スパイアイ大ピンチ!




 シンプルな絆創膏が貼られた自分の親指と中指に視線を落とし、高村はあまり品のよろしくない笑みを浮かべた。自分の部屋のベッドの上で仰向けになりながら、彼女が握っていた裾に視線を移してまたにまり。怪我の功名とはこのことだったのか、と先人が残したことわざに大いに高村は納得した。怪我した高村を保健室まで連れて行ってくれた後、席を外していた保険医の代わりに手当てをしてくれたのも彼女だった。人と喋るのもままならない高村にとって同世代の女の子と喋るなんて夢のまた夢。それだから気遣うような言葉には「あ」とか「うん」とか非常に曖昧な返事しか返せなかったけれど、彼女はそんな高村を笑うことなく終始優しい声をかけてくれた。ごろごろと悶えるようにベッドの上を転がっていれば、机の上に置いていたスパイアイが目に入る。どうしてあの時これをかけてなかったのかと、今更ながらに高村は悔やんだ。高村は彼女の名前すら満足に聞きだす事が出来ず、緊張の余り真っ白になった頭でお礼を言えただけでも上出来だ――盛大にどもってしまったけれど。明日はこれをかけて図書館に行こう。そう決心して、高村は幸福感に包まれながら眠りに落ちたのだった。

「高村! はよっ!」
「あ……おは、よう」
 コミュニケーションの基本、朝の挨拶を返すだけの事に、つっかえるわ変な力は入るわで高村の態度は非常にぎこちない。しかし、高村に話しかけてきた相手、湯島はそんな事には頓着せずに、高村にニカッと人懐っこい笑みを向ける。
<湯島誠十郎。感心、3時間目が提出日の宿題(科学)。手をつけていない>
 (昨日は数学、今日は科学か)
 高村は思わず噴出してしまった。訝しげに首を傾げた湯島に気付くと高村は慌てて誤魔化す。
「ゆ、湯島。実は今日も科学の宿題やってきてない……とか?」
「実はやってないんだな、これが。――あれ、今日は背中見せてないのになんでわかんの?」
 にやにやと笑いながらの湯島の言葉は冗談なのに、高村は冷や汗をかきながら脳みそから言い訳を搾り出す。
「その……さ。ほら、湯島の目が」
「俺の目が?」
「ほら、目は口ほどに物を言うって言うじゃない。なんか訴えかけてたって言うか……」
「そっか、俺の目がいろいろ訴えかけてたのかぁ――ってなんでやねん!」
 今日の誤魔化し方も昨日のに匹敵するぐらい酷い。湯島は一度頷いたが、ついに堪え切れなくてツッコミをいれた。そして高村にはなにが面白いのか解らないが一人で爆笑している。それがノリツッコミと呼ばれる高等技術であることも、初めて人からツッコミを入れられたというショックと喜びがごっちゃになった高村には解るわけが無かった。笑いつかれた湯島は涙を拭いながら呆然としていた高村の肩をばんばんと叩く。
「ははっ、高村って今まで気付かなかったけど、おもしれーのな!」
「え……あ、ありがとう」
 その反応もどうやら湯島のツボにはまったらしく、彼はまたも身体をくの字に折り曲げて腹を抱えている。
「湯島、何笑ってんだ」
 背の高い男子が湯島の笑い声に近づいてきて、高村はつられるようにそちらに目を向けた。
<大原翼。身長、179cm。体重、73kg。サッカー部所属。ポジション、フォワード。関心、湯島誠十郎が笑っている話題>
「高村がおっかしーんだよ」
「高村が?」
 クラスでは無口で愛想が無いと言われている大原に見下ろされて高村は緊張した。蛇に睨まれた蛙状態でじっと大原を見返す。すると新しい情報がスパイアイから流れ込んできた。
<感心、ワールドカップのチケット(日本対ブラジル)が取れたこと>
 高村は勇気を振り絞り、さり気無さを装って喋りだした。
「そういえば二人ともサッカー部、だよね。ワールドカップとか興味、ある?」
 高村がぽろっと出したワールドカップという言葉に、大原の目がぎらんと光る。
「――高村。お前、サッカー好きなのか?」
「あ……余り詳しくないけど」
 サッカーは今回のワールドカップの波もあって、にわかサッカーファンと呼ばれるくらいに興味があったから素直に頷く。すると水を得た魚のように大原は生き生きと話し始めた。
「俺、今度のワールドカップ、試合のチケット取れたから見に行ける事になったんだ。しかもブラジル対日本戦」
「す、凄いね」
「だろ? ジョルニーニョの黄金の右足。あのプレイが生で見られるんだぜ? あー、俺もう死んでもいい」
 クールなはずの大原は興奮しながら捲し立てていた。ぽかんとしていた高村に、湯島が笑いながら耳打ちする。
「大原さ、サッカーに狂っちゃってるから。こうなるとなげぇんだよな」
 大原が先日の試合のコーナーキックからの連携プレイは神業だったと、高村に説明しようとした所で始業のチャイムがそれを遮った。
「ハイハイ、大原そこまでな。二人とも続きは飯の時にしろよ」
「えっ?」
 湯島の台詞に反応したのは高村である。二人、続きは飯の時、それってつまりは。
「休み時間は、俺、必死に宿題片付けなきゃだからさ。飯の時だったらどんだけだって喋れんだろ。あれ、高村、昼に何か予定あんの?」
 湯島の問いに高村はふるふるふると高速で首を横に振った。その動きにも湯島は軽くうけている。大原の「来ないっつっても引きずってく」という台詞は怖かったが、上京して初めて一人ではない昼食が迎えられるのだと思うと高村は浮かれた――嗚呼、ありがとうスパイアイ! 
 こうして高村のスパイアイ二日目はバラ色で幕を開けた。

