い出した。
「それそれ! 俺、いっつもあんたらの漫才、楽しませてもらってるんだよ」
「……漫才?」
「いや〜、ホントいいコンビだわあんたら。最高」
 そう言いながらも和田は、文字どおり腹を抱えて爆笑している。……なんとなく不服だ。
「いいコンビだって先輩。いっそのこと、駅員辞めてお笑い目指すってのはどうッスか?」
「誰が! ……って、いつまで笑ってるんだそこ!」
「悪い悪い。でもそのおかげでこっちは退屈せずに済んでるんだぜ。特に大槻さんの反応が断トツで面白いから、ついなんかしたくなるんだよな」
「なんかって……じゃああのパントマイム、やっぱり僕をからかってたんだな!?」
「だって言葉が通じない以上、体でどうにかするしかないだろ」
 くくく、と笑いを押し殺している和田を見ているうちに、さっきまで真剣に考え込んでいた自分が、ものすごく無駄なことをしていたように思えてきてしまった。見れば、紫香楽までおかしそうに口元を歪めているではないか。
「なっ、お前まで……!」
「ほらほら、その反応が面白いんスよ、先輩」
「…………ッ」
 それ以上何を言っても自滅するだけなのは目に見えていたので、僕は仕方なく口を閉じた。後輩と幽霊、二人揃って馬鹿にしているようで、やっぱり不服だ。



 それから再びPrivateルームに入り、僕たちはいったん元の体に戻った。僕はすっかり忘れていたのだが、紫香楽の言葉でちゃんと眼鏡もかけ替えて。
 初体験ということを差し引いてもやたらと疲れる“バイト”だったが、帰り際の「お疲れさま」という佐川さんの微笑みが唯一の安らぎだった。

「先輩、最近うちの駅で人身事故ってありました?」
 紫香楽が突然なんの脈絡もなく尋ねる。僕は思わず口に運びかけた唐揚げを皿に戻した。
「やめろよ食事中にそんな話……」
「あ、すんません。でもなかったッスよね?」
「……僕の知る限りでは」
 ふうん、と呟き、紫香楽は何事もなかったかのように食事を続けた。
 僕たちは今、駅の東口にあるファミレスにいる。個人的には隣の居酒屋のほうがよかったのだが、ガラス張りのこちらのほうが、駅から出てくる人の流れが見えて都合がいい。それに忘れがちだが、目の前でエビグラタンをガツガツ平らげているこいつは、まだ未成年なのだ。いつも他の同僚に混ざって当然のように飲み交わしているけれど。というか熱くないのか。猫舌の僕にはとても真似できない。
 気を取り直してもう一度唐揚げに手を伸ばすと、横から現れた箸に一足早くかすめ取られてしまった。それで皿の上は空になる。目の前では、紫香楽がなんの悪びれもなく口をもぐもぐ動かしていた。
「……それで? それがどうかしたのか?」
「あれ、食事中は厳禁じゃなかったんスか? その手の話題」
「いいから話せよ」
 紫香楽はコップにつがれた冷水を一気に飲み干し、今度はカレーピラフに手をつけ始めた。体もデカいが、食もデカい奴だ。
「和田さんのことッスよ。先輩、いつ頃から和田さんの姿が見えてました?」
「……一ヶ月前くらい、かな」
「その間ずっとホームにいたでしょう?」
「いたけど?」
「ですよね。だから俺、最初和田さんを地縛霊だと思ったんス。ここの駅で飛び込み自殺かなんかした。でも誰に聞いてもここ一年はそんな事故起こってないっていうし、なんで和田さんがあそこにいるのかわからないんスよねー」
 僕でも地縛霊という言葉くらいは知っている。自分が死んだ土地や建物に縛られ、その場所から動くことができない幽霊のことだ。
 紫香楽の話を聞くまで、てっきり僕も和田さんが地縛霊の類だと思っていた。けれど言われてみれば、最近この駅で人身事故なんて起きていないし、駅前で交通事故があったという話も聞かない。だったらなぜ彼はずっとあのホームにいるのだろう。
 意外なことはもう一つあった。
「お前、そういうのちゃんと調べてるんだな」
「そりゃまぁ、バイトとはいえこっちも仕事ッスから」
 ピラフをかき込みながら、紫香楽は顔も上げずにそう答える。
 見直した、というのが正直な感想だ。思えば仕事覚えは決して悪くないし、むしろ優秀な部下でもある。先輩(というか僕)に対する礼儀がなっていないところを除けば。
 もし僕がこのバイトを続けるとしたら、今度は紫香楽が先輩ということになる。一気に立場逆転。なんだかそれもおかしな話だ。けれど、それもまぁ、悪くはないかな。
 と、そう思いかけた時だ。
「先輩! あの子、あの子じゃないッスか!?」
 突然、紫香楽が席を立ち、窓に貼りついた。その行動に当然のことながら店内の視線が集中する。しかし紫香楽はまったく気にする様子がない。
「ほら先輩! あの子ッスよ!」
 紫香楽の指差す先には、確かに和田の言った特徴にぴったり当てはまる女性が歩いていた。遠目にも大きな鞄を肩から提げているのが見える。
「紫香楽、わかったから声落とせって……」
「早くしないと行っちゃいますよ! 俺、話を聞いてくるッス!」
 そう言うや否や、紫香楽は風のようにファミレスを去っていった。すっかり周りの注目を集めた中、僕は一人残される。あとを追おうと逃げるように席を立った時、ふと視界の端に映ったものが足を止めた。
 お会計、2880円也。
「あいつ……!!」



