先生と白衣と保健室




「加奈ってやっぱりどこか抜けてるんだよねー」
「そんな、ストレートに言わなくたって……」
 ノートを提出した際、自分のノートを出すのをすっかり忘れていたという先日のエピソードを話すと、南は豪快に笑い飛ばしてくれた。
「それにしても、里見先生のところに遠藤もいたなんてね。すごい偶然」
「分からないところを聞きにいってたみたい」
「分からないところなんてあるんだ、あの遠藤にも」
 妙に遠藤君のことを気にかける南を不思議に思いつつ、加奈もあのときの様子を思い出した。
 里見先生に質問をしに来ていた遠藤君。夕焼けの教室。先生の眼鏡にも反射する光。――そう、眼鏡。遠藤君も眼鏡をかけていたはずなのに、そちらの方は驚くほど印象に残っていない。
「そういえば加奈、どれに出る?」
「え、なにが?」
 いったいいつ話題転換したのか。ついていけなかった加奈に南は肩をすくめて、
「来月の球技大会だってば。女子はバレー、バスケ、テニス、ドッヂボールの中から選ぶんだって。ね、同じ競技に出よう?」
「うん、もちろん」
 こちらこそお願いしたいくらいだ。
「どの競技が良い? 特にこだわりとか、ないんだっけ」
「うん。……あ、ドッヂボールはやだな。苦手」
「私も苦手。やっぱりバレーかな」
 中学時代、南はバレー部員だった。当然の選択だろう。
「南ちゃんのサーブだけで優勝できそう」
 背が高く、経験者の南のサーブは、男子でさえ怯んでしまうほどの威力とスピードを誇っていた。
 対する加奈は、これといって自信がもてる競技がない。
「じゃあ、二人ともバレーってことで、名前書いとくね」
「あ、うん」
 さっさと結論を出すと、南は教室の後ろに書かれた表に名前を書きに行った。あらかじめ生徒の意見を聞いておいて、偏っている場合にはその部分だけ調整をするというやり方らしい。幸い、二人の意見はそのまま通ることになった。
「楽しみだね、球技大会」
「そうだね……。先生たちも何かやるのかな?」
「先輩の話によるとね、去年は仮装リレーをやったんだって。で、おととしは二人三脚。今年はなんだろ……」
「っていうかそれ、球技じゃないんじゃ……」
 加奈は思わず突っ込んだ。まぁ、先生の競技はクラスの点数に反映されない。余興のような扱いなのだろう。
 ここに来て気になるのは、かの秀才遠藤君がどの競技に出場を決めたかだ。休み時間にひろかとともに何気なさを装って訊ねると、予想外の答えが返ってきた。
「審判〜?」
「そう」
 涼しげな顔でうなずく遠藤君。
「どうして?」
「体育祭実行委員になったからね。競技に参加せず、公平公正にジャッジメントする役回りだよ」
 さらりと言ってのける遠藤君に、加奈は恐る恐る口を開いた。
「競技に参加したくなかったから…とか?」
 その質問を受けたときの遠藤君の、クレバーな微笑みを、恐らくずっと忘れないだろうと加奈は思った。



 体育祭がこんなにも熱くなるものだとは、誰が予想しただろうか。まだ、大会までには一週間の余裕があるというのに、どのクラスも校庭や体育館、地域の公民館などを使って練習しているというのだ。加奈たちのクラスに敵の情報が入ってきたのが大会三日前。
「関東大会ベスト4の実力者か…。相手にとって不足なしね」
 窓の外を睨みながら不敵に微笑んでいる。
「み、南ちゃん、なんか人格違うよ…?」
「私はもともとこういう性格だったわよ。――負けられない戦いがあるわ、三日後にね」
 なにやらかっこよさげな台詞をはいている。もとバレー部員としては、プライドをかけた戦いになるのだろう。他のクラスメートもそれなりにやる気のようだ。それまで特に練習をしてこなかった加奈のクラスのバレー要員も、今日からとうとう特訓を始めることになった。
「さあ、みんな。時間がもったいないし、早く体育館に行こう!」
 南の声に、女子数名が元気に返事をした。