 湯島が言っていた通り、高村は大原とその他、サッカー部の面々と昼食を一緒にとることになった。初めは緊張の余り固まっていたが、湯島のお陰でそれもだんだんと解れたし、スパイアイから手に入れた情報を元に相手が興味のある話題をふれば、あとは高村はそれに相槌を打てばよかった。一つ高村を驚かせたのは、大原を筆頭にこれまではとっつきにくいと思っていた連中が、あんがい普通で話しやすかったことだ。昨日は人の隠れている部分に幻滅していたのに、今日は逆にそれを見直したなんて、なんだか不思議だった。
 まだ二日目だが、高村はスパイアイの使い勝手を殆ど掴んでいた。すべての情報を取り入れようとすると昨日のように脳が飽和状態になってしまうから、いらないと判断したものは切り捨てればいいのだ。そうしてさばいていく内に、もともと記憶力も悪くはなったから、高村はクラスメイトの情報はほぼすべて把握する事に成功していた。
 あっという間に放課後になり高村は意気込んで図書館に足を向けた。図書館の扉の前で、手鏡を取り出しスパイアイがしっかりと装着されているか確認する。鏡に映し出される自分の情報を見ながら、ついでに前髪も少しだけ整えておいた――他意はないぞと高村は心の中で言い訳する。ぎぃと立て付けの悪いドアを力を込めながら開くと、直線上に貸し出しカウンターが見える。人が来た気配がしたからだろう、カウンターに座っていた彼女は読んでいた本からふと顔を上げる。高村を見た彼女が、はっと息を呑んだような気がした。その小さな驚きが消えると、彼女はふわりと顔で笑う。高村はその柔らかさにみとれた。
「あ、昨日の怪我、大丈夫でした?」
「あっ、うん……お陰さまで」
 絆創膏の貼られた手を大丈夫だという代わりに振れば、彼女はくすりと笑った。
「えっと、高村君、ですよね。C組の」
「え、何で僕の名前」
「いつも本を借りていくし、私、図書委員だから」
 彼女は本を軽く持ち上げて、高村に悪戯っぽい視線を送る。
「そっ……そうだねっ」
 彼女が自分の事を知ってくれていたのだと思うと、高村のテンションはぐわっと上がった。脳みそはかっかっと沸騰し始めるし、熱を発している頬は確実に赤くなっているだろう。
「でも、その眼鏡……昨日はかけてませんでした、よね?」
「あっ……うん。最近かけはじめたんだ。でもまだ慣れてなくて、頭痛くなっちゃって」
 すらすらとでたらめが口を着いて出てくる。嘘ではないのだが、なぜかちくちくした罪悪感が高村を襲った。彼女はふぅんと相槌を打ち、高村の顔をじっと見つめてから桜色の唇から声を零す。
「眼鏡、とっても素敵ですね」

 高村自身が褒められたわけではないということは解っていたが、素敵な笑顔がオプションでついていた賛辞に彼は舞い上がり、ぼんやりとした夢見心地で家に帰ってきた。彼女の顔を思い浮かべては桃色吐息を吐き出す。今の高村は押しも押されぬ重病人。心のカルテにはピンク色のペンで恋の病と書かれていることだろう。胸が一杯で食欲も失せていたから、高村はそっとベッドの上に横たわる――がそこでようやく当初の目的を思い出し、はっと夢から覚めた。
 (あれ、ところで彼女はなんという名前だっけ?)