 二人分の食事代を払って店を出ると、すぐ先で紫香楽が女性を引き止めていた。本当ならただちに代金を要求したいところだったが、今日一日のバイトで一万円入るのなら、三千円弱なんてどうってことない。それよりも、気になったのは和田の彼女のほうだった。
 服装も髪型も聞いていたとおり。ぱっと見た感じは、大人しそうな印象のある女の子だった。和田は「ごく普通の子」と言っていたが、派手さはないものの、僕から見ればじゅうぶん可愛いの部類に入った。けれど、その顔は今は曇っている。
「……なんですか、あなた」
 突然見ず知らずの男に話しかけられたんだ。それもこんなにデカい。当然の反応だろう。
「俺、紫香楽っていいます。いきなりすみません」
 やって来た僕が紫香楽の隣に並ぶと、女性は不安げな色をさらに濃くした。これではナンパか、さもなくば怪しげな勧誘だ。いったい紫香楽はどう説明するつもりなのだろう。まさか、亡くなったあなたの彼氏が今もホームをさまよっていますよ、とは言えまい。
 しかし紫香楽はあらかじめ理由を用意していたようで、迷うことなく言葉を続けた。
「こっちは大槻っていいます。俺たち、和田さんの高校の時の後輩なんです」
 なるほど、そういう設定か。それなら無理なく……って、ちょっと待て。俺“たち”? 僕もあのパントマイム大学生の後輩だっていうのか?
 悪いがこっちは大学などとうに卒業している。実に不本意極まりない設定だったが、ここであれこれ口を出しても面倒なことになるだけなので、大人しく黙っていることにした。僕が和田の後輩だということに、なんの疑問も抱かない女性には少し憤りを感じたが。
「今回のことは、本当に残念でした。俺たち、和田さんが亡くなった聞いた時、すごいショックで……。高校卒業したあとも、和田さんにはいろいろよくしてもらってましたから」
「…………」
「よかったら少し話できませんか? あの、その、ほら、えーと」
 それまですらすら嘘八百を並べていた紫香楽が、ここまできて言葉に詰まる。女性も不審そうにこちらを見つめていた。
「おい、どうしたんだよ」
 声をひそめて尋ねると、紫香楽は一言呟いた。
「名前忘れてました」
「え?」
「彼女さんの名前。和田さんに聞くの忘れてました」
「ああ!」
 どうしてそんな重要なこと……そう言いかけて言葉を呑んだ。それを失念していたのはこちらも同じだ。僕は慌ててたいして助けにならない助け舟を出した。
「あっ、わ、和田さん、あなたのことよく話してました。しょっちゅうノロケ話を聞かされて。それで、駅で見かけた時、すぐに噂の彼女さんだってわかったんです」
「はぁ……」
「そうッスそうッス。一緒に和田さんの思い出話でもしませんか?」
 二人してなんとかその場を取り繕うと、女性の顔から訝しげな色が消えた。その代わり、今度は戸惑いがありありと浮かぶ。彼女が口にしたのは、思いもよらない言葉だった。

「あの……誰ですか? 和田さんって」

「は?」
 思わず僕と紫香楽の声がハモる。先に我に返ったのは紫香楽だった。
「誰……って、あなたの彼氏じゃないスか」
「新手の嫌がらせか何かですか? 私、前の彼氏と半年前に別れたきりなんですけど」
「その彼氏! その彼氏が和田さんでしょう?」
「違います。……川村です」
 いつの間にか、女性の表情は戸惑いから怒りに変わっている。なんだか非常にまずい事態だ。
「で、でも、和田さんのことは知ってますよね? 和田直哉。年はあなたと同じくらいで、身長は……こいつより低いから、175cmくらい。いつもグリーンのニット帽をかぶってて……」
「先輩、いつも服装が同じなのは幽霊だからッス」
 紫香楽が小声でいらぬツッコミを入れてくる。
「うるさい! どういうことなんだよこれは。全然話と違うじゃないか。どうなってんだ」
「それは俺が聞きたいッス。人間違い……のはずはないし」
「じゃあ、あいつが嘘ついてたっていうのか?」
「そんなふうには見えなかったッスけど……」
 こそこそ口論していると、女性は苛立ちを含んだ視線を向けて言った。
「あの、もういいですか?」
「え!? いや、もう少しだけ待ってください。ちょっとこちらに手違いがあって……」
 何か引き止める口実はないかと思考をフル回転させていると、出し抜けに紫香楽が声を上げた。
「あ!」
「なんだよ!」
 僕も驚いたが、女性も驚いたようだった。とことん行動に統一性のない奴だ。いちいち振り回される身にもなって欲しい。
「俺、とんでもないことに気づきました」
「だからなんだ」
「和田さん、確かに『彼女』とは言ってましたけど、『付き合ってた』とは一言も言ってなかったッス。『彼女』って、俺たちが思ってたガールフレンドじゃなくて、『She』って意味だったんじゃないッスか?」
「な……なんだそりゃ。いじわるクイズか!」
 僕は思わず叫ぶ。紫香楽は一人納得したように頷いている。そんな男二人を前にし、女性の怒りと不信感は募るばかり。
 僕は、紫香楽についてPrivateルームに足を踏み入れたことを後悔せずにはいられなかった。こんなことになるんだったら、毎日半透明男のパントマイムに吹き出していたほうが平和だったかもしれない。

《続》


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作者/藍川 せぴあ