「だから、手はこうやって構えて……」
「ボール受けるときに目つぶったら見えないでしょ。ほら、もう一回ね!」
「サーブは下から打っても良いから、相手コートに入れることだけ考えよう」
「大丈夫、まだやれる? きつかったら少し休んでも……」
「まだやれます! よろしくお願いします!」
 南と、もう一人のバレー経験者主導の下、特訓は始まった。貸しきり状態の体育館の中、ボールの音と少女たちの凛とした声が響いている。スポ根マンガもかくやといわんばかりの熱の入りようだ。つられて、最初は控えめに参加していた加奈も力が入ってきた。腕が真っ赤になって目もあてられない状態になっているが、それでもさっきよりもうまくボールを受けられるようになった。南に誉められると、痛さなど吹っ飛んでしまう。
「なんか、勝てそうな気がしてきたね」
「当たり前じゃない。最初からそのつもりだよ、私は」
 頼もしい限りの南の言葉に、加奈も笑った。
 と、その時だった。
「加奈、危ないッ!!」
 振り向くと、白いボールが加奈をめがけて飛んで来ていた。とっさに手で頭をかばう。
 形容しがたい痛みが襲った。ボールを止めた指が、普段あまり曲げない方向に曲がった痛み。
「ッ……」
「大丈夫、加奈ッ!?」
「突き指した?」
 心配そうに皆が寄ってくる。
「だ、いじょうぶ……」
「もうちょっと説得力ある顔で言ってよね。――保健室、行ってきな」
「うん……」
 加奈が保健室に向かおうとすると、
「待って、保健室は今日はもう閉まってたよ」
 誰かが思い出したように言った。
 南がこれ見よがしにため息をつく。
「仕方ないなぁ、ほかに誰かいないのかな……」
 ため息が伝染していく。自分のせいで流れを壊してしまったようでいたたまれなくなってきた。
 帰るから、という一言を口に上らせようとしたときだった。
「どうした、何かあったのか?」
 体育館に男の人の声が響いた。
「あ、里見先生……」
 白衣をひるがえし、少し首をかしげた様子で先生が体育館へと入ってきた。すぐに、騒ぎの元になっている人物――加奈へと視線が映った。
「指をどうかしたのか?」
「突き指しちゃったみたいなんです」
「保健の先生は、今日は出張でいなかったんだな……」
 鼻の辺りに手をやってなにやら思案していた先生は、何か納得したように小さくうなずくと、
「分かった。僕が見てあげるから一緒にきなさい。――カバンを持ってきて」
「え、……あ、はい」
 てきぱきと指示をする先生に、加奈は思わず従っていた。クラスメートたちも、手放しで信頼している。というか、構内でもきってのイケメン先生に、半数は見とれていたようだ。
 ジャージ姿、制服とカバンをかかえて持って、里見先生の後についていく。先生は絶妙な歩行速度で――つまり加奈が追いつけるように、歩いていき、保健室へと入っていく。
「とりあえず、そこに座りなさい」
 パイプ椅子を指し示される。カバンを置きつつ、そっと辺りをうかがう。何の変哲もない保健室のはずなのに、空気がいつもと違う気がした。白衣の先生がいるというところまではあっているのだが、中身が違うからだろう。
「指を見せて」
「あ、はい」
 ぼんやりとしていた。慌てて手を差し出す。
 里見先生はまるで本物の医者のように的確な処置を施してくれた。ここは病院の診察室なのではないかと錯覚してしまうほどだ。
 それにしても、なぜだろう、落ち着かない。
「――その、」
「はい?」
 先生がポツリと呟いた。聞き取れなかった加奈は、瞬きをして聞き返す。
「……いや、なんでもない」
 なんでもないとは言いながら、先生の様子がおかしいのは一目瞭然だった。
 突き指の処置を終え、もう何もすることはないというのに、なぜか加奈を返そうとしないし、自分もそこから離れられずにいる。
 先生の視線が加奈のカバンに注がれていると気づいたのは、先生が口を開いたのとほぼ同時だった。
「突然だけど、持ち物検査をしようか」
「……え?」
 とっさに加奈が考えたのは、自分のカバンに今何かヤバいものが入っていないかどうか、だった。
 教科書、ノート、筆記用具、メモ帳、鏡とくし、制汗スプレー、南に貸していたマンガ、と思い出していき、ふと青ざめた。
 今日はウォークマンを持ってきている。登下校中に注意力散漫になるからと禁止されているにもかかわらず、だ。見つかったら没収されるに決まっている。
 加奈は内心で恐慌状態に陥った。
「どうした?」
 里見先生のメガネがきらりと光った。

《続》


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作者/月村 翼