 小倉桂(おぐらけい)。身長、151cm。体重、秘密。文芸部所属。備考、ハト好き。
 これらはスパイアイから入手した情報ではない。ニュースソースは現在、高村の宿題をせっせと写している湯島である。思い出してみればあの時、スパイアイは桂の詳しい情報どころか名前すらも表示してなかった。今も教室の中をみわたせば、そこらじゅうに物の情報が溢れているし、スパイアイの故障ではない。
 あれから連日のように、スパイアイをかけ高村は図書館に行き桂に会ったが、やはり肝心の桂の情報だけが浮かび上がらない。初めはその謎を解明するために図書館へ通っていた高村だったが、そのうち”病気”がぶり返し、その目的は桂自身になっていた。桂は高村が図書館に来るたび挨拶をしてくれるようになったばかりか、二人以外に図書館に人がいないときは、高村の指定席まで近づいて世間話までしてくれる。さくらんぼのように熟れた唇と、ふわふわのわた飴のように甘い笑顔、つぶらな瞳を見つめているだけで高村は頭がぼーっとした。桂はとても聞き上手で、口下手な高村でも自然と自分の事を話す事ができた。にこにこと笑っている桂を見ていると、もしかしたら自分は桂に嫌われてないのだろうか、という幻想まで抱いてしまう。しかし高村がその甘い考えに浸りきれなかったのは、不可解な事が二つほどあったからだ。一つは、図書館以外で桂は高村をまるで知らない人のように振舞う事と、図書館で話す際にいつも一度は眼鏡について触れることだった。曰く。
「その眼鏡、かっこいいですね」
「どこで買ったんですか?」
「――高村君にすごく似合ってます」
 エトセトラエトセトラ。

「小倉は多少なりともお前に気がある。間違いねーよ」
 昼休み。屋上で高村にぴしりと指を突きつけながら、湯島ははっきりと断言した。
「え……そうかな」
 少し嬉しくなった高村は上ずった声で聞き返す。盛り上がる二人を横目にもそもそとカレーパンを頬張っていた大原がぼそりと呟いた。
「もしくは大の眼鏡フェチで眼鏡目当てだな」
 一瞬にして高村をへこませた大原を、湯島は肘で小突く。
「おい大原、茶化すなよ。……いいか高村。小倉は二人っきりになるのを見計らったように近寄ってくるんだろ? これはアピールされてるって!」
「でも人のいる前では近寄ってこないんだぜ?」
 また口を挟んだ大原を無視して湯島は、ずいっと高村に顔をよせて声を落とす。その悪戯そうに輝く瞳をみて高村は何とも嫌ぁな予感がした。湯島と昼食を共にするようになって一週間足らずだが、高村はスパイアイ抜きでもだいぶこの男の行動が予測できるようになってきたのだ。凄い進歩である。
「高村。今日、図書館いったら小倉に告白してこいよ」
「はぁ?」
 高村は今聞いた言葉が信じられなくて、咄嗟に漏らした声も裏返る。野次馬根性まるだしで湯島はあまりにも無責任な言葉を吐いた。
「お前ならいける! 男なら一発、ビシッと決めて来いっ!」

 無理。むりむりむりっ! 絶対にムリッ! ――って思ってたのになぁ。
 がっくりと肩を落としながら、高村は開いていた単行本に顔をうずめた。さっきから目は文字を素通りして脳にはまったく内容が入ってこない。湯島の提案を高村は必死に拒んでいたが「俺も付いてきてやるからさ!」と胡散臭げな笑顔で言い出した彼を黙らすには、首を縦に振るより無かったのだ。ちらりちらりと気になって桂に視線を投げかけるが、桂はいつも通り涼しい顔で読書に励んでいる。今日もスパイアイに情報は表示されない。しかし今の高村にとってそんなのはまったく些細な事で、頭の中を満たすのはまったく別の事。
 (やっぱり告白なんて無理だ。だってまだ出会って一週間足らずだし、むこうが自分の事を好いてくれているという確証も無いし。その前に、自分にはそんな事を言い出す勇気がこれっぽっちもない。あ、無理。普通に無理。男じゃなくてもいいからビシッと決めなくてもいいや。また明日……いや、来週とか、来月とか。とにかくも今日は無理! 諦めるっ! よし決めたっ!)
「何を諦めるんですか?」
「うわっ!」
 思いがけないほど近くで聞こえた桂の声に高村は椅子に座ったまま飛び上がった。高村が焦って周りを見渡せば、きょとんとした表情で桂がこちらを見ていた。図書司書は桂に絶対的な信頼を置いているのか、司書室から出てくることも稀だったし、人の来ない指定席にいる高村と桂は二人きり。高村の脳裏に湯島の「アピール」という声が鮮やかに蘇り、高村は無理矢理それを追い払うようにぶんぶんと頭を振った。不審な動きをしている高村に桂はくすりと笑ったようだ。
「どうしたんですか?」
「あ、うん。アハハハ」
 高村の笑い声も妙に乾いているし硬い。すると桂が高村の隣の席に何気なしに腰掛けた。その近さに思わず高村はのけぞる。余りの過剰反応に流石に気付いたのか、顔を青くしたり赤くしている高村に桂は心配そうな顔をした。
「どこか具合でも悪いんですか」
「あっ、えーと。大丈夫。ほら、慣れない眼鏡で目が疲れちゃって」
「――そう、でしたか」
 一週間前にも同じ言い訳を使っていたにもかかわらず、桂は考え込むようにしながらも納得したようだった。そして何を思ったのか、内緒話をするみたいに高村のほうへと顔を寄せてきた。女の子特有の甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐり、高村はこの瞬間、心臓麻痺で死ねると思った。
「高村君、――もしかして私に言いたい事、あります?」
「え、なんで?」
「だって、さっきから何度もこっちを見ていたから」
 その台詞には含みがあり、いつもの清楚な印象の桂とはどこか違っていた。なにかを面白がるような雰囲気もあり、微かな緊張感をはらんでいるようでもある。しかし、そんな微妙な桂の変化を理解するより先に、高村は気付かれていたのだという羞恥から頭にかっと血がのぼった。
「え、えっと、それは、その好――」
「はい」
 ゆるゆると穏やかに聞き返した桂に、高村は口を開く。
「――ハトッ! 小倉さんは、ハトが好きなんだってね!」
 ジーザス。やはり高村はどこまでもへたれだった。
「……はい?」
 さっきとは違った感じの、イントネーションで聞き返した桂に、しどろもどろと高村は言葉を続ける。
「校舎裏で時々、ハトにエサやってるって、友達に聞いたから。小倉さん、白い綺麗なハトを飼ってる、んだよね」
 スパイアイに頼れない中、うまいこと話題を繋げられたと高村は自画自賛していた。多少(かなり)強引だったものの、ピンチは切り抜けられた――と思うのは実はまったく間違いだった。
 桂はその話題にさっと顔色を変える。それは高村が予想をことごとく裏切った反応だった。機嫌を損ねたのだろうか、とびくついている高村を尻目に桂は諦めたような疲れたような眼をして、どこか投げやりな口調で言った。
「高村君」
「な、なに?」
「もう腹の探りあいは止めにしませんか?」
 桂の不穏な言葉に度肝を抜かれて、高村の頭の中ではクエスチョンマークがぱたぱたと飛び交った。その鈍い反応に桂は多少いらついたようだ。
「いい加減白を切るのはやめてください。これまでの一週間、演技だと知ってても騙されそうになりましたけど――そのスパイアイ。私の目を誤魔化そうったってそうはいきませんから」
 (ば、ばれてる! なんで!?)
 思いがけない人から思いがけない単語を聞いた高村は恐慌状態に陥った。高村が焦っている様子に、桂はようやく満足そうに鼻で笑った。
「私がスパイアイ遮断チップを持っていたことは、スパイアイを通して解った筈ですよ。私の正体を探るつもりで接触してきたんでしょうけど、それが裏目に出ましたね」
 いやいやいや、知りませんってそんなの! という心の声は桂が読心術が使えたとしても黙殺されていただろう。にっこりと花が綻んだような表情に反して、桂は悪役そのものな台詞を吐く。
「あなたも同業者……スパイだというネタは上がってるんです。痛い目にあいたくなければ、どこの機関に属してるのか何が目的なのか、とっとと吐いてくださいね、高村君」

 あんぐり。
 そう評する事ができないような間抜け面で高村は桂をまじまじと見た。
 スパイアイ、どんでん返しの大ピンチである。

《続》


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作者/佐東 汐